今週の礼拝メッセージ

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〈旧約聖書〉申命記 11:26-32

Deut. 11:26 見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。

Deut. 11:27 あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、

Deut. 11:28 もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。

Deut. 11:29 あなたが入って得ようとしている土地に、あなたの神、主が導き入れられるとき、ゲリジム山に祝福を、エバル山に呪いを置きなさい。

Deut. 11:30 この二つの山は、ヨルダン川の西のアラバに住むカナン人の領内を貫く街道の、更に西方にあって、ギルガルの前方、モレの樫の木の近くにある。

Deut. 11:31 あなたたちはヨルダン川を渡って、あなたたちの神、主が与えられる土地に入って、それを得ようとしているが、それを得て、そこに住むときには、

Deut. 11:32 今日、わたしがあなたたちに授けるすべての掟と法を忠実に守らねばならない。

 

〈新約聖書〉ヘブライ人への手紙 3:7-19

Heb. 3:7 だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、

Heb. 3:8 荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。

Heb. 3:9 [‐ 10] 荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』

Heb. 3:11 そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」

Heb. 3:12 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。

Heb. 3:13 あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。— — 

Heb. 3:14 わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。— — 

Heb. 3:15 それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」

Heb. 3:16 いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。

Heb. 3:17 いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。

Heb. 3:18 いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。

Heb. 3:19 このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。

 


「聖霊は『今日』と言う」

「聖霊は『今日』と言う」

聖書 申命記 11:26-32、ヘブライ人への手紙 3:7-19

2019年 2月 17日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣

 

私たちは毎週の礼拝の中で「使徒信条」を用いて、

世界中の信仰者たちと一緒に、

また歴史上のすべての信仰者たちと一緒に、信仰を告白しています。

この使徒信条の後半で、私たちはこのように告白しています。

「わたしは聖霊を信じます」と。

私たちが信じる聖霊とは、一体どのようなお方なのでしょうか。

聖書の証言によれば、十字架にかかって死んで、

死者の中からよみがえったイエスさまが天に昇り、

ご自分の弟子たちのもとを離れた後に、

イエスさまを信じるすべての人々に与えられたのが、聖霊なる神です。

聖霊は、ヨハネ福音書では、「弁護者」と紹介されています。

「弁護者」と訳されている、パラクレートスというギリシア語は、

「助け主」や「慰め主」と訳されることもありますが、

もともとは「傍らに呼ばれた者」という意味を持っています。

つまり、私たちが祈り求めると、傍らにいてくれる。

そして、私たちが叫び求めると、助けや慰めを与えてくれる。

聖霊とは、そのようなお方なのです。

何よりも、すべての信仰者に聖霊を与えることを通して、

イエスさまはすべての者の傍らに立っていてくださいます。

聖霊こそ、私たちと父なる神、

そして私たちとイエスさまを結び合わせてくださるお方なのです。

ですから私たちは、聖霊が与えられているという事実を、

使徒信条を通して、喜びをもって告白するようにと招かれているのです。

「わたしは聖霊を信じます」と。

このように、私たち一人ひとりに与えられている聖霊について、

ヘブライ人への手紙の著者は、きょうの箇所において、

詩編95篇を引用しながら、とても印象的に語っています。

 

だから、聖霊がこう言われるとおりです。

「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、

荒れ野で試練を受けたころ、

神に反抗したときのように、

心をかたくなにしてはならない。(ヘブライ 3:7-8) 

 

著者は、詩編の歌い手の言葉を引用しているにも関わらず、

「詩編の詩人がこのように歌ったとおりです」とは言わず、

「聖霊がこう言われるとおりです」と語っています。

つまり、かつてこの詩編を通して神を賛美した人々の言葉が、

聖霊の働きを通して、神の言葉となるのです。

詩編の言葉を通して、時代を越えて、

聖霊が私たち一人ひとりに語りかけていると、

著者は私たちに伝えているのです。

「聖霊がこう言われる」と。

それでは、聖霊は私たちに何を告げているのでしょうか。

詩編の言葉を通して、聖霊はこう言われます。

 

今日、あなたたちが神の声を聞くなら、

荒れ野で試練を受けたころ、

神に反抗したときのように、

心をかたくなにしてはならない。(ヘブライ3:7-8)

 

