「わたしたちはイエスの証人」(説教者:中谷信希神学生)

みなさん、改めましておはようございます。夏が終わり、涼しくなってきました。秋というのは過ごしやすいよい季節だと思います。秋が過ぎると冬がやってきます。わたしは東京で冬を越すのははじめてですから、どのくらい寒いのか、寒さに耐えきれるだろうかと、いまから少し心配です。

 本日は10月の第2日曜日です。わたしたちナザレン教会では、この10月第2日曜日をナザレン日としています。世界中でナザレン教会は150以上の国で宣教をしています。国連、国際連合の加盟国は2014年で193ヵ国ですから、世界の約8割の国で宣教していることになります。日本では68ヵ所の教会におよそ4,000人の信徒がいて、それぞれの場所で福音を伝えるはたらきが続けられています。


このような宣教の働きは、どのように始まったのでしょうか。

イエス・キリストは30歳ごろにイスラエルのガリラヤ地方で伝道活動を始められたといわれています。奇跡を行われたり、病人をいやしたり、死んだ人を生き返らせたりしながら、弟子たちを連れて神の国の福音を宣べ伝えていました。ところが、そのことをよく思わなかった者たちによって、苦しみを受けられ、死刑の宣告をうけ、十字架にはりつけにされてしまったのです。しかし、死んだ日から3日目によみがえられました。

そのあと弟子たちに現れ、姿を見せられました。そして、弟子たちの目の前で天に昇って行かれたというのが、イエス・キリストの生涯です。


 先ほど読んでいただいた使徒言行録1章6節~11節は、キリストが使徒や弟子たちとやり取りをして、天に上げられる話です。

6~8節は、集まっていた使徒たちがイエスさまに問いかけ、それに対してイエスさまが答えているという場面です。使徒たちは「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」と尋ねています。

その頃イスラエル(パレスチナ)は、ローマ帝国に支配されていました。ですから、使徒たちを含めたイスラエルの民はローマの支配から解放されて、独立国として復興されることを願っていました。そういう彼らは、旧約聖書の預言の成就として来られたイエスさまこそイスラエルを救い、帝国の支配から解放してくれる方だと思っていました。十字架にかけられて死んだイエスさまが復活し、弟子たちの目の前に現れましたから、この復活の力に期待して、この時こそ自分たちの国を建て直してくださるだろうと思ったのでしょう。彼らが思い描いていた国は、イエスさまが王さまになり、まわりの国々に負けない国として立つことでした。

しかし、イエスさまがおっしゃる国、神の国は、弟子たちが考えていた神の国とは違うものでした。イエスさまが意味される神の国とは、国家としてのイスラエルではなく、神が恵みと力をもって支配されることでした。神の国とは、ただイスラエルがローマから解放されることではなく、神が御自分の主権をもって治められる国です。ローマ帝国でも、王でもなく、神が支配されます。その本当の意味での神の国は、イエスさまが来られたことによって既に始まっています。しかし、聖書は、やがて神の国が完全な形で地上に実現するときがくるといっています。


8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」この8節の言葉に注目してみたいと思います。

これは、イエスさまの約束であります。そして、その約束は果たされました。聖書を読み進めていけば、2章に書いてある聖霊降臨の出来事が約束の成就だとわかります。

聖霊を与えられたことによって、弟子たちは力を受けて宣教に出ていきました。宣教は弟子の弟子に受け継がれ、地の果てにまで至りました。

教会の主は、神です。教会は神のものです。ですから、宣教されて教会ができていくというのは、神の支配の領域、神の国が広がっていくことです。神を神とするとき、その人の支配者は神です。わたしたちの主は、神さまですから、わたしたちは神の国の民です。それは宣教によってもたらされました。

8節に書いてあるように、使徒の働きはエルサレムからユダヤ、サマリアへと広がっていきました。そして、地の果てに至るまで続いていきました。弟子の弟子たちも聖霊の力によって、地の果てまで宣教をしていくことができました。福音の宣教は2000年の時間といくつもの国境や海を超えて、なし続けられていきました。

聖書の出来事が起こったイスラエルから見れば、地の果てといえるような日本に、わたしたちは今います。使徒の働きと、わたしたちの間にある隔たりとは、時代や距離だけではありません。宣教は国を超えました。そこには、文化の違いや言葉の違い、民族の違いがあります。わたしたちに至るまでにはそういうものを超えてきたということを覚えていただきたいと思います。

ナザレン教会も違いを超えてなされた宣教の結果です。ナザレン教会はアメリカにあるいくつかの教会が合同して創立されました。それから数年後にアメリカでクリスチャンになった日本人の青年たちが、宣教師として日本に帰ってきました。日本のナザレン教会は彼らによって建てられていきました。わたしたちの小岩教会は1958年に教会の活動が始まり、今年で58年目を迎えています。

