「人間とは何者なのでしょうか?」

『人間とは何者なのでしょうか?』

聖書 創世記2:4b-17、ヨハネによる福音書20:19-23

日時 2015年 8月 2日(日) 礼拝

場所 小岩教会(日本ナザレン教団)


【詩編の詩人が覚えた驚き】

「この世界は、神によって造られた」と

高らかに宣言することから、創世記は始まりました。

神が造られたこの世界は、創世記1章が証言しているように、

実に素晴らしく、美しいもので溢れています。

聖書が語る証言を聞くだけでなく、

絶景といわれる風景を見たり、

夜、満天の星空を見上げたり、

この世界で共に暮らす、動植物たちを見つめることを通して、

私たちは、神が造られたこの世界の素晴らしさを実感することができます。

先ほど一緒に交読しました詩編8篇の詩人は、

この世界を造られた神の創造のわざを見つめたとき、

神を賛美せずにはいられませんでした。

詩人は、このようにうたいました。


あなたの天を、あなたの指の業を  わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは  人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう  あなたが顧みてくださるとは。(詩編8:4-5)


彼は、驚きと不思議を覚え、

「人間は何ものなのでしょう」と声を上げました。

神が造られた世界の素晴らしさに気付けば気付くほど、

自分の存在がいかに小さいことか実感します。

そして、そんな私たち人間を、神が心に留めてくださるという事実に、

詩人は驚きつつも、感謝と喜びを覚えてうたったのです。

「そのあなたが御心に留めてくださるとは

人間は何ものなのでしょう」(詩編8:5)と。

神がこの世界を「極めて良い」(創世記1:31)ものとして造られたのは、

神が人間を愛されたからです。

その事実を真剣に受け止めた時、

詩人の心にひとつの疑問が浮かんでたのでした。

「神がこれほどまでに愛される私たち人間という存在は、

一体何者なのだろうか」と。

この疑問は、詩人にとって喜びと感謝であると共に、

驚きと不思議なのです。


【人間は、神と親密な交わりをもつ存在】

創世記の著者も、この詩編の詩人と同じように

驚きを覚えて、神を賛美しました。

彼は、創世記1章で、世界の創造について書き記した後、

その素晴らしさに圧倒されながらも、

神が私たち人間を造られたことに注目します。

まさに「人間とは何者なのか」という問いに答えるかのように、

「私たち人間は、このように造られた存在なのだ」と

創世記の著者は、2章において証言しています。

この記述を読む時、私たちがまず初めに注目すべきことは、

「人間は、この世界を造られた神によって造られた」ということです。

偶然この世界に人間が現れたということでは決してありません。

神に愛されて、目的をもって造られたのが、私たち人間であると、

聖書は証言しているのです。

それは、人間が創造された時、

「土の塵」に神が「命の息」を吹き入れたことから明らかです。

そのときの様子が、7節に記されています。


主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)


