「ただひとつの慰め」

『ただひとつの慰め』

聖書 創世記5:11-32、ローマの信徒への手紙14:7-9

日時 2015年 9月 13日(日) 礼拝

場所 小岩教会(日本ナザレン教団)

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【「アダムの系図の書」を読む】

私たちが聖書を読むとき、

そのつまずきの原因のひとつとなるのが、「系図」の存在でしょう。

初めて聞くような名前が連なり、読んでいて正直わけがわからなくなります。

一体この系図が、この場所におさめられていることに、

どのような意味があるのでしょうか?

創世記5章の系図を読む際に、注目すべきなのは、

この系図の記述にパターンを見出すことができることです。

6-8節のアダムの子セトについての記述を見てみましょう。

そこにはこのように記されています。

 

セトは105歳になったとき、エノシュをもうけた。セトは、エノシュが生まれた後107年生きて、息子や娘をもうけた。セトは912年生き、そして死んだ。(創世記5:6-8)

 

セトの記述と他の人々の記述を比べてみるとき、

この系図において、名前と年齢以外の言葉が、

ひとつの型として繰り返されていることに気付くでしょう。

そして、このパターンに当てはまらない人物が、

この系図の中に4人いることを発見できます。

それは、アダム、エノク、レメク、そしてノアの4人です。

この4人に注目する時、創世記5章に記されている

「アダムの系図の書」が創世記に収められた理由が明らかになります。

 

【神の祝福を受けて】

さて、アダムの系図は、このようにして始まりました。

 

これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。(創世記5:1-2)

 

創世記の著者は、最初の人間であるアダムの系図をまとめるにあたって、

読者である私たちの目を、神の創造のわざに向けます。

「私たち人間は、神によって造られた」存在であると。

この箇所で、特に注目すべきなのは、

「神は……男と女を祝福された」と語られていることです。

1-2節は、明らかに、創世記1:26-28の言葉を意識して記されています。

そのため、「神は……男と女を祝福された」と語るとき、

著者は、創世記1:28の祝福の言葉について述べているのです。

そこにはこのように記されています。

 

産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。(創世記1:28)

 

神は、ご自分が造られたすべてのものに向かって

「産めよ、増えよ」と語り掛け、人間に向かって、

この祝福の言葉を語りました。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と。

それは、この世界のすべてのものは、

神によって「極めて良い」(創世記1:31)ものとして造られたからです。

極めて良い存在が、この地に増え広がっていくことを、

神は心から喜び、それを願ったから、

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福の言葉を述べたのです。

そして、この祝福の言葉は、

神が多様性を喜んでいる証しでもあります。

あるひとつの決まりきった型ではなく、

ありのままの、そのままのかたちで存在することを神は喜ばれているのです。

ですから、私たち人間の間に、様々な言語や文化があること。

様々な生き方があること。

様々な考え方があることは、神の祝福の現れなのです。

「産めよ、増えよ」という祝福を、私たちは神から受け取っているのです。

 

【それでもなお祝福を受け続けている】

さて、この系図を読むとき、

何度も何度も「息子や娘をもうけた」という言葉が繰り返されています。

これは明らかに「産めよ、増えよ」という祝福の言葉が、

アダムの子孫たちにも与えられているという証拠です。

これは驚くべきことです。

というのは、神に祝福を受けながらも、

人間は、神に背いたことが、これまで創世記3-4章で語られてきたからです。

アダムとエバは、神の命令に背き、食べてはならない実を食べました。

また、その罪を他人になすりつけました。

アダムの子カインは、神によって与えられた弟アベルを殺しました。

これらの出来事の結果として起こったのは、この大地が呪われること。

人間の間に罪が入り込んできたこと。

そして、エデンの園から人間が追放されたことです。

しかし、それでもなお、神は人間を祝福されました。

「産めよ、増えよ」という祝福の言葉を取り下げることなく、

神はなおも、人間を祝福されたのです。

私たちはこの系図に、神の一方的な愛を見出すことができるのです。

 

【「神の像」と「アダムの像」】

このように、神の祝福のわざとして系図を位置づけた後、

著者は、アダムの子孫たちについて語り始めます。

 

アダムは130歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。(創世記5:3)

 

アダムの子であるセトは、アダムに似た子であったと著者は語ります。

1節を見てみると、アダムは神に似せて造られた者であることがわかります。

しかし、アダムの子であるセトは、

アダムと同じように、「神に似た者」として生まれたとは記されていません。

もちろん、すべての人間は神によって「神に似た者」として造られたため、

セトも同じように、「神に似た者」「神の像」を持つ者です。

しかし、ここではそれよりも「アダムに似た」ということが強調されています。

では、「アダムに似た」とは、どういうことでしょうか?

それは、神に背く側面を持っているということです。

アダムとエバのように、神の命令に背き、

この大地が呪われる原因になってしまう存在。

セト以降のすべての人間は皆、「神の像」と「アダムの像」という、

ふたつの側面をもっていることを、この系図は語っているのです。

このように、私たち人間は、アダムが神に背いて以来、

「神の像」に加えて、「アダムの像」を持つようになってしまったため、

神に背く生き方を選ぶようになってしまいました。

しかし、「神の像」を完全に失ってしまったわけではありません。

21-24節に記されている、エノクの記述に目を移すとき、

エノクは「神と共に歩んだ」と書かれていることに気づきます。

そのため、エデンの園を追放された後も、

神と共に歩むことは可能だったことがわかります。

しかし、多くの人々は、神に背き続けたのでしょう。

 

【「慰め」の子ノア】

そして、時は流れ、アダムの系図は最終的にノアに辿り着きます。

ノアというひとりの男に注目させることが、この系図の第一の目的です。

私たちは、ノアの父親であるレメクが、

ノアに名前を付ける場面を通して、その理由を知ることができます。

28-29節にこのように記されています。

 

レメクは182歳になったとき、男の子をもうけた。彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。(創世記5:28-29)

 

ここでは、ノアが慰めを与える子として紹介されています。

ノアが「慰め」だから、著者はノアに注目をしているのです。

では、なぜノアが慰めであるといえるのでしょうか?