イエスさまは、話し終わると弟子たちが見ているうちに天に上げられました。そこに、白い服を着た2人の天使が現れて、

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」

といいました。これは、彼らを現実に引き戻そうとしている言葉です。ぼんやりと、空を眺めていることを叱っています。ぼーっとしているな、なすべき務めがあるではないかといっています。わたしたちもこの地上で、現実の中で生きています。わたしたちの現実とは、わたしたちの家族であり、学校であり、職場であり、また、住んでいる地域です。

なすべき務めとは、イエス・キリストの証人として生きていくことです。この務めは、わたしたちにも与えられています。それは、わたしたちの信仰は決して現実逃避ではないということです。

イエスさまは、聖霊が降るときに力を受け、地の果てまで証人となるとおっしゃいました。この約束の直接的な相手はその言葉を聞いていた使徒たちですが、わたしたちにも聖霊は働かれています。イエスさまの約束が成就して、地の果てにいるわたしたちもキリストの証人となりました。証人とは、証しをし、事柄が真実であることを明らかにする人のことです。証人はその人が知っていることを証明することによって務めを果たします。わたしたちがイエスさまの証人として、何を証しするかというと、わたしたちが知っていることです。わたしたちが知っていることは、イエスさまについてのよい知らせ、福音です。

神は、わたしたちの罪の罰を受けさせるため、御子イエスを遣わされました。そのキリストが罪を引き受け十字架につけられ、死なれたことによってすべての人の罪は赦されました。

罪の赦しは、キリストを信じることによって自分のものとして受け取ることができます。これによって、人間は自由にされ、新しい命を与えられ、信じる者はだれでも永遠の命をもつことができます。

キリストの生涯と死と復活によって、神と人間はもう一度結び合わされました。罪は人間を神から引き離すものですが、キリストはその死によって、罪の罰を受けられました。そのキリストを知って、愛するとき、その人は神と和解させられます。

これが、イエスさまがわたしたちにしてくださったこと、よい知らせです。


では、もっているよい知らせをどのように証しすることができるでしょうか。クリスチャンの証しには3段階あるといいたいです。


1段めの証しは、言葉の証しです。イエスさまのことを話すことです。これは、すぐ思いつくものであると思います。直接的でわかりやすいものです。聖書も言葉ですし、説教も言葉で語られています。


2段めの証しは、行いでの証しです。証しというのは言葉だけとは限りません。その人の行動でキリストを指し示すことができます。行いの証しは、自分の方法でできます。生活を通しての証しともいうことができると思います。普段の生活で主を証しすることができていればすばらしいことです。

それについては、次のような例話があります。スタンリーという人の話でして、スタンリーはあるときアフリカでクリスチャンであるリビングストン博士に出会いました。スタンリーはしばらく博士と一緒に生活をしました。そのとき、スタンリーは、次のように言ったそうです。「もし、これ以上リビングストン博士と一緒に生活をしていくと、博士は何も言わないけれども、わたしは完全にクリスチャンにさせられてしまう。」

この話は日常生活の中で証しをすることが強力なものであることを表わしています。この話を聞くと、わたしは自分をかえりみて、まわりの人たちとの関係の中で、神を表わしているだろうか。キリストを表現しているだろうかと思わされます。


3段階の3段めは、存在による証しです。存在による証しは何もしなくてもそこにいるだけで証しになることです。

 キリストの香りを放つクリスチャンという言い方をするのを聞くことがありますが、それは存在でイエスさまを証ししている人といえると思います。人を花のようにたとえています。香りのよい花は、そこに存在しているだけで、まわりにそのよい香りを感じさせることができます。存在による証しとはそういうものだといえるでしょう。


 そうはいっても、という現実がありますが、神はわたしたちを変えることができます。弟子たちに与えられたのと同じ聖霊を通して、今までの自分とは違う新しいものにされていきます。具体的には、聖書の御言葉によってです。わたしたちは教会で聖書からの説教を聞くことができます。また、自分で聖書を読むこともできます。御言葉に触れ続けることで、わたしたちは変えられていきます。

それぞれの証しがどの段階にあったとしても、証しをしていくことができるのは、神の聖霊がなさることです。わたしたちひとりひとりに、また教会に聖霊が豊かに働かれるように祈っていきましょう。


イエスさまは、再びこの世界に救い主として来られます。キリストが再び来られることはわたしたちの希望、望みです。そのときまで、わたしたちは、言葉で、行いで、存在で、イエス・キリストを証しし、よい知らせを伝えるものとなっていきましょう。