「主に導かれ、主のわざに励む群」

『主に導かれ、主のわざに励む群』

聖書 コリントの信徒への手紙 第一 15:58、創世記45:3-8

日時 2015年5月17日(日) 礼拝

場所 日本ナザレン教団・小岩教会


【復活は、私たちにとってとても重要な事柄】

「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから」と言ってパウロは、

15章の最後の言葉を語り始めます。

これまで積み重ねてきた議論が土台となって、これから語る言葉があるため、

パウロはここで「こういうわけですから」と言っているのです。

神が私たちに与えた福音を私たちは受け取っているのだから、

あなたがたは「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」。

復活という、最も重要な大切にすべきものを、今、信じているのだから、

あなたがたは「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」

とパウロはここで勧めているのです。


【動かされないようにしっかり立ち続けなさい】

58節の言葉は、日本語訳の聖書では、ふたつの文章になっていますが、

ギリシア語で読んでみると、元々はひとつの文章であることに気付きます。

ここでは、「ギノマイ」という動詞が中心的な動詞として用いられています。

「ギノマイ」とは、「~になる」「生じる」「現れる」

という意味をもった動詞で、存在や状態などをあらわす時に用いられます。

パウロはここでは、ギノマイを2人称複数の命令形で用いています。

そのため、「あなたがたはこのような者であり続けなさい」と訳すことができます。

ではパウロは、コリント教会の人々が、どのような存在であって欲しいと願ったのでしょうか。

58節で、パウロはふたつのことを挙げています。

ひとつは、「動かされないようにしっかり立」つことです。

パウロは、コリント教会の人々が堅く立つべき福音を、ずっと説明し続けてきました。

その説明が十分になされたからこそ、彼は言ったのです。

「あなたがたは動かされないようにしっかり立ちなさい」と。

パウロは、似たような意味をもつ単語を、ふたつ重ねて用いることで、

「動かされないで堅く立つ」ことを強調しています。

パウロが、コリント教会の人々に向かって、このように語るのには理由がありました。

その理由とは、コリント教会の人々を取り巻く環境です。

彼らは、異教的なものの考え方に囲まれて生きていました。

コリントの町は、不節制と性的放縦に満ちていました。

また、ギリシア的なものの考え方は、周囲にいる人々の価値観を支配していました。

そのため、パウロの目には、福音を否定する価値観がコリントには溢れていると映っていたのです。

ですから、「この世的な価値観に押し流されてしまわぬように」

という思いを込めて、パウロはコリント教会に語り掛けたのです。

「あなたがたは動かされないようにしっかり立ちなさい」と。

もちろん、このことは、コリント教会の人々だけの問題ではありません。

時代を超えても、国を超えても、

私たちはコリントの教会と根本的には同じ問題を共有しています。

私たちも日々、周囲の様々な価値観に翻弄されています。

神は私たちに、神の国と神の義を与えると約束をされました。

この世での生活は私たちのすべてではなく、

将来、神の国へ招かれるという約束を、私たちは神から与えられています。

しかし、この世界は、私たちに向かって語り掛けてくることでしょう。

福音を信じ、神の国と神の義を求める生き方など、馬鹿らしいことだ。

経済的な繁栄こそ、私たちにとっての幸せじゃないか。

この世での生活こそがすべてなのだ、と。

私たちはこのような声に囲まれて生きているのですから、

様々な価値観に押し流され、

福音に基づいて生きることを放棄する方が楽なのは当然です。

このように、私たちはこの世の価値観と、神の国の価値観との間で、

葛藤し、迷いながら生きているのです。

しかし、だからこそ、パウロは「堅く立ちなさい」と励ましているのです。

「福音が、あなたたちのキリスト者としての生き方を支えるのだから、

神があなたたちにもたらした恵みのわざを思い起こしなさい。

常に土台である福音を確認し、その土台に堅く立ち続けなさい」と。


【主の業に常に励みなさい】

パウロは、「しっかり立ちなさい」と命令するだけでは、満足しませんでした。

彼は、2つ目の事柄として、「主の業に常に励みなさい」と語っています。

パウロがこのように言う理由は、明らかです。

