「それでも神は探し求める」

『それでも神は探し求める』

聖書 創世記3:1-21、ローマの信徒への手紙6:23

日時 2015年 8月 16日(日) 礼拝

場所 小岩教会(日本ナザレン教団)


【探しまわる神と、神を避けて隠れる人間】

ある日、風の吹くころ、

神の造られたエデンの園において、神の声が静かに響き渡りました。

主なる神は、人に呼びかけて言われました。


「どこにいるのか」(創世記3:9)


神は園の中を歩き回り、人を探していました。

共に交わりをもつ存在として、神によって造られた人間を求めて、

神は園の中を探して、歩きまわっておられたのです。

しかし、神が求めた人間は、探しまわる神の足音や、

彼らに呼びかける神の声を聴いたとき、

どうしたことか、彼らは神を避けて、園にある木々の間に隠れたのです。

人間は本来、神と交わりを持つ存在として造られました。

そのため、このような行動はとても不自然なものでした。

彼らに一体何があったのでしょうか?


【善悪の知識の木が園の中央に置かれた理由】

創世記3章1-7節に記されている物語は、

人間がなぜ神の御顔を避けて、隠れてしまったのかについて語っています。

物語は、蛇が女性に語り掛けることから始まります。

蛇はこのように語り掛けました。


「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創世記3:2)


この言葉は、実に巧妙に神の言葉を逆転させるものでした。

神が人間に語りかけた言葉は、このようなものでした。


「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17)


神は「園のどの木からも食べてはいけない」とは言っていません。

神は「園のすべての木から取って食べなさい」と許可を与え、

その上で、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と言って、

禁止命令を与えられたのです。

食べてはいけない実を結ぶ、善悪の知識の木を、

神が園の中央に置いたのには、当然理由がありました。

それは神と人との交わりを、生命ある豊かなものとするためです。

人間には、自由が与えられていました。

それは、神に背く自由さえもです。

そのような自由の中で、人間が善悪の知識の木から「取って食べない」ことを

何度も、何度も選び取り続けて欲しいと、神は願ったのです。

ですから、人間にとって、善悪の知識の木とは、

神の言葉を守ることを、目に見える形であらわすものでした。

またそれは、神にとって、人間への信頼のしるしでした。

善悪の知識の樹が園の中央に置かれているということには、

このような豊かな意味があったのです。


【神の言葉を都合よく受け取る妻】

しかし、どうやら人間は、

その豊かな意味を忘れてしまっていたかのように思えます。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」という

蛇の問い掛けに対して、彼女はこう答えました。


「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」(創世記3:2-3)


どうやら彼女は、神がこの木を置いた理由を忘れ、

「神の言葉を守らなければいけない」

という形式に目がいってしまったようです。

彼女は「食べるな」という言葉に、過剰に反応し、

「触れてもいけない」と自分の解釈を付け加えました。

また、「食べると必ず死んでしまう」という神の言葉を、

「死んではいけないから」と、自分に都合の良いように受け取っています。

このような彼女の言葉を聞き、

蛇は、神の言葉を逆転させることに成功しました。

蛇は言います。


「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3:4-5)


「あぁ、あなたがた人間は気の毒だ。

あなたがたには神から自由が全く与えられていないのだね」

と蛇は遠回しに言っています。

神が語りかけた言葉の意味を忘れ、

守らなければいけないという形式ばかりに囚われている彼女は、

あまりにも簡単に、意味を取り違えることになります。

その結果、善悪の知識の樹になる果実が、

彼女にとって大きな魅力を放つことになったのです。

「善と悪の分別がつくようになって、なぜいけないのか?」

「蛇がいうとおり、賢くなることによって、

人間の生に新たな可能性が開かれるのではないか?」

彼女はそのように判断してしまい、

とうとう善悪の知識の木から実をとって、食べてしまったのです。

そして、彼女はその実を夫にも与えました。

その結果、どうなったのかについて、7節にこのように記されています。


二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。(創世記3:7)


たしかに、蛇が言ったとおり「二人の目は開け」ました。

しかし、それは彼らが望むような結果をもたらしませんでした。

彼らは、自分たちが裸であることを知り、

お互いに身体を隠し合うことになりました。


【夫の無関心な態度】

ここで注目すべきなのは、6節の言葉です。

そこにはこのように記されています。


女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。(創世記3:6)


