「キリストがたどった道」(説教者:百武真由美師)

「キリストがたどった道」

聖書 ローマの信徒への手紙 5:1-8、イザヤ書 53:11

2016年 10月 16日 礼拝、小岩教会

説教者 百武真由美師(聖学院中学校・高等学校 チャプレン)

 

 

キリスト者になる前、キリスト者になったら苦しみはなくなる、と思っていました。神さまが共にいてくださるのなら、苦しみはなくなるか、なくならないにしても少なくとも軽くはなる、と思っていました。けれども実際にキリスト者になって、かえって悩みが多くなり、また深く重いものになってしまった。そういう経験をしている人は、決して少なくないように思います。神を信じたら、苦しみ悩みはなくなるはずではなかったのか、と苦しみのただ中でつぶやくことも、決して他人事ではないと思われます。

 しかしどうして、キリスト者になっても苦しみはなくならないのでしょうか。いや、なくなるどころか深く多くなっていくのでしょうか。そもそも聖書は苦しみをどうとらえているのでしょうか。そのヒントとなりそうなものが、私たちがよく歌う、アメージンググレイスという讃美歌にあるのかもしれません。新聖歌の233番に収められたバージョンにはないのですが、同じアメージンググレイスの讃美歌第二篇のバージョンには、次のような歌詞があります。「苦しみ悩みも奇しき恵み、今日まで守りし、主にぞ任せん」大変美しい、心を打つ歌詞ですが、苦しみに直面している時には、酷な内容でもあります。

アメージンググレイスが歌っていることは、苦しみ悩みは消えてなくなるものではなく、それもまた神の神秘的な恵みである、ということです。苦しみ悩みが恵みである、ということは、キリスト者にとっては美しい真理のことばではありますが、いざ苦しみに直面すれば、新たな苦しみの種にさえなりかねないものです。それほどに、苦しみはキリスト者にとって(なお)重要な問題であると思います。そういう私たちにとって、「それだけでなく、患難をも喜んでいる」というロマ書5章3節の御言葉は、ことさらに重苦しく響いてくるものではないか、と思うのです。

 ところが、そのように苦しみを目の前にして、奇しき恵みと告白しづらいと感じる私たちを救う言葉が聖書にはあります。それは、キリスト御自身も苦しまれた、と言う言葉です。イエス・キリスト御自身が、十字架にかかって苦しまれた。その事実を聖書から知らされる時、私たちは、主イエスが私の苦しみを知ってくださっている、そのことに大きな慰めを与えられるのです。

 そうだとすれば、私たちは、主イエスが経験なさった苦しみについて、やはり考えなければならないのではないでしょうか。

 

 イザヤ書53章は、メシヤの苦難を預言した御言葉であります。この箇所では、メシヤすなわち救い主が、黙する羊のように静かに、しかし激しく打ち砕かれ、懲らしめられ、命を絶たれる様子を語っています。この預言の御言葉は、主イエスによって、十字架において実現しました。

 そのイザヤ書53章の終わりのほうに、次のように語られています。11節「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」

 主イエスが自らの苦しみの実りを見て、知って満足する。ともすると、痛々しい言葉でもあります。しかもそれが、彼らの罪を主自らが負って、正しい者とされると語られるからです。ここで言われる「彼ら」というのは誰でしょうか。私たち、と当てはめて読むべきではないでしょうか。

 だとすると、主イエスは、他の誰のためでもなく、私たちのために十字架にかかって苦しまれ、その苦しみによって満足されたことがわかります。しかしどうして苦しんで、主イエスは満足されたのでしょうか。私たちの中で、苦しみを受けて喜んだり満足する人がいるでしょうか。それは、主イエスが苦しむことによって、私たちが正しい者とされることを、主イエスご自身が誰よりもよく知っていたからではないでしょうか。言いかえるならば、主イエスは私たちが正しい者とされて罪から救われるために、苦しみをもあえて満足なさったのではないでしょうか。だからこそ、誰の目にも苦しいに違いないあの十字架という苦しみでさえ、主イエスは「満足する」とイザヤ書は証ししているのではないか、と思うのです。

 