それは、信仰とは、心の問題で終わるものではないからです。

信仰とは、神と私の関係で終わるものでは決してありません。

私たちは、信仰をもって、この世界で生きるのですから、

信仰者として、この世界でどう生きるかが日々問われているのです。

ですから、パウロは「主の業に常に励みなさい」と語っているのです。

この言葉を直訳すると、「主の業に常に溢れて」となります。

そうです。主の業とは、溢れ出てくるものなのです。

私たちの信じていることが、私たちの生き方として表れるのです。

信じていることに基づいて生きるようにと、私たちは招かれているのです。


【無駄にはならないことを、あなたがたは知っている】

パウロは「主の業に常に励みなさい」と言った後、

すぐに、こう付け加えました。


主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(Ⅰコリ15:58)


「主に結ばれているならば」とパウロは語っています。

そのため、「主の業」とは、

信仰者たちがキリストに結ばれて生きることなのです。

そう、福音に堅く立って歩むことです。

福音にしっかり立って歩んでいたとしても、

私たちの毎日の歩みは、良いことばかりではありません。

信仰のあり、なしに関わらず、

喜びの日もあれば、苦しみの日も、涙を流す日もあります。

自分の普段の歩みが、全く無意味に、そして無駄に思えてくることもあります。

だからこそ、パウロは言うのです。

「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、

あなたがたは知っているはずです」と。

コリント教会の人々が知り、私たちが知っていることとは、何でしょうか。

それはふたつあります。

ひとつは、復活という神の恵みのわざです。

死によって、私たちが積み重ねてきたすべてのものは無駄になるわけではありません。

復活を通して、私たちは今の自分の働きが将来につながっているものであることを知るのです。

この世界での働きが、神の国を築く働きにつながっていると。


【聖書の証言を通して、主の業に励むことを知る】

そしてもうひとつは、聖書の証言です。

聖書が語る信仰者たちの歴史を通して、私たちは、

主のわざが決して無駄にならないことを知り、確信することができるのです。

今日、コリントの信徒への手紙と一緒に、創世記が開かれました。

そこに登場したのは、ヨセフとその兄弟たちです。

ヨセフは、父親に愛された子でした。

しかし、彼が愛されている様を見て、兄たちはヨセフを妬みました。

ある日、ヨセフは兄たちに裏切られ、

奴隷として売られて、エジプトへ連れて行かれ、

エジプトという異郷の地で残りの生涯を送らなければならなくなりました。

「こんな場所に来たくなかった」。

しかし、抵抗出来なかった現実がありました。

そして、ヨセフは、エジプトで奴隷として働かされることとなったのです。

このような将来を、いつ思い描いたでしょうか。

なぜ、自分がここにいるのかと、ヨセフは問い続けたことでしょう。

悩み、苦しんだ日々を過ごしたことでしょう。

「主のわざ」について考える以前に、

自分の人生そのものに意味を見出すことさえできなかったでしょう。

しかし、そんな彼が最終的に辿り着いた答えは、驚くべきものでした。


命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。(創世記45:5)


ヨセフは兄たちとの再会の場面で、この言葉を繰り返し言っています。

ヨセフは、奴隷生活を送っただけではありません。

偽りの証言によって、監獄へ入れられたときもありました。

その時、兄たちの裏切りを思い出し、どれほど涙を流したことでしょうか。

兄たちへの憎しみと共に、愛する家族とまた会いたいという思いもありました。

帰ることのできない故郷を思い浮かべ、心を痛めたことでしょう。

彼はその後、エジプトの国の重役になりました。

しかし、エジプトの王ファラオに認められ、国の重役に就いたとしても、

そこはヨセフの望む場所ではなかったことでしょう。

そんな彼が、自分を奴隷として売り払った兄弟たちの前で、このように告白しているのです。

「神が私を遣わした」と。


【神に導かれ、主のわざに励む】

ヨセフは自分の力によっては、

今の自分がいる場所に意味を見出すことはできませんでした。

しかし、神の計画に目を移した時、見えてくることがありました。

ヨセフはこのように語っています。


この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。(創世記45:6-7)


