「神の義が実現するために」

「神の義が実現するために」 

聖書 マタイによる福音書3:13-17、イザヤ書11:1-5

日時 2016年1月10日 小岩教会(日本ナザレン教団)

 

【主イエスの申し入れを拒むヨハネ】

イエス様が洗礼者ヨハネからバプテスマを受けたという

この物語は、すべての福音書に記されています。

4つの福音書を読み比べてみると、マタイにのみ、

イエス様と洗礼者ヨハネの間で交わされた会話の内容が

記録されていることがわかります。

それは、イエス様のバプテスマをめぐって交わされた会話でした。

マタイは、イエス様とヨハネの会話をこのように記しています。

 

ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼[バプテスマ]を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。(マタイ3:14-15) 

 

イエス様がバプテスマを受けることを、

ヨハネが拒もうとしたのには、理由がありました。

それは、救い主として、自分の「後から来る方」は、

イエス様に違いないと、ヨハネが確信していたからです。

ヨハネは、自分とイエス様の関係について、このように述べています。

 

わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼[バプテスマ]を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼[バプテスマ]をお授けになる。(マタイ3:11)

 

このようにヨハネは、イエス様は自分よりも優れている方だから、

自分はイエス様にバプテスマを授ける資格などないし、

自分の方がイエス様からバプテスマを受けるべきだと考えていました。

ですから、バプテスマを授けて欲しいという、

イエス様からの申し入れをヨハネが拒むのも当然です。

 

【「すべての義を実現する」とは?】

しかし、バプテスマの申し入れを拒んだヨハネに対して、

イエス様はこのように答え、ヨハネからバプテスマを受けました。

 

「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ3:15) 

 

「正しいことをすべて行う」という言葉は、

「すべての義を実現する」と訳すことができます。

「義」とは、神と人間との間に、

あるべき正しい関係が保たれている状態です。

つまりイエス様は、私たちが神と正しい関係を築き続けることは、

私たちに相応しいことだと語ったのです。

しかし、実際はどうだったのでしょうか。

イエス様の時代、人々は神と正しい関係を

築くことが出来ていたのでしょうか?

残念ながら、そんなことはありませんでした。

主の道をまっすぐに整えるために、ヨハネが現れ(マタイ3:3)、

彼は「悔い改めなさい」(マタイ3:2)と

人々に語り続けなければならなかったのですから。

ユダヤ人たちは、旧約聖書の時代の反省から、

少しは神と向き合うようにはなりました。

しかし、相変わらず、多くのユダヤ人たちは、

他の国の人々を愛せず、嫌っていました。

ユダヤの宗教的な指導者たちは、罪人と言われる人々を蔑んでいました。

社会的な立場が弱い人々や、貧しい人々は憐れみを受けることが出来ない、

そんな冷たい社会が築かれていました。

同じユダヤ人の間でも、人々は愛し合えず、

今の私たちと変わらず、お互いに傷付け合って生きていました。

このように、神が望んだ関係を人々は、

周囲の人との間にも、そして神との間にも築けずにいました。

ですから、イエス様は言われたのです。

 

「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ3:15)

 

そう言って、イエス様は、バプテスマを受けるため、

ヨハネの前へと自ら進み出たのです。

 

【主イエスは、十字架を見据えてバプテスマを受けた】

ヨハネが行ったバプテスマは、

人々を悔い改めへと導くためのものでした。

しかし、イエス様がヨハネから受けたバプテスマは、

イエス様自身が悔い改めへと導かれるためのものではありませんでした。

そうではなく、私たち人間と同じ立場に立つために、

イエス様はバプテスマを受けられたのです。

イエス様は、神の子であり、罪の無い方ですから、

本来ならば、私たちと同じ立場に立てるはずがありません。

しかし、イエス様はそれにも関わらず、私たちのために、

乗り越えることが不可能な壁を乗り越えてくださったのです。

神の子であるイエス様は人間として、

一組の夫婦のもとにお生まれになりました。

そうすることによって、

イエス様は私たち人間と同じ立場に立ってくださいました。

その上、イエス様は罪がないにも関わらず、

バプテスマを受けたことを通して、罪人と同じ立場に立ってくださいました。

イエス様がそこまでしてくださったのは、

私たちの罪を背負って、罪の赦しを私たちに得させるためでした。

イエス様はバプテスマを受けることを通して、

私たちの罪を背負い、すべての罪人の代表となってくださったのです。

それは、イエス様が十字架にかかるために必要な準備だったのです。

 

