「ひとりの身代わりとひとつの民」(説教者:中谷信希神学生)

聖書:ヨハネによる福音書18114、出エジプト記314

日時:2016214日(日) 礼拝

説教者:中谷信希神学生(ナザレン神学校1年)

 

先週水曜日は灰の水曜日とよばれる日でした。

灰の水曜日は悔い改めのしるしとして額に灰を塗ったことが

由来となっています。

この灰の水曜日から四旬節は始まります。

四旬節は、レントとか受難節とも言われていまして、

キリストの復活日前日まで続きます。

四旬節はキリストのご受難をしのび、悔い改めを表明し、

慎み深く生活を送る季節です。

そして、今日が四旬節最初の日曜日です。

受難のはじまり、イエスさまの受難もヨハネ18章にある出来事から

はじまっていきました。

 

神の子イエス・キリストは、弟子たちと夕食をして、祈っておられました。

それから、部屋を出て弟子たちを連れて、

キドロンという深い谷を越えていかれました。

エルサレム神殿の東にある、深さ4550mの谷です。

向かったのは谷を越えたところにある園でした。

他の福音書マタイとマルコではゲツセマネと呼ばれている場所です。

そして、その中に入られました。

それは、おそらく祈るためだったでしょう。

イエスさまはたびたびそこで祈っておられました。

 

そこに弟子のユダがイエスさまを捕まえるためにやってきました。

イエスさまは弟子たちと一緒に、たびたびこの園に来ていたので、

ユダもその場所を知っていました。

ユダは兵士たちや祭司長、ファリサイ派の人たちを連れてやってきました。

そのときは夜でした。ユダたちは松明や武器をもっていました。

これはひとりの人間を捕まえるためにしては大げさだと思います。

彼らは、イエスさまが病人をいやしたり、奇跡を起こしたりしていたので、

その不思議な力を恐れていたのかもしれません。

 

そもそも、イエスさまが彼らから目をつけられ、狙われていたのは、

神の言葉を語ったり、病気のいやしや奇跡を行ったりして

民衆から人気があったからでした。

そのときファリサイ派の人たちは民から尊敬されていましたが、

民衆の心がイエスさまに向かうようになって焦っていました。

彼らの世界の中にいるけれども、明らかに違う、異なる存在である

とも感じていました。

そうして、彼らはイエスさまを排除しようと考え、

殺そうとたくらむようになりました。

 

ユダはイエスさまを捕まえるために祭司長やファリサイ派の人、

それに部隊ひとつ分の兵士も引き連れて来ていました。

イエスさまは、捕まえようとする人たちが大勢やってきたとき、

「だれを捜しているのか」と自分のほうから声をかけています。

彼らが、「ナザレのイエスだ」と答えると、

「わたしである」と自ら名乗っておられます。

この態度はイエスさまが、逃げきれない、逃げても無駄だ、もうだめだ、

と思ってあきらめてしまったからでしょうか。

捕まえようとする者たちが大勢やってきて、

まわりを取り囲んでいるような状況です。

 

しかし、あきらめていたからではありませんでした。

イエスさまは自分の身に起こることを知っておられました。

祈りの中で「父よ、時が来ました。」と言われて、

弟子たちには「今、世を去って、父のもとに行く。」と告げておられます。

捕まえられて死ぬ、世を去る時が来たことに気づいておられたのでした。

そのうえで、進み出て「だれを捜しているのか」と問いかけられたのでした。

ですから、イエスさま自身も逃げようと思えば逃げることもできたはずです。

だいたい、イエスさまも自分の身に起こることがわかっていたならば、

わざわざ谷を越えて園に行かなくてもよかったわけです。

逃げて生き延びることもできたはずです。

それでもなお、逃げださなかったことから、積極的な姿勢がうかがえます。

ヨハネは、この場面のイエスさまが堂々とした姿でおられたことを

書いています。

 

ここで、イエスさまが、兵士たちに対して言われた「わたしである」

という言葉に注目してみたいと思います。

ヨハネによる福音書には「わたしである」、「わたしは~である」

という表現が何回も出てきます。

たとえば、「わたしは世の光である」、「わたしは良い羊飼いである」、

「わたしはまことのぶどうの木である」という言葉です。

旧約聖書の出エジプト記では、神が御自分のことについてモーセに、

「わたしはある。わたしはあるという者だ」と語られたことが

記されています。

これは、神が御自分のことを語られる時に使う表現です。

 

ヨハネはここでイエスさまが神としての権威を現されたことを

書いています。

この場面ではイエスさまが自分の身分を明らかにするために

「わたしである」といっておられます。

 

イエスさまが言われた「わたしである」という言葉はギリシャ語の原文では、

「わたし」を強調した言い方になっています。

直訳すると「わたしがわたしである」となります。

逆にいうと、他の人はわたしではない、

イエスと他の人は違うという明確な区別でもあります。

あなたたちが捜しているナザレのイエスとはわたしのことだ、

というわけです。

 

