「それでも、復讐を選ばない」

「それでも、復讐を選ばない」 

聖書 マタイによる福音書 5:38-42、創世記 26:12-22 

2016年7月24日 礼拝、小岩教会 

 

【際限なく繰り返される「復讐」】

「目には目を、歯には歯を」(マタイ5:38)。

とても有名な聖書の言葉です。 

聖書の言葉であるとともに、「ハンムラビ法典」にも記されていることから、 

古代の人々の間でも広く行き渡っている、有名な法律だったのでしょう。 

ただ残念なことに、現代において、

「目には目を、歯には歯を」というこの言葉は、 

しばしば誤解されて用いられています。

「やられたら、やり返せ」。

目を潰されたら潰し返してやり、

歯を折られたら、歯を折り返してやる。

そのような報復は許されているんだ、

「目には目を、歯には歯を」(マタイ5:38)なのだから、という具合に。

しかし、「目には目を、歯には歯を」(マタイ5:38)は、

そのような意味を込めて作られたものではありません。

私たち人間は、もしも復讐や報復が正当化されるならば、

それを際限なく繰り返してしまうでしょう。

奪われたものがあったなら、奪われた以上のものを奪い、

傷つけられたなら、受けた傷以上の傷を負わせたいと望むことさえあります。

「目には目を、歯には歯を」(マタイ5:38)という言葉は、

このように、私たち人間が、憎しみや復讐の思いを抱き、 

報復の計画を練り始めたら、

際限なく復讐が繰り返されることをよく知っています。

その復讐や報復の思いが、たとえ小さな火だったとしても、 

それは簡単にはなくならないことも、

また、それが燃え続けるならば、

しまいには大きな火事を引き起こすこともよく知っています。

このような復讐の連鎖を断ち切るために、 

「目には目を、歯には歯を」という法律がつくられました。

あなたがたは、際限なく、復讐や報復をしてはいけない。

目を奪われたなら、目まででとどめなさい。

歯を折られたならば、歯を折ることでとどめなさい。

それ以上の報復を行って、お互いに傷つけ合うべきではない。

そのような思いを込めて、この法律はつくられ、

古代の人々の間で広まり、広く受け入れられていました。

 

【右の頬を打たれたならば】

しかし、この言葉が抱えていた問題のひとつは、

奪われたものは決して、返ってこないことです。

奪われたものと同等のものを、その相手から奪えたとしても、

失ったものそのものを取り戻すことはできません。

奪われ、傷つけられたならば、

その前の状態には決して戻ることは出来ないのです。

このような限界を知った上で、イエス様は人々に驚くべきことを語りました。 

「悪人に手向かってはならない」(マタイ5:39)。 

「手向かう」と訳されている言葉は、裁判で補償を求めて、

自分の権利を主張することを意味しています。

自分が受けた損害と、全く同等の損害を相手に与えるのではなく、

法的に正当化された復讐や報復を行うこと、そのものを

イエス様は強く禁じています。

イエス様は、「悪人に手向かってはならない」(マタイ5:39)

ことについて、3つの例を示されました。

ひとつ目は、39節に記されています。

 

だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイ5:39) 

 

これってちょっと変な言葉です。 

想像してみましょう。

もしも右の頬を叩かれる場合、

通常、あなたを叩く人の手はどちらの手でしょうか。

そうです、通常右の頬を叩けるのは、左手です。 

当時の人々も右利きが多かったでしょうから、

このような法文は、通常、右利きの人の視点で書かれます。

それにもかかわらず、なぜ左の頬ではなく、

右の頬が最初に打たれているのでしょうか。 

恐らくここで語られているのは、右の頬を左手で打たれたのではなく、 

右手の甲を、右の頬に打ちつけられたという場面でしょう。 

手の甲で打つことは、相手への侮辱を意味していました。 

ですから、これは単なる暴力ではありません。

寧ろ、侮辱の方に力点をもって、語られています。

そうであるならば、どれほど侮辱されたとしても、 

あなたがたは、報復するな、復讐するな、

という意味で、イエス様は「だれかがあなたの右の頬を打つなら、

左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と語ったといえるでしょう。

そう考えると、このイエス様の言葉は、

私たちにとても関係の深い言葉だと思えてきます。 

私たちは、普通に生活しているのであれば、

直接暴力を振るうことも、振るわれることも、決して多くはないと思います。 

けれども、言葉の暴力であれば話は別です。

激しい批判を受けることもあれば、侮辱されることもあります。

人格を否定されたり、バカにされたりもします。

質が悪いことに、私たちを傷つけている張本人が、

私たちを傷つけているつもりは全く無く、

無頓着であることさえあります。

そういうときこそ、私たちは何とかして報復してやりたくなります。

何とかして恥をかかせてやりたいという思いにも駆られます。 

しかし、イエス様はこう言われました。

 

だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイ5:39) 

 

あなたがたは、報復するな、復讐するな、

侮辱されるならば、されるがままにされなさい、と。 

あらゆる復讐を、苦難を受け入れることによって拒否する

というチャレンジをイエス様は私たちに与えておられるのです。

 

【奪うのではなく、神の愛を分け与える】

「悪人に手向かってはならない」(マタイ5:39)、

そのふたつ目の用例として、イエス様は40節でこう言いました。

 

あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。(マタイ5:40) 

 