神は、人間の「鼻に命の息を吹き入れ」たと聖書は証言しています。

鼻に息を吹きかけるためには、顔と顔とを近づける必要があります。

そのため、この7節の記述は、私たち人間と親密な交わりを築くことを、

神が願ったという証しです。

しかし、神と人間の関係を考えてみると、これはとても不思議なことです。

というのは、私たち人間と神との間には、

大きな大きな越えることのできない壁があるからです。

それは、創造主と創造主によって造られた被造物という大きな違いです。

しかし、それにも関わらず、神は私たちと親密に交わり、

私たちと語り合うことを選ばれ、それを喜びとされているのです。

神は、驚くべきことに、

私たち人間と神との交わりを妨げるあらゆるものを乗り越えて、

神の側から、交わりをもとうと人間の側に近づいてくださったのです。

神は、私たち人間と、顔と顔とを近づけて、親密に語り合いたいと願い、

「土の塵で人を形づく」ったのです。


【「土の塵」に過ぎないにも関わらず!】

このように、神が私たちと交わりをもってくださることは、

実に驚くべきことですが、

7節に記されている「土の塵」という表現に注目するとき、

このことがどれほど大きな恵みであり、

どれほど驚くべきことであるかを、より強く実感することができます。

最初の人間は「土の塵」で形造られました。

旧約聖書において「塵」という言葉は、

「無価値なもの」の比喩表現として用いられています。

その意味で、ここでは

「無価値な」塵から造られたのが人間であると証言されています。

しかし、そのような無価値な「土の塵」によって造られた人間が、

神によって「その鼻に命の息を吹き入れられた」ことにより、

人間は、生きる者となった、というのです。

まさに、神の一方的な愛と恵みによって、人間は生きる者とされました。

神が命の息を吹き入れられなかったならば、人間は「土の塵」に過ぎません。

そして、「土の塵」にすぎない私たち人間は、

自らの力で「生きる者」とはなれないと聖書は強く宣言しています。

このように、私たちは、

本来自分が「土の塵」に過ぎない者であることを心に留めることを通して、

自分の命が神によって与えられたものであることを、知ることができます。

土の塵にすぎない私たちは、自らの力によって生きる者とは決してなれません。

神が、命の息を吹き入れられ、私たち人間は生きる者とされました。

そして、土の塵に過ぎない私たちは、神に愛され、

神との豊かな交わりへと招かれています。

そればかりではなく、神は私たちに、

生きる場所、食物、そして共に生きる共同体を与えてくださいました。

与えられた生を豊かに生きるため、

そして与えられた命を、喜び、楽しみ、感謝して生きるためにです。

この事実を真剣に受け止める時、私たちは詩編8篇の詩人と共に、

喜びと感謝、そして驚きと不思議を覚えて、神を賛美することへと導かれます。


そのあなたが御心に留めてくださるとは  人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう  あなたが顧みてくださるとは。(詩編8:5)


【「職務」と「創造のわざを楽しむこと」】

このように神と語り合い、交わりをもつ存在として人間は造られました。

しかし、神にとって、7節で人間の創造が終わったわけではありませんでした。

神は、人間に必要なものを整えていきます。

神はまず、人をエデンの園に連れて来て、そこに住まわせました。

それによって、彼に生きる場所を与えました。

そして、「そこを耕し、守るように」と仕事を与えられたのです。

ということは、最初の人間は、神が用意されたエデンの園において、

労働もせず、責務も負わず、何の苦労もせずに、

園にある豊かな果実を食べて生活をしていた、

というわけではなかったことがわかります。

むしろ、はじめから人間は大地を耕し、これを守る責務を負っていたのです。

ですから、労働は決して、神から人間に与えられた罰ではありません。

この大地を耕し、守ることは、私たちの職務として

神から与えられたものであると、創世記の著者は語っているのです。

このような職務を与えた後、神は人間に向かって語り掛けました。


「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17)


神は「園のすべての木から取って食べなさい」と語られました。

もちろんこの言葉は、直接的には、

園にある食べ物を自由に食べることによって、

与えられた生命を維持するようにという意味の言葉です。

しかし、神はそれ以上のことを願っておられます。

神は、造られたこの世界のすべてのものを、

人間が喜び、感謝し、そして楽しむことを、心から望み、

「園のすべての木から取って食べなさい」と言われたのです。


【なぜ善悪の知識の木は園に置かれたのか?】

そして、神は続けて言われました。


ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。(創世記2:17)