「世界の飢饉の中、すべての者が生き永らえるうように、神が先立って自分を遣わした。

飢饉の前の7年間の豊作で与えられた穀物を正しく管理するように、自分は神によって遣わされた。」

これがヨセフの確信でした。

ヨセフは、この神の計画を見つめた時、

無意味に思えた自分のこれまでの歩みに、意味を見出すことができたのです。

あの監獄で涙した日々も。

真っ暗闇の中、目的地も見えずに走っているかのように感じたあの日々も。

兄たちに売られ、エジプトに連れていかれたあの道中も。

自分にこのような兄たちが与えられたのも。

この時代に生まれたのも。

すべて、神の御手のわざによるものだと確信できたのです。

これらのことは、すべて自分を通してなされた「主の業」であったのだ、と。

だから、ヨセフはこう言います。


わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。(創世記45:8)


ヨセフがこのような告白へと導かれたのは、

自分の人生を自分だけのものとしては、捉えなかったからです。

彼は、確信していました。

「自分の行いは、自分だけで完結するものではない。

どんな些細なことも、神が私を遣わしてなそうとしている主のわざなのだ」と。

だから、苦しみの中にあっても、彼は「主のわざ」に励んだのです。

主のわざとは、「神が、ここに私を遣わした」と告白する生き方なのです。

神によって遣わされて、今ここにいると信じ、ヨセフは信仰に堅く立ち続けました。

目の前にいる兄弟たちを心から愛し、

そして、彼らの過去の過ちのすべてを赦しました。

そのようにして、自分だけでなく、

ヨセフは、兄弟たちと一緒に「主のわざ」に励もうと努めたのです。


【平和を携えて、主のわざに励む】

このヨセフの物語を通して、私たちは知ることができます。

「主のわざとは、ただ独りで行うものではない」ということを。

主のわざとは、神の導きを信じ、神と共に歩む中で行うものです。

神が、私を豊かに用いてくださると信じて生きることです。

そして、主のわざとは、キリストにある信仰者たちと一緒に行うわざなのです。

ですから、パウロはコリント教会の人々に58節の言葉を語る際、

「あなたがたは」と語ったのです。

残念ながら、日本語聖書では省略されていますが、ここでは、

「あなたがたは、動かされないようにしっかり立ち、

主の業に常に励みなさい」と、パウロは勧めているのです。

二人称単数ではなく、二人称の複数であることに意味があります。

なぜなら、コリント教会の中には分裂があったからです。

分裂があるところに語る時、「あなたは」と語る方が遥かに簡単なことです。

しかし、パウロは「あなたがたは」と語り、

同じ教会の中にいる人々を見つめることを励ましました。

主のわざは、ひとりで孤独の中で行うものではないからです。

天の御国へと続く道は、たった独りで歩む道ではないのです。

神に与えられた福音にしっかりと立って、この道を歩んでいこうと、

互いに手を取り合い、励まし合って、私たちは歩むようにと招かれています。

このような教会の姿を願うから、パウロはコリント教会に向かって、

「あなたがたは」と語るのです。

分裂のただ中にあるコリント教会の人々が、キリストにあって、

互いに愛し合い、赦し合い、手を取り合って生きることを祈り、

「あなたがたは動かされないようにしっかり立ち、

主の業に常に励みなさい」とパウロは語ったのです。

私たちに与えられた福音とは、分裂のあるところに、

和解と平和をもたらしてくださる、神の恵みのわざだからです。

ですから、私たちは神の平和を携えて、今週もこの場所から出て行きましょう。

私たちには、最も大切なこととして、福音が与えられています。

この福音にしっかりと立って、日々、主のわざに励もうではありませんか。