何と驚くべきことに、彼女の夫は、彼女と一緒にいたと著者は語っています。

神から直接「善と悪を知る樹」をめぐる戒めを受けたのは、

彼女ではなく、彼の方でした。

その彼が、目の前の妻の判断と行動に対して、まったく沈黙しているのです。

彼にとって、妻は、顔と顔とを合わせて交わりを持つ、

対等な存在として神から与えられました。

そのような存在として自分に与えられた妻が、

神の教えをまさに破ろうとするとき、

彼は一言も語らず、ただ傍観していたのです。

一体なぜ彼は黙っていたのでしょうか。

創世記の記述に、その理由は書かれていませんが、愛する妻と共にいながら、

妻の行動にはまったく関心がなかったかのように思えます。

エデンの園における悲劇は、妻が蛇に欺かれたことではなく、

その場に立ち会っていた夫のこの無関心から生まれたのです。

もしかしたら、蛇との対話をきっかけに、

妻が「神のように、善悪を知るようになりたい」と思ったように、

夫であるアダムにも、同じ思いが沸き起こってきたのかもしれません。

彼は、妻に何も語らず、ただ彼女の行動を見つめることを通して、

「やむを得ず」自分も実を食べた情況を作りだしたのかもしれません。

自分の都合に合わせて、まるで道具のように妻を用いたのです。


【善悪の知識の木から取って食べた結果】

神のように、善悪を知るようになりたい。

この動機こそが、人間が抱えた問題でした。

しかしそれは、人間同士が本来もつ交わりのあり方を、

彼らが失う結果をもたらすことになりました。

創世記2:25によれば、

最初の人間は、お互いが裸であるにも関わらず、恥ずかしがりませんでした。

しかし、善悪の知識の木から取って食べて、

「目が開かれた」今、彼らはお互いの体を隠し、

しまいには、神の前に出て行った時、

お互いに責任を押し付け合うようになってしまいました。

この「女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)と。

しかし、善悪の知識の木から取って食べて、神に背いた影響は、

人間同士の関係のみにとどまりませんでした。

神が人間を探して、園を歩いておられたその足音を聞いた時、

彼らは、神を避けて、隠れたのです。

神と豊かな交わりをもつことができるように、

神によって造られた人間が、神から逃げたのです。

また、神に呼ばれて、神の前に出て行っても、

彼らは自分の責任を逃れようとします。

そして、しまいにはすべての責任を神のせいにしようとするのです。

「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、

木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)と。

交わりをもって生きる存在である人間が、

豊かな、生き生きとした交わりを失ってしまった姿を、

私たちはこの物語を通して知るのです。

それは、まさに死んでいる状態であると。


【恵み深き神の声「どこにいるのか」】

しかし、このような人間の背きにも関わらず、

神の恵みは実に豊かなものあることを、私たちは知ることができます。

神は、すべてをご存知である方です。

ですから、神は人間の背きを、すべて知っていたはずです。

そにも関わらず、善悪の知識の木から実を取って食べた瞬間に、

彼らにさばきを与えるのではなく、

神は彼らを探して、彼らに呼びかけたのです。


「どこにいるのか」(創世記3:9)


初めに神が語り掛けてくださらなければ、

私たちと神の関係を回復することは、決してできません。

神が語り掛けてくださったから、

本来もっていた豊かさは失われたとしても、

神と交わりをもつことが許されているのです。

「どこにいるのか」と語り掛けることによって、神は問いかけます。

あなたはどちらの側にいるのか、と。

神にあって命を得る方か。

それとも、自分が神となり死に至る道なのか、と。

このように、神は人間の背きを知りながらも、

それでも交わりを求めて問い掛けてくださっているのです。


「どこにいるのか」(創世記3:9)


私のもとに立ち帰りなさい、と。


【人間が交わりを取り戻すために】

そして、21節の言葉に私たちは神の愛に満ちた配慮を見出します。

そこにはこのように記されています。


主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創世記3:21)


自分の存在を恥ずかしがり、隠すのは、

人間本来の交わりのあり方ではありません。

しかし今や、それができない情況にあって、

神は「皮の衣」を人間に与えたのです。

彼らが自分たちで作った「いちじくの葉」をつづり合わせて作った腰帯は、

正直、気休めにしかなりません。

また、時が来れば、枯れて、朽ち果ててしまうものです。

神は、彼らがまたお互いに顔と顔を合わせて、向き合うことができるように、

「皮の衣」を与えられたのです。

それは、動物の犠牲の上に成り立っていました。

神が愛されたのは、人間だけではありません。

神は、造られたすべての被造物を愛しておられる方です。

それにもかかわらず、神は、動物を犠牲にして、

人間のために、「皮の衣」をつくってくださったのです。

人間が神に背いてもなお、神は豊かな交わりへと、

私たち人間を招き続けておられるのです。


【神は私たちを探し求めておられる】

神は今も変わらずに、私たちに向かって呼びかけておられます。

「どこにいるのか」と、私たちを探し続けておられます。

私たちが何度、神に背を向けようとも、

神は「ここにいます」と私たちが応えるのを待って、

何度も何度も呼びかけられるのです。

愛する子を探すように、

「わたしの子よ、どこにいるのか」と言って、

この交わりに戻ってきて欲しいと、

私たちを呼び求めておられるのです。

ですから、神の招きに応えて、神の御前に出て行きましょう。

今日も神は、あなたがたに呼びかけておられるのですから。

わたしの子よ、「どこにいるのか」と。