ここで「禁止」命令が語られていることに、疑問をもつ方は多いはずです。

「善悪の知識の木から取って食べてはいけないのにも関わらず、

なぜ神はこの善悪の知識の木を園に置かれたのだろうか?」と。

神が善悪の知識の木を園の中央に置き、

「決して食べてはならない」と語られた理由。

それは、神の禁止命令を破るという自由さえも人間に与えるためでした。

神の命令を守る・守らない、従う・従わないという、自由な選択肢の中で、

神の言葉を守り、神に従う方を、

人間に常に選び取って欲しいと、神は願ったのです。

神が人間に望んだ生き方は、ロボットのように、

神の言葉には「必ず従う」といった姿ではありませんでした。

私たちが、温かな血の通った信仰をもって、

神を神として生きることを選びとることを神は願ったのです。

これこそが、神が私たち人間との間に築きたいと望んだ交わりのあり方でした。

ですから、神にとって、エデンの園には善悪の知識の木が必要だったのです。

また、神と人間の間に常に豊かな交わりを築き上げるために、

園の中央という、とても目立つ場所に神は善悪の知識の木を置いたのです。

人間が、絶えず神の言葉を思い起こし、

神を神とし、神との交わりに生きることを選び取ることを願って。

そして、これほど重要なものだからこそ、

「食べると必ず死んでしまう」と、神は警告を加えたのです。

ここで語られている「死」とは、身体的なものではありません。

旧約聖書において、死とは何よりもまず「関係性の喪失」を意味します。

つまり、神の言葉に従わず、この善悪の知識の木から取って食べるならば、

神との関係を失うことになると、神は警告したのです。

それは、私たち人間を愛するゆえの警告でした。

神は、これほどまでに、私たちとの交わりを求めておられるのです。


【人間とは何様なのか?】

しかし、どうでしょうか。

私たち人間は、神と交わりをもつ存在として造られ、

神が私たちと交わりをもつことを、これほど求められているのにも関わらず、

私たちは、まるで神などいないかのように生きることを好んでいます。

自分が「土の塵」で造られた存在であることを忘れ、

神の助けや導きを拒み、自分の力で自分の思い通りに生きることこそ、

私たちにとっての幸いだと信じて疑いません。

そして、神から与えられたものを利用するだけ利用し、

この世界を耕し、守るどころか、しまいには破壊しています。

神が造られ、愛されたのは、「私」だけでなく、

目の前にいる一人ひとり、そして世界のすべての人々です。

しかし、そんなことは関係ないと言わんばかりに、

互いに争い合い、軽蔑し合っています。

あぁ、人間とは一体、何様なのでしょうか……?

このように、自分自身の心の内を見つめる時、また、この世界を見渡す時、

神が望まれた姿とは、決して言えない私たち人間の現実と出会い、

私たちは絶望を覚えます。

「やはり、私たちは土の塵にすぎないのだ」と。


【聖霊によって「命の息」を吹きかけられ、新たにされる】

しかし…

しかし、それにも関わらず、神は私たちを心に留めておられます。

それでも、神は「私はあなたを愛している」と

私たちに語り掛け続けておられるます。

神は、人間が背き続けても、愛することを諦めませんでしたし、

そして何より、愛するひとり子であられるイエス様を

私たちのもとに送ってくださいました。

イエス様を通して、神は私たち人間との交わりを回復してくださったのです。

そして今や、私たちには聖霊が与えられています。

イエス様は十字架に架かり、死んで、復活された後、

弟子たちの前に現れて、彼らに「息を吹きかけて」言われました。

「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)と。

それはまるで、「土の塵」に「命の息」を吹きかけることによって、

神が人間を創造されたことを思い出させるような出来事でした。

神が人間を造られた時、「土の塵」に「命の息」を吹きかけることによって、

人が生きる者となったように、

神は、聖霊が私たちに吹きかける「命の息」を通して、

私たちを日々、新たに造り変えてくださるのです。

それは、私たちが、神と豊かな交わりをもつことができるためです。

私たち自身の力によっては、

私たちは、神と真実な交わりをもつことは出来ません。

しかし、驚くべきことに、聖霊は、私たちひとりひとりに与えられています。

そのため、今や、私たちは神と豊かな交わりを築くことができるのです。

私たちに与えられた聖霊こそ、

私たちと神との間を繋ぐ強い絆なのですから。

私たちに聖霊を与えることを通して、

神は、私たちを豊かな交わりへと招き続けておられるます。

神は、この聖書を通して、私たちに語りかけたいことが多くあります。

また、私たちが祈ることを通して、

神は私たちの声を聞き、私たちと会話をすることを強く望んでおられます。

ですから、私たちは喜びと感謝をもって、神の前へと出て行きましょう。

この聖霊によって豊かなものにされる交わりは、

神との交わりだけではなく、教会の交わりへと広がっていくものです。

お互いに足りないところがあり、傷つけ合うこともありますが、

それでも、私たちは聖霊によって

強く結び合わされる共同体であり続けることができると約束されています。

そのため、この約束をしっかりと携えることによって、

私たちは、主にあって、互いに愛しながら歩んで行くことができると

確信することができるのです。

どうか、私たちひとりひとりの歩みが、

聖霊によって神と共に、そして隣人と共に、

豊かな交わりを築き続けるものでありますように。