「憐れみの火を灯せ」

「憐れみの火を灯せ」 

聖書 マタイによる福音書6:22-23、箴言22:9 

2016年 9月 18日 礼拝、小岩教会 

 

【「体のともし火は目である」】 

「体のともし火は目である」(マタイ6:22)。 

何だか、わかるようで、よくわからない言葉です。 

これが「体の窓は目である」だったなら、理解することが出来るかと思います。 

目を通して、私たちは外の光の明るさを知り、 

体の窓である目から、外の光を取り込んで、体全体は明るくされるのだ、 

という諺として受け取ることが出来るでしょう。 

しかし、イエス様はそのようには表現されませんでした。 

イエス様は「体のともし火は目である」(マタイ6:22)と語られました。

一体どのような意味なのでしょうか。 

イエス様のこの言葉は、まるで、私たちの目そのものがともし火として、 

自分自身を光り照らして、からだ全体を明るくし、 

私たちの周囲に光を放っているものであるかのように、私たちの耳に響きます。 

イエス様が語っているとおり、「目」がともし火であるならば、 

私たちの目は、私たちの体全体を明るくもし、

暗くもするものだということです。

イエス様が言うように、「体のともし火は目である」ならば、 

目こそが、私たちの体全体を明るくも、また暗くもする、 

重大な鍵を握っているものだといえるでしょう。 

 

【澄んでいる目と、濁っている目】 

このように、私たちの体にとって、どうやら重大な意味を持っているらしい、 

「目」について、イエス様はふたつの状態があると語られました。 

 

目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。(マタイ6:22-23) 

 

「澄んでいる」と訳されているギリシア語は、 

もともと「一度の」とか「単なる」という意味を持っています。 

ということは、ここで言う「目が澄んでいる」という状態とは、 

ある物事を純粋に、一心に見つめている状態のことだといえるでしょう。 

そのため、「目が澄んでいる」状態の反対の状態である、

「目が濁っている」状態とは、 

ひとつのものに目を向け続けることができないでいる状態を意味します。 

つまり、他のものに心を奪われてしまっている、 

いわば二心である状態のことを「目が濁っている」 

とイエス様は表現されたのです。 

ひとつの物事に集中しないで、二心になってしまうことは、 

「山上の説教」において、イエス様が何度も厳しく戒めてきたことでした。 

「祈りとは、神との親しい会話である。 

だから、人からの賞賛を受けたいがために、

人の目ばかり気にして、人前で祈ることをしてはいけない(マタイ6:5-8)。 

自分の信仰深さを見せびらかすように、 

人前で断食してはいけない(マタイ6:16-18)。

断食をすることによって、あなたの心が人々の目ではなく、 

ますます神に向けられるようになるべきである」

といったように、イエス様は私たちが二心になってしまうことを、 

厳しく戒められました。 

その延長線上にある言葉として、 

イエス様は「体のともし火は目である」と語られたのです。 

「あなたの目は体全体を照らすともし火である。 

だから、あなたの目が一心に神に向いているならば、 

そのともし火によって、あなたの体全体は明るくなる。 

しかし、もしもあなたの目が神に向いていながら、 

同時に、他のものに心を奪われているならば、 

あなたの目は濁ってしまっている。 

あなたの目が濁ってしまっているとき、 

あなたの目のともし火は、暗い光として、 

体全体を照らすため、あなたの体全体は暗くなってしまう」と、 

イエス様は私たちに語り掛けておられるのです。 

 

【憐れみの火を灯せ】 

では、私たちの体全体を明るく照らすことのできる、

「目が澄んでいる」状態とは、 

ただ神を一心不乱に見つめることのみをいうのでしょうか。 

きょう一緒に開いた旧約聖書の「箴言」に記されている言葉は、 

「目が澄んでいる」状態のもうひとつの側面を、私たちに示しています。 

 

寛大な人は祝福を受ける 自分のパンをさいて弱い人に与えるから。(箴言22:9) 

 