また、ここでは、「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」とも言われています。

ここで、言われていることは、あなたたちが捕まえるべき者は、

ナザレのイエスであるわたしだ、ということです。

ここに一緒にいる弟子たちはわたしの仲間であるが、

あなたたちが危険人物として排除しようとしているのはわたしだけだ、

といわれています。

このように、イエスさまが御自身を示されると

兵士たちは後ずさりして地面に倒れてしまいました。

この様子もイエスさまの答えに力があったことを示しています。

 

また、イエスさまは兵士たちに対して抵抗する様子もありませんでした。

弟子のペテロが剣で、大祭司の手下に切りかかりましたが、

「剣をさやに納めよ」といさめておられます。

それから、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と

おっしゃっています。

イエスさまにとって父とは、神のことです。

イエスさまは神を父と呼んでおられました。

イエスさまが神を父と呼びかけることは、

イエスさまと神との特別な関係を表わしています。

その父なる神から杯を与えられたわけです。

杯とは、飲み物を入れる器のことですが、

聖書には神から運命を受けるものの象徴として出てきます。

イエスさまは神からの杯を飲もうではないかと、

神の計画を積極的に果たしていこうとされています。

この場面で起きていることが神の計画であることをわかっておられ、

神のみこころに従う決心をしておられます。

 

神の意思を受け入れたイエスさまは捕えられました。

兵士たちとユダヤ人たちは、イエスさまを捕えて縛りました。

そして、アンナスのところに連れていきました。

アンナスは大祭司カイアファのしゅうとです。

アンナスは大祭司の経験者で現役ではありませんでしたが、

議会でも重要な位置にいました。

イエスさまは、大祭司カイアファの屋敷で取り調べを受ける前に

アンナスのところで尋問を受けられたのでした。

14節には、ユダヤ人にある助言をしていたのは

カイアファだったと記されています。それは、

 

「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」(18:14

 

というものでした。

あるとき、最高法院が召集されたときに

カイアファがファリサイ派に対して言ったことでした。

ヨハネ114953節に書いてありますから、見てみましょう。

 

彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。

「あなたがたは何も分かっていない。ひとりの人間が民の代わりに死に、

国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えない

のか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。

その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、

と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子た

ちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、

彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

 

大祭司のこの言葉によって、イエスさまを殺すたくらみが始まりました。

こうしてイエスさまの命が狙われることになったので、

カイアファは、イエスを殺すきっかけをつくった人といえます。

しかし、カイアファ自身は気づいていなかったかもしれませんが、

その言葉にあるのは政治的な意味だけではありませんでした。

彼は神の代弁者としても語っていました。

カイアファは、民の代わりに死ぬ必要があるのはこのひとりだけだ、

と考えていたかもしれません。

しかし、神の意思は、民の身代わりに死ぬことができるのは

このひとりだけだ、というものでした。

 

イエスさまは弟子のユダに裏切られ、捕まえられて、

結局、十字架に磔にされて死んでしまいます。

しかし、これはただの無実の者の悲劇の死ではなくて、

キリストは民の代わりに死なれたのです。

民という言葉には多くの人が含まれていますが、

ここでは、ひとつの民という意味です。

わたしたちはキリストが身代わりとなって救われたひとつの民に

含まれています。

「散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」とあります。

キリストを信じて神の子とされたわたしたちは

キリストのもとにひとつに集められています。

わたしたちは、出身や家、住むところ、学校、職業などが違っていて、

ばらばらで散っていました。

ひとりひとりの名前も顔も知らず、話をしたこともありませんでした。

けれども、キリストが死んで、ひとつにされました。

イエス・キリストによって、教会で、わたしたちは出会い、

近い者とされました。

 

わたしは、祈り会や礼拝で教会に集まって、みなさんと会うたびに、

わたしにはすばらしい信仰の仲間がいると、励まされています。

そしていま、このように教会に集まっています。

それは、キリストの死によって集められたと聖書は言っています。

わたしたちは、キリストへの信仰においてひとつです。

教会はイエス・キリストの共同体であります。

キリストの死と復活を信じています。

 

カイアファは、自分の考えから言ったのではなく、預言して言ったのでした。

人間の考えではありませんでした。

神のお考え、計画でした。

その神の子イエスは神の計画の杯を受け入れ、

しかもそれを積極的に果たしていかれました。

ユダたちが捕まえることを妨げず、

「わたしである」といって神の権威を現し、進んで神の計画を行われました。

イエスさまは祭司やファリサイ派から憎まれるようになって、

十字架で死ぬことになりましたが、

それも神ご自身が、それらの人びとを通して実行されたことでした。

 

わたしたちはいま、ここに集められて神を礼拝し、祈っています。

また、イエス・キリストの教会につながっているひとりひとりが

神によって集められてキリストのもとにいます。

そのようにして教会の、信仰の仲間とともにいることは、

神のみこころに従って十字架で死んだイエスさまの業があったからです。

神のみ心によって、イエスさまは苦しまれ死んで、

わたしたちは集められてひとつにされました。

わたしたちが集められて、ここにひとつにされていることは神の思いです。

わたしたちをひとつにするためにイエス・キリストは苦しまれ、

死なれたということをおぼえて、この四旬節を歩んでいきましょう。