それは、神に背き続ける人間の歴史が繰り返される中、

ノアは神に従い、神と共に歩むことを予感された存在だったからです。

父レメクは、ノアが、神と共に歩み、神に従って生きることを通して、

この大地の呪いが解かれると、信じたのです。

 

【私たちにとっての慰めとは何か?】

しかし、そのノアは本当に慰めとなったのでしょうか。

ノアは確かに、神と共に歩み、神に従い続けました。

そのことは、6章以降に記されているノアの物語を読めば、明らかです。

しかし、ノアの後の時代はどうだったでしょうか?

残念ながら、神に背き続ける人間の現実を、聖書は生々しく物語っています。

その意味で、ノアは真実の慰めとはならなかったのです。

そのため、この系図を読み進めて、「ノア」という名前と出会うとき、

私たちはひとつの問いと出会うことになります。

「私たちにとって、慰めはあるのか?」

「あるとすれば、一体何が慰めとなるのか?」と。

これはとても大切な問いです。

私たちが抱くこのような問いを、宗教改革の時代の人々も考えました。

1563年に、ドイツのハイデルベルクで書かれて出版された

「ハイデルベルク信仰問答」という文書に、このような問いが記されています。

 

問1「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。」(『ハイデルベルク信仰問答』より)

 

「信仰問答」とは、「私たちは何を信じているのか」

ということを教えるために、対話形式を用いて説明をしているものです。

「ハイデルベルク信仰問答」は、キリスト教の歴史の中でも、

重要な信仰問答とみなされているもののひとつで、

今日まで用いられてきました。

この時代の人々も、私たちにとっての慰めは何なのかを考え、

このように問い掛けたのです。

そして、それはとても大切な問いだからこそ、

この信仰問答の一番最初の問いとなりました。

この問いに対する答えは、このように記されています。

 

答「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。」(『ハイデルベルク信仰問答』より)

 

この後も、この一文の解説が続きますが、重要なのはこの一文でしょう。

生きている時も、死ぬ時も、私たちのただ一つの慰めとは、

私たちが救い主イエス・キリストのものである。

当時のキリスト者たちは、このように理解していましたし、

もちろん、今の私たちも同じように理解し、信じています。

 

【キリストこそ、ただひとつの慰め】

レメクは、ノアに慰めを見出しましたが、それが限界でした。

しかし、「私たちはキリストのものである」ということに

今や私たちは慰めを見出すことができるのです。

これこそ、私たちのただ一つの慰めです。

使徒パウロも同じように確信して、

ローマの信徒への手紙にこのように書きました。

 

生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(ローマ14:8)

 

使徒パウロをはじめ、宗教改革の時代の人々、

そして、歴史上のすべてのクリスチャンたちは、

「私たちがキリストのものであること」に慰めを見出してきたのです。

それは、彼らが、罪の悲惨さを突きつけられてきたからに他なりません。

聖書は語ります。

 

『……心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』……『隣人を自分のように愛しなさい。』(マルコ12:30-31)

 

聖書に記されている神の言葉と真剣に向き合うとき、

この言葉の通りに生きることができず、

いや、それどころか、神とわたしの隣人を憎む傾向がある自分と出会い、

自分の抱える罪の悲惨さと向き合わされます。

それは、個人的なレベルに留まりません。

歴史を通しても、人間の罪の悲惨さは明らかに示され続けています。

差別は絶えず起こり、争いも絶えません。

経済の格差は広がるばかりで、

弱い者、苦しむ者を省みようとしない社会が築かれています。

その根本的な原因となっているのは、私たちが抱える、罪ゆえです。

罪が引き起こす、このような悲惨さから、

キリストが私たちを救い出してくださると、神は聖書を通して約束されました。

すべての人の罪を赦すために、十字架の上で死に、

復活されたイエス・キリストこそ、

私たちにとっての希望であり、慰めなのです。

私たちは、キリストのものであるから、罪の悲惨さから解放されます。

ですから、私たちは、キリストにこそ慰めを見出すことができるのです。

私たちは、慰めも、救いも、希望も、キリストによってのみ、

神から得ることができるのです。

この世界には慰めを提供するものが様々なかたちで溢れています。

確かに、それらのものは私たちに慰めを与えてくれることでしょう。

罪の問題ばかりでなく、悲しみや、孤独を紛らわせてくれたりもします。

しかし、いつしか気付くのです。

これらのものが提供する慰めは、一時的なものに過ぎないと。

聖書は、力強く私たちに証言します。

「キリスト以外、他の何ものによっても、

私たちは救いを受け取ることが出来ない」と。

それがたとえ、神に与えられた良いものだったとしても、

キリスト以外から、究極の慰めは受けることはできないのです。

そう、私たちにとってのただひとつの慰めは、主イエス・キリストなのです。

これが、私たちの確信であり、希望です。

イエス様が私たちにとっての慰めであり続けてくださることに、

感謝しつつ、日々歩んで生きましょう。