【主イエスはなぜ苦難の道を歩まれたのか?】

そもそも、なぜイエス様は、

神の義が実現することを求めて、バプテスマを受けたのでしょうか。

そして、なぜ私たちと神との交わりが回復するために、

イエス様は自ら進み出て、命をかけてまで、

十字架へと向かう苦難の道を歩まれたのでしょうか。

イエス様は人々に誤解され、拒絶され、後ろ指を指されながらも、

人々の病を癒し、奇跡を行ない、罪を赦し、神の言葉を語り伝えました。

また、イエス様は、侮辱され、苦しめられ、

自分に従ってきた弟子たちからも見放され、

すべての人の罪を背負い、ムチで打たれ、血を流されました。

そして、最終的には、十字架にはりつけにされて死なれました。

イエス様はなぜ、そこまでされたのでしょうか。

神はなぜ、愛する独り子であるイエス様に、

このような苦しみの道を歩ませることをゆるしたのでしょうか。

それは、私たち一人ひとりを、この上なく愛しているからです。

私たちを心から愛しておられる神は、

私たちのことを放ってはおけないのです。

この世界は、神の義とは程遠い状態にあります。

人間と神の関係も、人間同士の関係も傷ついています。

また、人間と他の被造物の関係も、人間とこの世界の関係も、

深く深く傷ついています。

神によって造られた私たち人間が、争い合い、傷付け合っているからです。

だから、神は苦しみ、そして悲しまれました。

神の義が実現していないこの世界で、

神が愛してやまない私たち人間が苦しむ姿を見て、

神は行動せずにはいられなかったのです。

だから、神の義が、神が喜ばれる正しい関係が築かれている状態が、

この世界に実現されるために、イエス様は進み出てくださったのです。

罪の赦しをもたらすために。

そして、神と私たち人間の関係を回復へと導くために。

この世界に神の義が実現するために。

イエス様のバプテスマは、このような神の計画の大きな一歩だったのです。

 

【私たちは、キリストを着ている】

さて、イエス様がバプテスマを受けたことは、

単に、私たちの罪を赦すための神の計画の一部ではありません。

使徒パウロは、ガラテヤの教会に宛てた手紙の中で、

バプテスマが私たちにもたらす神の偉大な業について、

このように書いています。

 

洗礼[バプテスマ]を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤ3:27)

 

バプテスマを受けた者は、「キリストを着ている」とパウロは言います。

キリストを着せることによって、

神は私たち一人一人を新しく造り変えてくださるのです。

それまでこの身を包んでいた古い衣は、脱ぎ捨てられ、

キリストという新しい衣をまとうのです。

ですから、バプテスマは、

私たちと神の関係を回復するだけのものではないのです。

キリストを着ているならば、

バプテスマを受けたときのイエス様と同じように、

私たちも神から宣言されのです。

 

「これはわたしの愛される子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)

 

そうであるならば、私たちは、これまでと同じように生きることは出来ません。

「これまでと同じ生き方をするべきではない」のではなく、

キリストを着ている私たちは、「もはや同じ生き方が出来ない」のです。

欺きや、嫉妬、自己中心などといった、神の義とはほど遠い生き方ではなく、

神が喜ばれるあり方を選び取って生きる者へと

私たちは、キリストを着ることを通して、

これからの生涯をかけて少しずつ造り変えられていくのです。

そして、キリストを着ている私たちは、イエス様が神に従い続けたように、

神に従い続ける歩みへと招かれています。

それは、キリストを着た私たちを用いて、

この世界に神の義を実現したいという、私たちを招く神の声です。

神などいないと思えるような場所に、

神は私たちを遣わし、私たちを用いて神の愛を伝えようとされています。

正義と憐れみをもって生きる私たちを通して、

正義や憐れみのない場所に、

神は、正義と憐れみをもたらしたいと願っておられます。

そのような存在として、神は私たちを用いようとされています。

神の義が、神の領域である天でのみ実現するのではなく、

この世界においても実現されるために。

さぁ、神が「行け」と言われた場所へと出て行き、

神の義をこの世界に現そうではありませんか。

祈りと、言葉と、行い、そしてキリストを着た私たちの存在を通して。