「完成させるために主イエスは来た」

「完成させるために主イエスは来た」 

聖書 マタイによる福音書5:17-20、エゼキエル書36:25-27 

2016年6月19日 礼拝、小岩教会 

 

【主イエスは完成させるために来た】 

イエス様は、ご自分が来られた理由について、このように語りました。 

 

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)

 

イエス様が、人々にこのように語ったのには、理由がありました。

それは、イエス様がこれから語ろうとしていることに関して、

誤解が広まるのを避けるためでした。

イエス様は21節以降で、当時一般的であった律法の解釈について触れた後、

「しかし、わたしは言っておく」(マタイ5:22, 28など)と言って、

律法のもつ真の意味を語っています。

神の言葉としてイスラエルに与えられた律法が、

相応しい形で人々に受け取られる必要を感じて、

イエス様はこのように語ったのでしょう。

しかし、イエス様の選んだ語り方は、

人々に誤解を与える危険がありました。

「あのイエスという男は、律法を破壊して、

全く新しい教えを語っている」と思われる危険です。

そのため、イエス様は、これから語ろうとしていることを、

人々に伝えるための準備として、こう言われたのです。

 

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)

 

ここで、イエス様は「律法と預言者」と語っています。

この「律法と預言者」という表現は、

「旧約聖書」を指す、当時の人々の言い回しです。

律法は、旧約聖書の最初の5つの書物、「創世記」から「申命記」を指し、

「預言者」は、「ヨシュア記」から「列王記」と、

「イザヤ書」以降の預言書を指します。

では、この「律法と預言者」、

すなわち、神の言葉が目指すものとは何なのでしょうか。

それは、神の意志がこの世界に実現し、神の業として完成することです。

ですから、紙の上に、パピルス紙の上に、律法が文字として書かれたり、

それが知識として人々に知られることだけでは、

神の言葉である律法が、目的を達成しているとは言えません。

神の律法は、その言葉が人々の間で守られ、

実践されてこそ、大きな意味をもつものなのです。

 

【神の意志とはかけ離れている現実】

しかし、現実はどうでしょうか。

神の言葉と、私たちの現実を照らし合わせるとき、

果たして、「律法と預言者」が完全に実現しているといえるのでしょうか。

残念ながら、律法が語られた時代も、新約聖書の時代も、

神の意思が完全に実現しているとは言えませんでした。

人々は時に神の言葉を忘れ、

また時に誤った解釈に基づいて、行動することもありました。

そして、新約聖書の時代から2000年近く経った今も、

神の言葉は完全に実現したとは言えません。

「律法と預言者」、すなわち旧約聖書に記されている神の言葉と、

そこに込められた神の意志を、

私たちが置かれている現実と照らし合わせるとき、 

この世界にひび割れた、歪なものが数多くあるのに気づくでしょう。

親子や家族の関係に目を向けると、

育児放棄や家庭内での暴力、不倫や離婚といった事柄が、

いつもテレビや新聞を騒がしています。

また、私たちが社会から要求される労働観も、

すべてがそうだというわけではありませんが、

聖書と照らし合わせてみると、

中には、神が望むこととは離れているものがあります。

人格が無視され、人がモノのように扱われることもあれば、

人格を無視し、人をモノのように扱ってしまうこともあります。

また、利益を追求すること自体は、悪いことではありませんが、

利益を追求することが目的になってしまうこともあります。

そして、私たちは神にこの世界を管理するようにと命じられ、

日々の仕事を与えられています。

しかし自分の仕事を、神に委ねられた働きとして捉えられないこともあります。

また、教育のあり方にも、歪みを見出すことができます。

教育を受けるその人自身が豊かな生涯を歩むために、教育はなされるものです。

しかし、国や親に都合の良い人間を形成しようとすることが、

しばしば行われていることは否定できません。

聖書を通して、神が私たちに語る言葉に立つならば、

私たち一人一人の存在そのものが、喜ばれ、喜ぶべきものです。

しかし、多様性を喜ばず、親や学校、社会や国家の

「お眼鏡にかなう」者であることが要求されます。

出る杭はどんどん打たれていき、

多様性よりは、画一的なものが求められます。

支配する側や、権力を持つ側にとって、

その方が遥かに都合が良いし、管理しやすいからです。

そして何よりも、神との関係に歪みがあるのが、私たちの抱える現実です。

神を引きずり下ろし、自分を神の位置に置いて生きるのが、

現代に生きる人々の大きな特徴でしょう。

言い換えるならば、それは、「自己中心」です。

自分が中心である時、神との関係は、ますます歪なものとなっていきます。

どのように自分の利益のために、神を用いることができるのか、

という思考が、私たちの頭の片隅には常にあって、

拭い去ることがなかなか出来ずにいます。

残念ながら、これこそが、私たちを取り囲んでいる現実です。

今も昔も形を変えながら、神の意図に背く世界は存在しています。

 

