「主の時に、主のやり方で」(説教者:満山リベカ神学生)

「主の時に、主のやり方で」

聖書 列王記 下 5:1-14、ヤコブの手紙 4:6

2016年 5月 29日 礼拝、小岩教会

説教者:満山リベカ神学生(ナザレン神学校2年)

 

みなさん、おはようございます。満山リベカです。私と夫の満山浩之は、この小岩教会出身です。共に神様からの召命をいただき、献身し、現在ナザレン神学校で学んでいます。2人とも神学校2年生です。私達は1年半前にここ小岩教会で結婚式を挙げましたが、それは多くの方々の励ましと助けがあったから成し得たことだと心から感謝しております。現在、私達は二人とも下北沢教会に派遣されており、坂本牧師、幹子先生のもとで再び仕えることができ、大変うれしく思っております。

私達夫婦がこのように神学生として、学びと訓練の日々を送ることができるのは、小岩教会の皆様をはじめ、祈りに覚え、支えて下さっている多くの方々のお陰だと思っております。本当にありがとうございます。

 

今日は、稲葉先生が浦和教会へ説教のご奉仕の為行かれるということで、先生からご依頼を受け、大変つたないものではございますが、メッセージを取り次がせていただきます。

初めにあたり、一言、お祈りさせていただきます。

 

(祈り)

 

イスラエルには二つのタイプの預言者がおります。

一つのタイプは、エリヤ、その後継者エリシャのような「行動の預言者」で、神への信仰が希薄となっている北イスラエルにおいて「主は生きておられる」ことを数々の奇蹟によって示した預言者でした。もう一つのタイプは、奇蹟を行わず、ただ神から託された神のことばを告げ知らせた記述預言者で、ホセア、アモス、イザヤ、エゼキエルと言った預言者たちがおります。

聖書は、エリシャが行った数多くの奇跡を記しておりますが、今日の聖書箇所「重い皮膚病であったナアマン将軍の癒しの奇蹟」もそのうちの一つです。この奇蹟が私達に何を訴えようとしているのかを共に学んでいきたいと思います。

 

今から2800年ほど前のことであります。イスラエルの北方にあった国アラムの首都ダマスコの王宮に住む王様と、王に仕えていた軍司令長官、ナアマン将軍が話をしておりました。「王様、私が長い間、重い皮膚病で苦しんできたことはご存知です。ダマスコの町どこを捜しても私の病気を癒してくれる医者はおりません。ところがイスラエルの地から捕虜として連れ帰った者たちの中に一人の少女がおりまして、私の妻に仕えているのですが、彼女が北イスラエル王国の首都サマリヤの預言者エリシャならば、必ず私の病気を癒すことが出来ると申すのでございます。私はイスラエルを訪ねて、預言者エリシャに会うべきかどうか迷っております」とナアマン将軍は王に相談をしたのです。

 

 ナアマン将軍は数々の戦争で勝利をもたらした大勇士であり、王様から重んじられていましたが、悲しいことに重い皮膚病に悩まされていたのです。悩ましい病から自由にされたいと思う心はどの時代の人も同じです。将軍が王様にそのことを話しますと、「是非行くがよい。私がイスラエル王に手紙を書こう」と王のお許しを受け、ナアマン将軍は王様からイスラエル王宛の手紙を頂いて、預言者エリシャとの出会いと癒しに期待を膨らませながら北イスラエル王国の首都サマリヤに向かったのです。

 

この1~3節に、神の導きの主権性を見ることが出来ます。

 

「アラムの王の将軍ナアマン」という人物が、本人は自覚していなくとも、主によって選ばれていたことが分かります。彼は「主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。」とあります。イスラエルにとっては敵であるアラムに勝利を得させられた、その器としてナアマンという人物が紹介されているのです。彼が軍司令官(将軍)という立場にあること、また彼は重い皮膚病を患っていたということ、しかもその病を癒すために、彼の妻に仕えるひとりの若い女奴隷がイスラエルの地から捕えられて来ていたこと、その女奴隷がイスラエルのサマリヤにナアマンの重い病気を治す預言者がいることを進言したのです。これらのことがすべて神の摂理のうちに備えられていたことを明らかにしています。

 

ナアマン将軍は、敵国イスラエルの預言者エリシャから丁重に迎えられ、時間をかけて神秘的な癒しの祈りが行われるのだと思い、礼服を整え、癒された時に渡す充分な礼金を準備して旅の目的地サマリヤに着きました。イスラエルの王様に迎えられて、ナアマンはアラムの王からの手紙を渡しますと、イスラエル王は不治の病を癒せという難題を突きつけ、癒されない時には攻撃をしかける言いがかりがアラム王のねらいだと判断して、大変困惑し、警戒心を強めたのです。そのことを聞いた預言者エリシャは使者を遣わして「私のところにその男をよこして下さい。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」と言わせます。9節では「ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来た」とありますから、ナアマン将軍は、自分がアラム王国の大勇士であり、偉大な将軍であることを人々に見せ付けるために、あえて戦車に乗ってやってきたことが想像されます。ナアマン将軍は自尊心の強い人だったことがわかりますね。

 

預言者エリシャの丁重な歓迎を受けるものと信じていたナアマン将軍の意に反してエリシャは姿も見せず、エリシャの僕だけが現れて「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば皮膚病は癒されるでしょう。」という言葉だけを伝えたのです。ナアマンは、将軍として丁重に扱われなかったことにすっかり腹を立てました。彼は自分が馬鹿にされたように思ったのです。それ以上に理解できなかったのは、自分の国の美しいアバナ川とパルパル川で体を洗い清めるなら分かるけれども、これらのダマスコの川と較べて少しも清い川と思われないイスラエルのヨルダン川に入り、預言者エリシャの厳かな祈りや指導も一切に無しに、「一人で七回身を洗いなさい」という簡単な命令だけが伝えられたのですから、ナアマン将軍はプライドを深く傷つけられて憤慨し、アラムへと引き返して行ったのです。ナアマンは、自分の思っているやり方で癒してほしいと考えていたからです。