 しかし今朝のロマ書、苦難をもを誇りとし、忍耐、練達、希望を生み出し、その希望が失望に終らないことと、主イエスが苦しみの実りとしての救いを知って満足することとは、一体どう関係するのでしょうか。実は、主イエス・キリストが、十字架の死に至る一連の流れの中で、苦難・忍耐・練達から希望に至る道のりを御自身がたどられたのではないか。主イエスご自身が苦難をも誇りとし、苦難の中で忍耐し、忍耐から練達に達し、そして希望に至ったのではないかと思うのです。というのも、苦難、忍耐、練達、希望が主イエスのご生涯にぴったりとあてはまるからです。主イエス・キリストこそ、苦難と忍耐と練達そして希望を、誰よりも知っておられた方ではないか、と思われるのです。

 では主イエスが経験された患難、忍耐、練達、希望、それはいったいどのようなものであったのでしょうか。

 

 キリストが経験した苦難、それは何よりもまず、十字架の他にないでしょう。主イエスは十字架の上で何を経験したのか。それは肉体の痛み、死ぬことへの恐怖、そしてこれまで最も親しく祈った父なる神と関係が断たれてしまう、その霊的な苦しみでありました。十字架の上で、その肉を裂かれ、骨がきしみながら主イエスは繰り返し繰り返し父なる神に祈った。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と祈り、「かわく、かわく」と叫んで、その霊が神から引き離されたが故の渇きを訴えられました。全き神であられた主イエスにとっては、神との交わりから断たれてしまうこの十字架を避けて通る、ということは決して不可能なことではなかったでしょう。けれどもイエス様は、その十字架の苦しみをご自分の喜びとなさいました。それは、十字架で御子が苦しむことが、この私たちの救いに直結することを、イエス様ご自身が知っておられたからです。ご自分が苦しむことによって、本来救われる価値のない私たちが神の前に義と認められることを、主イエスがお望みになったからです。だから、主イエスは苦難をも誇りとした。

 続いて主イエスはその苦難に直面したとき、とにかく耐えておられました。その責任をだれかに押し付けることなく、静かにその苦しみを引き受けておられました。それどころか、十字架の上でも、最低限の言葉だけを発しておられました。マルコによる福音書を見ると、イエス様は十字架の上でたった一言「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」それしか語っておられません。静かに苦痛に耐え、苦しみから目をそらさずに、十字架という苦難を丸ごと受け止められました。だからこそ、主イエスは、私たち人のありとあらゆる痛みや嘆きに共感することができるお方であったわけです。

 ロマ書ではさらに「練達」という言葉が続きます。「練達」という言葉を辞書で引いてみると、「熟達して深く通じていること。またそのさま」とあります。また別の辞書では「その道の奥義(おうぎ)に達すること」と説明されていました。では、主イエスの経験なさった練達とは、具体的に何だったのでしょうか。

 主イエス・キリストが経験なさった練達、それは、父なる神への信頼を最後まで失わず、祈り続けるあり方ではなかったでしょうか。先ほどから触れているように、イエス様は十字架の上でも、祈り続けておられました。神への信頼を手放そうとされませんでした。「奥義」ということばは「最も肝心な点」という意味であるそうです。主イエスがご自身の務めにおいてもっとも肝心な点と考えておられたのは、他に何をおいてもまず、私たちの救いでした。私たちを罪から救い出すこと、それがキリストの奥義であったはずです。なぜならそれは、キリストにしかなしえない業であったからです。だからその、救いという奥義に達するために、身を裂かれ魂が飢え乾いて仕方ない苦しみの中でも、父なる神にその心を向け続け、祈りの言葉を手放さなかったその御子の姿を、私たちは聖書から教えられています。

 そしてそのキリストが十字架の上で見つめ続けていたのが、希望でありました。主イエスは、この十字架が神の救いの計画に用いられ、神と人との間に平和がもたらされることに希望を見出しておられた。さらにはこの十字架という救いの業が、私たちの永遠の命に結びつくことを、主イエスは知っておられたのです。だからそれは、失望とは対極にある、天の軍勢が感謝して歓声をあげる喜びに直結するものです。それだから神の御子キリストは、十字架の患難にも希望を見出し、失望に終わらない救いの望みを見据えておられたのでした。

