「救いは神から」(説教者:中谷信希神学生)

『神は安息へと招かれる』

聖書 レビ記1:2-4、ヨハネの手紙 一 4:9-11

日時 2015年 7月 26日(日) 礼拝

説教者 中谷信希神学生(ナザレン神学校1年)


【導入】

おはようございます。このところ毎日暑い日が続いていますが、みなさんお元気でしょうか。わたしは沖縄から東京に出てきましたが、東京は沖縄の暑さとはまた違っています。沖縄は日本の一番南でとても暑いと思われがちですが、沖縄は島ですのでまわりを海に囲まれていて、だいたいいつも風が吹いています。今日は7月最後の礼拝ですね。学校はもう夏休みに入っていることでしょう。わたしが行っているナザレン神学校も夏休みに入りました。夏休みには夏期派遣というものがあって、全国各地区に神学生が派遣されます。わたしは山陽地区に行ってまいります。そこで4つの教会を訪ねて礼拝や祈祷会の集会でメッセージや証しの奉仕をすることになっています。奉仕を全うできるように、また旅の安全が守られるように祈ってください。


【本論Ⅰ】

今日は牧師の稲葉先生に代わってわたしがメッセージをすることになりましたので、ともに聖書から見ていきましょう。

今日はみなさんに2つのことをお伝えしたいと思います。

1つめは、救われているという確信をもつことです。すでに救いはわたしたちに与えられています。この救いをいつも確認することが大事だと聖書は言っています。

2つめは、神の愛を体験しあらわすことです。


さきほど読んでいただいたこのヨハネの手紙Ⅰを書いたのは、イエス・キリストの使徒であったヨハネです。ヨハネはこの手紙の他に福音書と2つの手紙を書きました。手紙のあて先は小アジア地方の教会でした。ヨハネはこの手紙を書いて2つの点で信者を助けようとしたといわれています。

1つは、読む人たちが、キリストにあって永遠の命を持っていることを知らせるためです。

2つめはキリストの命令に従って生きるようにすすめるためです。イエスにあって永遠の命を持っていることを知らせるとは、救いの確信を与えることです。ヨハネの手紙Ⅰの5章13節には「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」とあります。

クリスチャンには、救いの確信が必要です。信じる者が神の子であることと、イエス・キリストが十字架上でなされたことは信じる者の罪を永久に贖うこと、信じる者が永遠に神の家族の一員とされることを確信する必要があります。この確信によって信仰は成長していきます。救いの確信は神の言葉を通して与えられるものです。ヨハネの手紙Ⅰはそのような確信をあたえる聖書です。クリスチャンは救いの確信をもって、大胆に神に近づき、世に対するあかしをしていくことができます。


ヨハネの手紙Ⅰはイエスを信じているクリスチャンにあてて書かれました。今日読んでいただいた4章9~11節のこの言葉も信じている人向けのメッセージです。でもこれと同じような言葉はヨハネによる福音書にもあります。ヨハネによる福音書の3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

ヨハネ福音書はイエスを信じるために書かれた書物です。ですから、この4章9節の言葉はキリストを信じているクリスチャンにも、まだ信じていない人にも語られるもので、どちらにも意味のあるメッセージであるといえます。そうではなくて、むしろどちらにも必要なメッセージです。


4章9節から読んでいきますと、神が独り子を遣わされたとあります。独り子イエス・キリストが世に送られたのは、わたしたちが生きるためだと聖書はいっています。


日本語には「愛」という言葉はひとつしかありません。

でも、ギリシャ語には4つあります。

エロースとストルゲとフィリアとアガペーです。

エロースは男女が愛し合う愛のことです。

ストルゲは親子の愛です。

フィリアは友情、友の愛です。

以上3つの愛は人間の愛で、不完全で変わりやすいものです。

4つめの愛はアガペーです。アガペーは神の愛です。変わることのない永遠の愛です。これは神が与える愛です。すべてを尽くして愛する愛です。人間には不可能な愛ですが、不可能を可能にしたのは、イエス・キリストです。


その方によって、わたしたちは生きるようになったのです。神の愛によって生きるようになりました。わたしたち人間が神を愛したのではなく、神が人間を愛したことがわかります。10節には、罪を償ういけにえとして御子を遣わしたとあります。罪の償い、償いとはうめあわせをすることで、いけにえとは動物を殺して神にささげることです。


旧約聖書の時代にはいけにえの制度がありました。

これは罪の赦しのために、神さまが命じられたことです。罪を犯したら、家畜の群れの中から牛や羊を連れて来て頭に両手を置いて、罪を告白してその動物に罪を移します。そして、その動物を殺して祭壇の上で焼きました。罪の罰は死ですから、自分の命の代わりに動物の命を犠牲にして、罪の贖い、償いをしたのです。