 

その当時アラムの首都ダマスコは世界で一番美しい町と言われていました。ダマスコに流れる二つの川も美しく、それらと比較すればヨルダン川は決してきれいとは言えませんでした。身を清めるならばダマスコの川でと考えても不思議ではありません。

私達にしてみたら、私達が病院に行った時、もし医者が顔も見せずに、診察もしないで、看護師を通して「こうすれば癒される」とだけ語ったとすれば、私たちは常識に反する取り扱いを受けたと思って、なんて失礼な医者だときっと腹を立てることでしょう。

自分の期待が裏切られること、自分の誇り、プライドが傷つけられたという思いは、ナアマン将軍も私たちも同じですから、このナアマン将軍の気持ちは私達にもよく理解できますね。

 

しかし、イザヤ書55章8節にはこうあります。「わが思いはあなたがたの思いとは異なり、わが道はあなたがたの道とは異なる」(イザヤ書55章8節)と。神様の思いは、私達の思いとは異なり、神様の道は私達の道とは異なるのです。

ナアマン将軍はエリシャを通してなされる神の方法を知らず、自分の考えている基準に従って事が運ぶことを期待していたので、思いとおりに事が運ばなかったことが気に入らず、エリシャに腹を立てました。

 

しかし13節、ここで、賢いナアマンの家来たちは、ナアマン将軍をなだめました。「預言者エリシャは将軍に難題を吹きかけたのでも、不当な金額を要求したのでもなく、『ヨルダン川で七回身を洗って清くなれ』と言われただけのことではありませんか。丁重なもてなしは溢れるほどダマスコでお受けになっておられます。病を癒すのは金銀でもなく、人の祈りそのものでもなく、神ご自身のはずです。エリシャはただ、神の言葉を信じて、従うことだけを求めておられるのではないですか。ナアマン様、どうかエリシャの言葉を神様からの言葉と信じて、言われた通りにしてください。」と語ったことが行間から読み取れます。 

家来たちが憤慨している自分の上官に進言するなんて、下手をすると自分の命が危ない、危険な行動です。そんな危険を冒してまで、勇気を振り絞ってナアマンに進言し、なだめた家来たちがいるということは、ナアマンが日頃から本当に部下たちに慕われていた人望の厚い人物だったことがわかります。

 

ナアマンも、よくよく考えてみれば家来たちの言う通りだと思ったので、反省して、再びイスラエルに戻ります。ナアマンは自分のプライドを捨て、自分の名誉、自尊心などにこだわっていたことを反省して、ただ一人の病める弱い人間として、神の前に無力な罪深い人間として、裸になり、ヨルダン川に入っていったのです。岸から川へ、川から岸へ、七回繰り返し身を洗いました。するとどうでしょう!将軍の皮膚が幼な子のように柔らかくなり、あの重い皮膚病がすっかり癒されたのです。

 

私たちが救いを得るのに、この世の名誉、地位、財産、業績、学歴などは必要条件ではないのです。必要なのは神様がおっしゃる言葉を素直に信じる心、謙遜な心、感謝する心です。神の恵みは全ての人に平等に与えられます。しかし、それを不服とし、神様の恵みを自分のやり方で得ようとする人、努力やお金で買い取ろうとする人は神の救いも祝福も受けることは出来ません。主の時、主のやり方に従う時、私達は恵みを受けるのです。

 

ヤコブの手紙4章6節にはこうあります。

「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」

 

癒されたナアマンは、すべての従者を引き連れて、来た道を引き返して、預言者エリシャに会いました。そして15節、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」と信仰を告白しました。天地万物を造られ、今も生きてこの世界を支配しておられる真の神に、ナアマンは出会ったのです。そして、持参した贈り物を預言者エリシャに渡そうとしましたが、エリシャは辞退しました。そうしましたら、イスラエルの土を持って帰りたいと言い、そのことは許されました。おそらく、偶像崇拝の国アラムに帰って、このヨルダン川の土で祭壇を造って、真の神を礼拝しようとしたに違いありません。ナアマンは、肉体の病が癒されただけでなく、神を礼拝する者へと変えられ、その魂も救われたのです。

 

この一人の将軍を通して、異教の国アラムにも神の救いが伝えられました。しかも最初は、捕虜として連れ去られていったたった一人の小さな少女から始まった出来事です。神様は、どんなことをしてでもみ言葉をこの地に成し遂げられます。

捕虜という不幸な出来事、重い病いという悲しい試練の中にあっても、そのような苦しみ悲しみを通しても主のみ言葉は、それに従う者を喜びと感謝へと導いて下さいます。

私達の心の中にも、人には言えない切なる願いがいろいろあると思います。体の痛みや、あらゆる弱さ、人間関係の悩み、仕事がうまくいかない、経済的な苦しみ、また結婚相手が与えられない、家族内の問題、自分の性格の悩み、また家族の救いなど。忘れないでいただきたいのは、私達一人一人が神様に心から愛されており、神様はあなたを祝福し、助けたいと思っておられることです。

神様を信じ、従う者には、神様の時、神様のやり方で、神様は介入して下さり、御業を行って下さるということです。

私たちも、このナアマン将軍のように、へりくだって主のみ言葉に耳を傾け、御言葉に従って行く生き方を、これからもしていきましょう。