著者によれば、聖霊は「今日」と言います。

聖霊が私たちに語りかけてくる「今日」とは、

著者によれば、詩編が歌われた時代のみを指すのではありません。

すべての人々にとっての今、この時、この瞬間という意味を込めて、

著者は、聖霊があなた方に語りかけていると、伝えているのです。

「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、

心をかたくなにしてはならない」と。

聖霊が私たちに語るのは、

「昨日」でも、「明日」でもないことに、

私たちは注意を向けるべきだと思います。

神を信じなかった日々を、

神を信頼できなかった「昨日」という日々を

著者は、問題としているのではありません。

神に心から喜んで従うことが出来た、

過去のあの時に思いを向けているのでもありません。

また、今日は忙しいから、明日なら時間があるから、

「明日、神の言葉に耳を傾ける」というわけにもいきません。

著者が問題としているのは、

今日、今この時、この瞬間に、神の言葉に耳を傾けることです。

聖霊が私たちに語りかけるのは、

「今日、今この時、この瞬間に、神の声を聞きなさい」ということです。

私たちは「昨日」を生きているのではありません。

また、「明日」を生きているのでもありません。

私たちは、「今日」という日が連続する日々を生きています。

毎日が、神が語りかける「今日」という日なのです。

今日という日々において、聖霊は私たちと共にいて、私たちに向かって

「今日、神の声を聞きなさい」と促し続けているのです。

ところで、著者が引用している詩編が示す舞台は、

かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が、

荒れ野を放浪していた時代です。

彼らは、今日、神の声を聴くことを拒否することがありました。

水や食料が何不自由なく手に入った、エジプトでの日々を思い出し、

昨日という時間に身を置きながら、荒れ野を彷徨っていました。

荒れ野という何もない、死の力が支配する場所で、

彼らは心をかたくなにし、

神の語りかける言葉を聞こうとしませんでした。

荒れ野という状況が持つ力に、

イスラエルの民は飲み込まれていたのです。

将来の希望も、喜びも失い、

神への不満ばかりが心に溢れ、

自分たちの身を荒れ野に置いた神を呪いました。

しかし、荒れ野のように

死や諦め、落胆や失望が支配する状況の中でこそ、

彼らは神の言葉に耳を傾けるべきでした。

死の力が支配する荒れ野において、

神の言葉は命を与える光でした。

神の言葉こそ、将来の希望を指し示す原動力でした。

神の言葉に耳を傾ける時にこそ、

神が与えると約束された未来が私たちの前で開かれるのです。

神が与えると約束された未来とは、「安息」です。

確かに、荒れ野を旅しているけれども、

荒れ野での日々は永遠に続くものではなく、

神が約束された地に、安息の地に辿り着くのが、この旅の終着点です。

約束の地を与えたいからこそ、神はエジプトから彼らを解放し、

一時的に、荒れ野での生活を与えました。

そのことを荒れ野の旅の中で思い起こさせるために、

聖霊は「今日、神の言葉を聞け」と語りかけ続けているのです。

それは、旧約聖書の時代も、ヘブライ人への手紙が記された時代も、

そして、今の時代も変わることがありません。

もちろん、文字通りの荒れ野の中を歩むことはないかもしれません。

けれども、荒れ野と思えるような状況の中を

歩む経験をすることが私たちにはあります。

先が見えないこともあれば、

喜びを見いだせない苦しい状況に置かれることもあります。

失望のあまり、今日という日に、聖霊が私たちに語りかける声に

耳を傾けられなくなることがあります。

でも、たった一人で、そのような荒れ野の中を歩み、

孤独の中で、神の言葉を聞くような旅に

私たちは招かれているわけではありません。

私たちが招かれている信仰の旅路とは、

「今日、あなた方は神の言葉を聞きなさい」と、

聖霊に語りかけられている旅です。

この信仰の旅路において、私たちがいつでも思い起こしたいことは、

神から「あなたがた」と語りかけられていることです。

だから、ヘブライ人への手紙の著者は、

このように私たちを励まします。

 

あなたがたのうちだれ一人、

罪に惑わされてかたくなにならないように、

「今日」という日のうちに、

日々励まし合いなさい。(ヘブライ 3:13)

 

もしも、今日、今この時、

神の約束に目を向けられなくなったならば、

私たちは、誰かの助けを求めることが出来ます。

キリストを信じて歩む仲間たちとの交わりの中で、

今日、あなたは励ましを受けることが出来ます。

そのようにして、私たちは一緒に、

神の言葉に耳を傾けるようにと招かれているのです。

私たちは出来ます。

聖霊は私たち一人ひとりをつなぐ、愛の絆だからです。

聖霊は今日も、あなたに語りかけています。

「今日、あなた方は神の声を聞きなさい」と。

それでは、今日、神は、あなたに何を語りかけられているのでしょうか。

聖霊の促しを通して、人との出会いを通して、

私たちが経験する出来事を通して、

神は私たちに語りかけておられます。

何よりも、聖書に記されている言葉を通して、

神はいつもあなたに語りかけています。

ただ、現代人にとって、

耳を傾ける必要のあるものが数多くあるのは確かなことです。

しかし、それでも、私たちは何よりも、神の言葉に耳を傾けましょう。

聖霊を通して私たちに語りかける、神の言葉にこそ、

私たちは、まことの命を見出すことができるのですから。

私たちに罪の赦しを宣言するのは、

神の言葉以外にありません。

神の言葉を通してのみ、私たちは、

永遠の生命の希望を知ることができます。

聖霊は「今日」と言います。

「今日、神の声を聞きなさい」と。

だからこそ、私たちはいつも心に留めましょう。

「今日、神は私に、私たちに、

何を語りかけているのだろうか」と。

それは、共に生きる人々を愛することでしょうか。

具体的な行動を起こすことでしょうか。

祈ることでしょうか。

誰かを赦すことでしょうか。

忍耐強く待ち続けることでしょうか。

どうか、今日、聖霊を通して、あなたに語りかける神の声に、

しっかりと耳を傾けることが出来ますように。

そして、あなたの信仰の旅路にいつも伴い続けてくださる、

聖霊の導きに信頼して、その身を委ねることが出来ますように。

聖霊は「今日」と、あなたに告げています。

だから、私たちは「今日こそ、

主の声に聞き従わなければ」(詩編 95:7)なりません。


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