ここで「寛大な人」と訳されている言葉ですが、 

旧約聖書の原文のヘブライ語を見てみると、 

「良い目」という言葉が用いられていることがわかります。 

ですから、この箴言の言葉を直訳するとこうなります。 

「良い目は、祝福を受ける。 

その目は、自分のパンを裂いて貧しい人に与えるから」と。 

つまり、澄んでいる良い目とは、憐れみ深い心をもち、 

憐れみ深い態度を人々に示す者のことなのです。 

そうであるならば、イエス様が「体のともし火は目である」 

と表現された理由が、少しわかってくる気がします。 

二心をもたず、「澄んだ目」で、神を見つめることを通して、 

神と自分の関係が豊かなものとされることによって、 

私たち自身の存在は、光り照らされます。 

そればかりでなく、「澄んだ目」をもって、人を見るとき、 

つまり、憐れみの心をもって、

周囲の人々を見つめ、憐れみの行いを実行するとき、

周囲の人々に憐れみの光を照らすことができます。 

まさに、澄んだ目をもって生きるということは、 

私たちが、憐れみの火を絶やさずに、

この目に灯しているということなのでしょう。 

そのような人々を、イエス様は「澄んだ目」と言われるのです。 

 

【あなたがたは世の光である】 

澄んだ目こそが、体のともし火であるという、 

イエス様のこの言葉を聞くとき、 

私は、山上の説教の冒頭でイエス様が語られた言葉を思い出します。 

それは、「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14) 

という言葉の後に語られた言葉です。 

イエス様はこのように語られました。 

 

ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。(マタイ5:15) 

 

家の中全体を照らすという本来の目的を果たすために、

ともし火は燭台の上に、

つまり家の中でもある程度高い位置に置かれるものです。

それならば、「体のともし火である」と言われている、

目についてはどうでしょうか。 

目は私たちの体の中で、高い位置にあります。 

そのため、体のともし火である目は、イエス様のこの言葉を、 

初めから守ることのできる位置にあるといえます。 

では、「ともし火をともして升の下に置く者はいない」という言葉は、 

どのように受け取るべきなのでしょうか。 

当然、ともし火を自ら覆い隠す人などいません。 

しかし、体のともし火である目に関してはどうでしょうか。 

私たちは目を伏せたり、また、目をそらせることが出来ますし、 

時に、それをしています。 

自分の向き合いたくない問題からは、目を背けることがあります。 

苦しんでいる人、助けを求めている人が、すぐそこにいるのに、 

見ていても、見ないふりをすることによって、

目に覆いを掛けることも出来ます。 

そのような時、私たちの目は澄んでいる状態ではなく、 

自己保身や無関心といった思いが渦巻き、

濁っている状態となっているのでしょう。 

そのようなとき、私たちは自分の目を伏せることを通して、 

憐れみのともし火を、周囲の人々から覆い隠してしまっているのです。

私たちは、目が「体の」ともし火と語られていることの意味を、 

しっかりと認識しなければなりません。 

目がともし火であるのは、何も自分自身の体だけのためではありません。 

新約聖書において、教会はキリストの「からだ」

と呼ばれているではありませんか。 

ですから、目は、同じからだに属する人々を照らす光となるのです。 

澄んだ目で、同じキリストのからだの一部とされている

兄弟姉妹たちを見つめ、彼らを愛し、憐れみ、仕え合うならば、

キリストのからだである教会は、

私たちの澄んだ目を通して、光り照らされるのです。

「体のともし火は目」なのですから。

そして、私たちの目が見つめるのは、自分の体や、 

キリストの体である教会だけではありません。 

私たちは、神が造られたこの世界で生かされていて、 

たくさんの人々と出会い、様々なものを目にしています。 

喜びに溢れることも、悲しむことも、苦しいことも、 

私たちのこの目に映ります。 

私たちの目がともし火であるならば、 

そのともし火は、世界を照らすための憐れみの火なのです。 

もちろん、私たち自身の内側にある、憐れみの思いが火となって、 

私たちの目のともし火となっているのではありません。 

神が、私たちを見て、憐れんでおられるその現実を、 

私たちは、神との交わりを通して知ることができます。

神とのそのような交わりを通して知った、神が抱く憐れみの思いを

私達自身も抱くように招かれているのです。 

ですから、さぁ、あなたがたの目に、憐れみの火を灯しなさい。 

その憐れみの火を抱いて、私たちが生きるとき、

イエス様は私たちにこう言われるのです。

「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と。

主キリストにある光とは、この世界に神の憐れみを示す光なのです。

ですから、憐れみの火をこの目に灯して、

神の憐れみを抱いて、日々歩んで行きましょう。