【「聞かない」結果として、ヒビ割れた関係が蔓延している】

かつて神は、そのような私たち人間の現実が、

神の意図した世界へと向かい、完成することを願い、 

律法を通して、そして預言者を通して、語り掛けてくださいました。

「善を求めなさい」(アモス5:14)。

父母をうやまいなさい(出エジ20:12)。

「隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)。

「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、

あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)という具合に。

しかし、未だに、神の言葉が語られた目的は、

実現していないように思えます。

私たちを取り囲む環境は、神の意図した世界とは程遠く、

ひび割れ、歪で、不完全であるように感じます。

その原因は、神の言葉である律法と預言者が、

不完全であったからでしょうか。

もちろん、そうではありません。

イエス様によれば、「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、

律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:18)のですから。

「一点」とは、ヘブライ語のアルファベットの一つである、

ヨッド( י )を指します。

ヨッドは、ヘブライ文字の中で一番小さな、点のような文字です。

そして、「一画」は、おそらくヘブライ語の性質と関係していると思います。

たとえば、ヘブライ文字のダレット( ד )とレーシュ( ר )。

前のスクリーンをご覧頂ければわかると思いますが、

このふたつの文字はとても似ています。

右上の角が出るか、出ないで滑らかにカーブしているかの違いのみです。

それだけで文字が変わるということは、

書き間違えたり、読み間違えてしまうだけで、

言葉の意味が変わってしまうということです。

イエス様は、このような言葉の特徴を意識して、

「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、

律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:18)

と宣言されたのです。

私たち人間の目には、一点も、一画も、些細なもので、

簡単に消え去ってしまうように、見えます。

しかし、神の言葉である、律法のこの文字は、消え去ることがない。

神の言葉は、決して、不完全なものではないと、イエス様は宣言されたのです。

では、なぜ私たち人間の現実は、

神の意図した世界へと向かい、完成せず、

ヒビ割れた、歪で、不完全な関係が蔓延してしまっているのでしょうか。

聖書は、その原因を明確に示しています。

神の言葉を受け取る側の人間にこそ、問題があるのだ、と。

人は神から語りかけられているにもかかわらず、

神の言葉を聞かないでいる、と。

だからこそ、ヒビ割れた、歪な関係がこの世界で蔓延しているのです。

 

【だから、主イエスは来た】 

そのような私たちの現実を見つめるとき、

イエス様が語った言葉が、

希望に溢れるものであることに気付かされます。

イエス様は言いました。

 

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17) 

 

聖書の時代も、そして今も、神の言葉が完全な形で実現せず、

ひび割れた、歪な関係が広がっています。

そのような現実が私たちを取り囲んでいるから、

だから、イエス様は私たちのもとに来てくださったのです。

神の言葉が、私たちの間に完全に実現するために、

イエス様は私たちのもとに来てくださいました。

イエス様が取られたその方法とは、

イエス様ご自身が十字架にかかり、命を落とすことでした。

私たちが神の言葉を聞かない原因となっている罪を、

イエス様は背負ってくださいました。

そして、私たちの罪を赦すために、

神の独り子であるイエス様が犠牲となってくださったのです。

それは、神の愛ゆえに起こった出来事でした。

神が喜びとする関係が、私たちの暮らす

この世界で実現することができるようにと、 

神がこの出来事を計画してくださったのです。

神の愛ゆえに、私たちの罪は赦されました。

そして、それゆえに、私たちは、

神の言葉を聞くことのできる者と変えられました。

その意味で、イエス様は、

神の律法が私たちのもとで実現するために来たといえます。

 

【神の言葉が心に刻まれるならば】 

ですから、私たちは喜ぶことができます。

たとえ、私たちが不完全な存在であろうとも、 

歪な関係しか築けず、涙を流し、苦しんでいる現実があったとしても、 

神が私たちの現実に介入してくださるのですから。

不完全で、ひび割れた、歪な関係が築かれていると、私たちが感じ、

悲しみや嘆きを覚える所に、イエス様は来てくださいます。

いや、イエス様は、どのような場所にも来てくださいます。

実際は神が望んだ世界とはかけ離れ、

涙を流し、苦しみ、絶望する場所であるのに、

それに気づかないほど、私たちが麻痺してしまうほど、

神が望んだ世界とはかけ離れた所に、

私たちが諦めてしまっている所に、イエス様は来てくださるのです。

イエス様が律法を完全なものとするために、来てくださったということは、

神が意図した世界が私たちの日常で実現することを、

神が願っているということです。

感謝すべきことに、 神は、私たちの日常の只中に、

神の言葉を実現させてくださる道を備えてくださいました。

預言者エゼキエルを通して、神はその道を明らかに示してくださいました。

神はエゼキエルを通して、このように語りました。

 

わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。(エゼキエル36:26-27)

 

新しい霊とは、神の聖なる霊である、聖霊のことです。

この聖霊の働きを通して、神は、神の言葉を私たちのこの心に刻むのです。

そうすることによって、神が私たちを日々造り変えてくださり、

私という存在のうちに、神の言葉が刻みこまれていくのです。

そして、神の言葉が刻み込まれた、私たちの存在を通して、

この世界に神はその手を伸ばされるのです。

神の言葉が実現していくのを、私たちは神と共に待ち望み、

神と共に歩むようにと招かれているのです。

ひび割れたものを修復し、新しく造り変え、

歪なものの形を整え、完成へと導く、

神の業に期待しつつ、歩んでいきましょう。