まず最初に上着を取られ、その後に下着まで取られる

といった順序でイエス様は語ってはいません。

そのため、強盗にあった場合を想定して、

イエス様は語っているわけではありません。

これは、貧しい人に対する借金の取り立てのための裁判のようなものです。

金貸しは、借金の取り立ての際、下着を取ることは出来ました。

ここで使われている「下着」は、ギリシア語では「キトン」といいます。

キトンとは、足先までとどく長布で、帯を締めて着るものでした。

ですので、浴衣のようなものを想像すると良いと思います。

貧しい人々でも、キトンならば、2,3枚は持っていました。

ですから、その中の1枚ならば貧しい人相手でも、

借金の肩代わりに取ることは出来ると考えられていたのでしょう。

一方、上着については、旧約聖書の律法によれば(出エジ22:25-26)、

奪ってはいけないものでした。

上着は、外出するときに上から羽織るだけでなく、

夜寝る時に上から掛け布団のように上からかぶるためにも用いられました。

そんな上着は、高価なものであるため、

貧しい人は、1着しか持っていなかったでしょう。

それにもかかわらず、「上着をも取らせなさい」とイエス様は言うのです。

そして、3つめの用例はこのようなものでした。41節。

 

だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。(マタイ5:41) 

 

イエス様は、ローマ軍の兵士たちによる強制労働のことを意識して、

この言葉を語っています。

当時、ローマ軍の兵士たちは、ローマ市民ではない人々を、

1ミリオン、およそ1.5kmの距離までなら、

荷物運びとして、強制的に労働させることが出来たそうです。

この労働は、何の見返りもなく、不当なものに感じたことでしょう。

しかし、イエス様は、その倍の距離を行けと言うのです。

40節と41節に記されている、これらふたつの用例は、

39節までの内容と噛み合わないように感じます。

後半のふたつの用例で語られていたことは、

自分が損をするとわかっていながら、

相手に必要以上のものを与える姿勢だといえるでしょう。

その点に強調点があると考えると、

ひとつ目の「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」の後に、

これらの言葉が続いたことは納得できます。

ただ、それでも、イエス様がここで語ったことは、

とても損をするような道の選択だと思えてなりません。

侮辱を受けても、復讐せず、

ただ苦難をその身に受けることによって、復讐を拒否する。

必要もないのに、上着も与える。

強制労働を受け入れるだけでなく、求められている以上のことをする。

正直、とても難しい選択です。

しかし、イエス様はそのような選択をし続けなさいと、

私たちを招いておられるのです。

 

求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。(マタイ5:42) 

 

一体なぜでしょうか。

それは、私たちは、他人から何かを奪ったり、傷つけ、

また、争うために生きているのではないからです。

私たちは、何よりも、愛を与えるために生きるように招かれています。

私たち自身から沸き起こってくる愛ではありません。

私たちから出てくる愛は、偏りがあり、

時に人を傷つけてしまうようなものです。

私たちが与えるようにと招かれている愛とは、

イエス様によって示された神の愛です。

イエス様によって示された愛とは、どのようなものだったでしょうか。

それは、神の子である方が、

人間になって生活するという決断をするほどのものでした。

それは、弱さを覚えている人々、苦しむ人々、

虐げられ、仲間はずれにされている人々に、手を差し伸べるものでした。

そしてそれは、私たちを救うために、命を投げ出すほどのものでした。

イエス様に愛されたように、心から人を愛する。

イエス様によって示された神の愛を、人々に惜しみなく分け与える。

これこそ、イエス様が私たちを招いておられる道です。

たとえ、侮辱されようとも、不当な扱いを受けようとも、

復讐や報復を選ぶのではなく、

神の愛を惜しみなく分け与えていこうと生きること。

それが、神が私たちに示しておられる生き方です。

 

【律法の完成へと向かう道】

そのような姿勢を、きょう一緒に開いた創世記に記されている、 

イスラエルの族長である、イサクの態度から読み取ることができます。

イサクは、ゲラルの地に滞在していたとき、

神の祝福を受けて、豊かにされました。

種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があり(創世記26:12)、

多くの羊や牛の群れと、召し使いを持つように(創世記26:13)なりました。

このようにイサクが、神の祝福を受けて豊かにされたのを見た、

その土地に住むペリシテ人たちは、彼を妬むようになりました。

彼らは、イサクのもつ井戸を土で埋めて、ふさいでしまいました。

その上、イサクを妬む声をたくさん聞いた

ペリシテ人の王のアビメレクは、彼をその地から追い出しました。

しかし、イサクは争うことも、自分の権利を主張することも、

報復や復讐を計画し、実行することもしませんでした。

イサクは平和的な解決を望み、黙ってその地を出て行きます。

その後、彼はゲラルの谷と呼ばれる場所へ移動しますが、

行く先々で井戸を掘る度に、

その土地で暮らす羊飼いたちとの争いに巻き込まれます。

でも、その度に彼は復讐や報復に走る道を選ばず、

ただただ不当な苦しみを受け、その地を放浪しました。

しかし、最終的に、イサクは争いのない地へと導かれ、

再び神の祝福の言葉を受け取りました。

そして、不思議な事に、その地の人々との和解へと導かれていきました。

イサクがこのとき、和解へと導かれたのは、

彼が不当な扱いを受け、人々からいじめられても、

決して復讐を選ばなかったからでしょう。

復讐を選ばなかったからこそ、和解への可能性が残されたのです。

このような道を選択し続けることは、

苦しみや悲しみを引き起こす原因になることが多くあると思います。

しかし、私たちは神の約束を、しっかりと心に留めましょう。

どれだけ不当な目にあったとしても、

復讐を拒絶し、苦難を選び取るのならば、

私たちを通して神の国は広がっていくのだ、ということを。

ですから、神の愛に基づいて、

神の愛を示し続ける道を選び取り続けて行きましょう。

今、私たちが苦しみを覚えるところに、葛藤を抱えるところに、

神によって、平和が訪れることを信じて歩んで行きましょう。

「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。

かえって祝福を祈りなさい。

祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(Ⅰペトロ3:9)から。