 キリストは、私たちの救いのために、苦難を経験し、忍耐し、練達し、十字架の上でこそ希望を見ておられました。そのことによって私たちに、ロマ書の5節「神の愛が、聖霊によって注がれていること」を私たちが知るようにしてくださったのです。キリストがたどった苦難・忍耐・練達・希望の道、それは私たちに神の愛を知らせる道であったのです。それこそが1節に語られる「神と私たちとの間の平和」であり、2節「私たちが導き入れられたこの恵み」であります。繰り返しですが、イエス様が十字架というこの上ない苦難をも喜び満足し、十字架でこそ忍耐と練達を生み出し、希望に至る道のりを歩まれたことによって、私たちに救いがもたらされているのです。そして神の御子がわざわざ苦しみを満足して下さったことによって、救い主イエス・キリストがもれなく私たちの苦難を知りつくしていてくださるのです。そして、苦難を喜び誇る、ということは、全き神である主イエスには避けることもできた道であったのに、あえて主はその道のりを歩んで、あらゆる苦難を味わってくださった。それは誰のためであったかといえば、間違いなく私のためであったというわけです。それが、神の御子が私のために、十字架におかかりになる、ということです。

 そのことを思うとき、神の圧倒的な愛を私たちは教えられるのではないでしょうか。しかし、神の愛を思うとき、いつも同時に問われるのは、それだけの神様の愛を受ける価値が私のどこにあったか、ということではないかと思います。ロマ書の5章6節は、キリストが死んでくださったとき「私たちは弱く、不信心な者たちだった」と語ります。7節「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。」8節「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んで下さったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」私たちは正しい人と呼ぶにはあまりにも過ちを多く犯しすぎています。善い人と呼ばれるにはあまりにも自己中心的で身勝手なふるまいをし、あるいはふるまいはごまかせたとしても、その胸の内は嘘と矛盾で満ちています。だから「弱く、不信心で、罪人」と呼ばれるにふさわしい者であるのが、私たちです。しかし主キリストは、そういう罪人の私たちに、神の愛を示すために、命を差し出して、死んでくださいました。それは私たちが自分の罪の責任を問われて裁かれるその神の怒りを、主イエスが替わりに受けてくださる「贖いの死」でありました。この十字架での「贖い」があったから、9節「わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われる」のです。だからこそ、私たちが神の怒りから救われ、神との平和と恵みに立つことができるために、あのキリストご自身が、苦難をも喜び、忍耐と練達を生み出し、失望に終わらない希望を見ておられたことを、私たちは忘れるわけにはいきません。

 そしてそのことを覚えると、今朝、ロマ書3節以降で、使徒パウロがいう言葉が、私たちの信仰の告白にもなっていくのではないか、と思うのです。

3節「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4:忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5:希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 

 説教のはじめに、「なぜキリスト者になっても苦しみはなくならないのか」と申しました。聖書は決して苦しみをタブー視している本ではありません。むしろ、主キリストが私たちのために苦難を喜ばれたとすれば、苦難は主イエス・キリストと私たちを結びつける重要な鍵なのではないでしょうか。そうだとすれば、私たちが苦しみに出会うたび、私たちはそこで、私の苦しみをもはるかにしのぐ十字架という苦難を引き受けられたキリストに新しく出会い、私の今のこの苦しみをもあのイエス様がわかって下さる、というその一点においてこそ、苦しみの中でも、希望を見出すことが可能になるのではないでしょうか。

