「復活の主イエスに希望を置く」

説教題 復活の主イエスに希望を置く

聖書 コリントの信徒への手紙 第一 15:12-20、エレミヤ書17:5-10

日時 2015年4月12日(日) 礼拝

説教者 稲葉基嗣牧師


【コリント教会の問題:死者の復活の否定】

パウロはコリント教会の人々に、「最も大切なこと」として、福音を伝えました。

あなたがたが受け入れ、生活の拠りどころとしている福音とは、

「キリストが私たちの罪のために死んで、葬られたこと」、

「キリストが三日目に復活したこと」、

そして、「復活の主キリストが多くの人々の前に現れたこと」である、と。

パウロは、この最も大切なことについて述べる際、

3点目のことである「復活の主キリストが多くの人々の前に現れたこと」を特に強調しました。

しかし、彼はこの手紙の15章全体では、2点目を強調しています。

確かに、キリストは死者の中から復活したのだ、と。

パウロは言います。

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。(Ⅰコリ15:12)

どうやら、コリントの教会では、死者の復活を否定する人々がいたようです。

これこそ、パウロがコリント教会へ宛てた手紙の中で、

キリストの復活というテーマについて触れなければならなかった理由です。

コリント教会が抱えていた問題は、私たちにとっても重要な問題です。

それは、常識と経験に基づいて物事を考えるならば、

キリストの復活などあり得ないことなのですから。

しかし、そのようなあり得ないことこそ、

私たちが受け取り、信じている「最も大切なこと」なのです。


【死者の復活がなかったらどうなるか?】

「コリントの教会の中に、死者の復活を否定する人々がいる」

という話をパウロが聞いた時、

死者の復活の否定は、キリスト教信仰の全体を崩すことになると、

彼は感じたことでしょう。

死者の復活などないと、誰が主張しているのかについて、

パウロは何も書いていません。

おそらく、ほんの一握りの人たちが主張していたのでしょう。

しかし、コリント教会の中には、復活について確信を持てない人たち、

死者の復活などないと主張する人々の意見を聞いて、動揺する人たちがいたことでしょう。

だからこそパウロは、コリント教会全体のために、この問題を取り扱うことを決めたのです。

この問題にどのように向き合うべきか、悩んだ末、彼は問い掛けることから始めました。

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。(Ⅰコリ15:12)

パウロは、12-19節で、「死者の復活がなければ」と、仮定法を用いて議論を進めています。

つまり、パウロはコリント教会の人々に提案をしているのです。

「もしも復活がなかったとしたらどうなるか、試しに検討してみなさい」と。

パウロが導き出した結論は、大きく分けて2つです。

ひとつは、キリストの復活がなければ、「わたしたちの宣教は無駄である」(14節)ということです。

もしもキリストが復活していないなら、

「キリストが復活した」と偽りの証言を人々に伝えることになるからです。

その上、宣教が無駄になるばかりでなく、宣教した本人たちが神に偽証人として見なされます。

そして、パウロは2つ目の結論について、このように述べています。

キリストの復活がなければ、「あなたがたの信仰は無駄」(14節)であり、むなしい(17節)、と。

それは、キリストの復活がなければ、キリストは罪に対して敗北したままになるからです。

罪に対して敗北したままになるということは、

イエス様が私たちの罪を背負って、十字架に架ってくださったということさえも、無意味になってしまうのです。

パウロはこのように言っています。

キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。(1コリ15:17-19)

復活がなければ、宣教も、信仰も無意味になり、

キリストを信じて生きる私たちは、惨めで、愚かな者となる。

復活がなければ、キリストは希望とはならない。

これが、パウロが最終的に導き出した結論です。


【しかし、実際は!】

パウロの言葉は、復活を否定する者たちの心に不安を引き起こしたことでしょう。

復活を否定するならば、罪の赦しは保証されず、

天の御国も、永遠の命も、自分たちのものとはならないという結論に辿り着くからです。

ここでのパウロの狙いは、コリントの教会の人々を不安にさせることです。

どうにかして、彼らが死者の復活を確信するようになって欲しいからこそ、彼は厳しく語るのです。

キリストを信じていると言いながら、死者の復活を否定することは、

最も大切なことである福音を否定することに繋がってしまうのですから。

ですから、パウロは彼らに不安を抱かせたままで、話を終えることはしませんでした。

コリント教会の人々に、この福音を受け取って欲しいという願いを込めて、パウロは再び語り始めます。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。(1コリ15:20)

「しかし、実際」と、パウロは力強く語ることにより、

これまで述べてきたことを覆し、コリントの教会に希望を与えるのです。

「しかし、実際は、異なる」と。

もしもキリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教も、信仰も無駄で、

私たちは最も惨めな者です。

しかし、実際は、異なる!

キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となったのだ、と。

ここで「初穂」と訳されている言葉は、ギリシア語で「アパルケー」という単語です。

「アパルケー」とは、「はじめ」という意味の言葉「アルケー」を強調する形を取った言葉です。

キリストは、眠りについた人たちの「はじめ」となった、とパウロは言っています。

それは、死者の中から復活する、という「はじめ」です。

そう、私たちの力では決して開くことのできない道を、主イエスは通ったのです。

死を打ち破り、復活するという出来事は、主イエスが「はじめ」に経験したのです。

「はじめ」ということは、その後に続く人たちがいる、ということです。

それは、眠りについたすべての人々、つまりすべての死んだ者たちです。

キリストが「はじめ」の者として復活したから、

キリストにあって、すべての者は復活するという希望です。

ですから、復活の主イエス・キリストを信じる者たちは、決して惨めな者ではないのです。

宣教も信仰も、決して無駄になることはないのです。

そう、不安になる必要は一切ないのだ、とパウロは宣言しているのです。

「しかし、実際は、キリストは死者の中から復活した!」と。


【復活は、神の恵みのわざ】

パウロは、「キリストは復活した」と述べる時、受動態を用いています。

つまり、「キリストは復活させられた」と言っているのです。

これは、キリストが自分の力で死の淵から起き上がったのではない、ということを示しています。

キリストを復活させた方がいるのです。

その方とは、父なる神です。

神が、その恵みのわざによって、子であるイエス様を起き上がらせたのです。

そう、復活は神の恵みのわざなのです。

神の恵みによって、イエス様は復活したのです。

ですから、死者の復活を信じるということは、神への信頼の領域といえるでしょう。

復活は、常識的にも、経験的にも、私たちには理解できない領域です。

頭では、決して理解することはできない領域です。

しかし、私たちは信じるように招かれているのです。

主イエスの復活は、この世界を造られた、全知全能である神のわざなのですから。

この方を信頼するようにと招かれているのです。


【すべてを神に明け渡し、神に委ねる信仰を抱く】

この死者の復活という問題は、コリントの教会の人だけでなく、

今を生きる私たちにとっても挑戦的なテーマです。

そのため、教会は、毎年イースターから始まる復活節を迎える度に、挑戦を受けるのです。

あなたたちは、主イエスの復活を信じますか。

あなたたちは、主イエスを復活させた神の恵みのわざを信じますか。

あなたたちは、恵み深い主である神に信頼していますか、と。

私たちの希望は、ただ神の恵み深い御手の内にあります。

この神に信頼するとき、神がイエス様を復活させてくださったということが、

私たちにとっての揺るがぬ希望となるのです。

死から逃れることも、

死を打ち破り、復活することも、

決して、私たち自身の力でできることではありません。

常識的にも、経験的にも、私たちは死と復活を完全に理解することはできません。

それらは、完全に、神の御手の内に委ねられていることなのですから。


【主に信頼し、歩み続ける日々は幸いだ】

ですから、主イエスの復活と向き合うとき、

神の御手にすべてを委ねるようにという招きに、私たちは出会うのです。

これまで経験してきたように、いつかは、愛する人の死を私たちは迎えなければなりません。

そして、いつかは自分の生涯の終わりに直面しなければなりません。

その日が来た時、私たちは知ることになるでしょう。

死を前にするとき、この世の富は、命を少しばかり延ばすことはできるかもしれないが、

最終的には頼りにはならない。

この世での繁栄は、決して復活を保証することはない。

この世で得た名声も、役には立たないと。

そうやって、何もかも手放した先に、最後に必ず残るものがあることに気づきます。

私たちの生涯の歩みを、その初めから終わりに至るまで知って、深い関心を持って、導いてくださる神の存在です。

恵み深い神の御手が、私たちのもとに必ず残るのです。

主イエスを復活させた神の御手に、私たちはすべてのものを委ねることができるのです。

そう、私たちの命さえも。

主イエスの復活を通して、私たちには、復活の希望が与えられているのです。

それは、恵み深い主である神への信頼に他なりません。

主イエスを復活させてくださった神への信頼は、私たちに強い確信を与えるのです。

主イエスを死者の中から復活させた神は、

来たるべき日が来た時、私たちを復活させてくださる、と。

このような神に対する深い信頼は、預言者エレミヤが抱いたものでもありました。

彼は言いました。

祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。(エレミヤ17:7)

喜びのときも、悲しみのときも、

困難にあるときも、弱さを覚えるときも、

そして、死の淵にあるときも、

主イエスを復活させた恵み深い神は、私たちと常に共にいて、

その手を伸ばしてくださいます。

この神に信頼し、復活の主であるイエス様に希望を置いて日々歩んでいきましょう。