神から遣わされた御子イエス・キリストは、罪を償ういけにえです。動物と同じように罪人の罪を引き受け十字架で死に、贖いの業を成しとげられました。キリストはいけにえとしては完璧です。罪がなく、悪いところややましいところはひとつもありません。これは、人間の世界にはどこにもないものです。それを神が与えてくださったということです。わたしたちが神にささげるべきであるのに、そのささげるいけにえを与えられたのです。罪ある人間を憐れんでいけにえまで用意してくださいました。ここに神から人への愛があります。


神は独り子イエスを遣わされました。イエスは神のもとからこの地球に来られました。それは二千年前の時代のクリスマスの出来事です。神の子は赤ちゃんで生まれて、人間の歩みを始められました。彼は大きくなっていろいろな働きをされました。それは新約聖書の4つの福音書の中にかいてあります。イエスさまは弟子を引き連れて、伝道し、病気の人をいやし、奇跡を行われました。そして苦しみを受け十字架に磔にされて、その3日目に復活して、天に昇っていかれました。

イエスさまがクリスマスに赤ちゃんとして生まれたのは罪人を救うためだと聖書は言っています。罪人とはわたしたち人間のことです。罪は、人間を神から引き離します。それだけでなく罪には死という罰があります。神は愛の神でもあり、罪を罰し、さばく神でもあります。

神を知らない人でも、自分の罪を見ながら生きていくのはつらいです。だれでも自分の悪いところやしてしまった悪いこと、あやまちのことで自分に対して悲しくなったり、悔しくなったりすることはあると思います。そういうのは、罪の結果です。でも、イエス・キリストには罪の根本的な解決があります。キリストは罪を犯した人の身代わりになって十字架に磔にされて死にました。これはすべての人のためで、神が大事な独り子を犠牲にして愛されました。

それによって悔い改め、彼を信じる人はゆるされて本当の命に生きるようになります。



わたし自身も洗礼を受けようとするときに牧師と聖書の学びをしていました。そういうときに、本当に罪の解決はイエス・キリストの十字架にしかないことがわかってきました。自分では何も悪いものを取り除くことができないとわかって、キリストの十字架の業がたよりだとわかったら、気持ちが軽くなりました。もう、この方を信頼していこうと思いました。救いはイエスさまにこそあると気づかされました。


神が独り子を遣わされて、救いの業を成しとげられたので、信じる者はゆるされて生きていきます。キリストによってわたしたちはまことに命に生きるものとされます。



このヨハネの手紙Ⅰの4章9節~11節を通してわたしたち教会が確信したいことは救われたことです。神がいけにえを与え、いけにえがささげられました。それによって永遠の命を得ました。

救いは全く神からのものです。信じる者は救われます。ですから、いま信じているなら救われてキリストの命に生かされていることを確信できます。その確信は、神の言葉である聖書を信じることによって与えられます。人間というのは不確かなものです。しかし、神の言葉は永遠に変わらない確かなものです。基準は自分ではなく、神の言葉である聖書にあります。

そして、この確信を教会は伝えていくのです。これは教会の務めでもあります。


教会の果たす務めは、福音を伝えていくことです。

イエス・キリストは罪人のために十字架にかかって死んだということが、教会が伝えるべきメッセージです。イエスこそがキリストであるということを教会は知っています。キリストとは、油注がれた者、神が選ばれた救い主という意味です。神の子イエスが救い主だということです。わたしたちはそう信じています。教会はそれを伝え続けていきます。聖書はキリストが再びこの地に来られることを約束しています。わたしたちは、そのときまで、この務めを全うしてまいりたいものです。


人間が神を愛したから、神も人間を愛したのではありません。

神がまず人間を愛したのです。それによって、人間が神や他の人間を愛することができるようになりました。愛は神から賜ったものです。11節「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」


イエスさまも互いに愛し合うように教えています。自分を愛するように隣人を愛しなさい、と。



みなさんは愛を受けたらどういう気持ちになりますか。

きっと、よくしてもらったりしたら感謝やお礼をしたくなりますね。でもここでは人間が互いに愛し合うようにと言っています。互いに愛し合うことで、神に感謝をあらわすことになります。たとえば、もし、ごちそうされたら、もてなしてくれたその人にお礼をするのではなくて、また別の人にごちそうしてあげることで感謝をあらわすということでしょう。神さま、イエスさまの愛とはそういうものです。また、イエスさまは、愛してくれる人を愛したところでなんになろうか、神のように憐れみ深い愛を持てと言っています。


人間が救われるのはまったく神によります。救いは神からくるものです。神さまは人を愛して、イエス・キリストをいけにえとして世に遣わし罪の償いとしてくださいました。信じる者は罪から救われました。この愛に倣って、わたしたちもお互いに愛し合うようになりましょう。


教会はイエス・キリストの共同体です。罪ゆるされて救われた者が集まっています。その人たちは神の愛を体験しています。

わたしたちはイエスによって救われて神の愛を受けました。だから、愛を知っています。そして、愛することができます!

この体験したすばらしい愛を教会からともに表わしていきましょう。