「なぜキリスト者になっても苦しみはなくならないのか」その答えは、キリストご自身が苦しみ、私の苦しみを余すところなく知ってくださっていることによって、私たちも苦しみを受け入れ喜ぶことができるようになるからです。それは実際には、言葉で表す以上に私たちに精神的な苦痛をもたらすものです。何もないときであればそう告白するのはそう難しくはなかったとしても、いざ苦難に直面すれば、そうそうたやすく「苦難を喜ぶ」とは言えなくなることも、私たちは経験してきています。けれども、私たちが苦しみの中で、あの十字架という苦難を引き受けられたキリストを見上げることができること、そのキリストと一緒にひとりぼっちではなく苦しみに向き合えること、それが私たちの慰めであり、もう一つの希望ではないでしょうか。そして私たちにとって何よりの安心は、たとえ苦しみの中で私たちがわめいたり祈れなくなったり、礼拝が苦痛に感じて神さまが苦しむ私を本当に助けようとしてくださっているのかわからなくなったとしても、その私は、キリストの十字架の贖いによってすでに救われていて、永遠の命を与えられていて、神との平和の中に置かれている、ということではないでしょうか。ときに私たちは、仮に頭でわかっていたとしても「なぜ神は苦しみを私に与えるのか、どうして助けてくれないのか」と恨みがましくさせあることを思ってみたり、おこがましくも祈ってみたりさえします。けれども、私たちが苦難を目の前にどんなにやさぐれるようなことがあったとしても、私たちの救いは変わらず、十字架の贖いも変わらず、神の愛も変わらずに私たちに注がれているのです。だとすれば、たとえキリスト者の生活から苦しみがなくならなかったとしても、苦しみが、私たちが神の前に義とされて救いを得ている、という事実以上に上回ってしまうことはないのではないでしょうか。たとえ苦しみに目が奪われて、いっとき神の救いが見えなくなることがあったとしても、私たちの苦しみがキリストによる救いを上回ってしまうことはないのではないでしょうか。それほどに神の愛は圧倒的に大きく、キリストが苦しみを満足して示してくださった私たちへの愛は、深いものであるのです。

 

 オランダの哲学者であったスピノザは、苦しみについて、次のようなことを述べています。「苦しみというものは、その理由や目的が明らかになったとたん、もはや苦しみではなくなる」確かに、なぜ自分がいま苦しまなければならないのか、その理由がわかったとき、私たちはその苦しみを受け入れることが可能になります。言い換えれば、なぜ苦しまなければならないのか、その理由がわからないとき「なぜなのか」がわからないとき、苦しみはもっとも私たちを苦しめるものです。「なぜこの私が」その理由は、必ずしもそう簡単に解明されるものではありません。震災ひとつをとっても、病をとっても、家族との死別をとってみても、なぜほかの人でなくこの私が、という問いへの答えは、そうそうに見つかる訳ではないでしょう。しかしそれは、神さまのタイミングで「なぜ」に対する答えは私たちに与えられるものであることを、私たちはやはり聖書から知らされています。けれども今朝覚えたいことは、たとえ今すぐに「なぜ」の答えを神から私たちが必ずしも得ることができなかったとしても、今直面するこの私の苦しみを、あのキリストは余すところなく知っておられ、キリストご自身が私のために苦しみを受け入れたお方であった、ということです。そして、キリストが私のために苦しみをも喜んでくださったがゆえに、私も、キリストにあって、この苦しみをも喜ぶことができるようになることを、聖書が私たちに保証していくれている、ということです。それは仮に一筋縄ではいかなかったとしても、あのキリストによって約束され、保証されていることです。私たちが苦しむとき、そしてそれをキリストにあって喜ぶことができるようになるとき、私たちは、キリストが私たちのためにたどった道のりをなぞっていくことになります。それは私たちがキリストの御跡を行くことであり、キリストに従うことであり、そして、キリストに似た者にされていくということです。そしてたとえ昨日、その道のりを歩むことに失敗し、苦しみだけしか見えなくなり、私たちが神の愛を忘れ、キリストの救いを忘れてしまうようなことがあったとしても、キリストはすでに不信心な私たちのために死んでよみがえってくださっており、私の救いは揺るがない、それだけ神の愛は大きく深く、変わらないものであることを覚えていたいのです。

私たちは、平和を差し出してくださる父なる神と、私のために苦難をも喜んで誇ってくださるキリストと、そのご愛を繰り返し私たちに思い出させてくださる聖霊に導かれて、この週も歩んでいきます。その中で、苦しみのただ中で、ご自分も苦しまれた主イエス・キリストが私のために十字架の上で希望を見い出されたことを思い、私たち自身もキリストのあとに従うこと、これも伝道ではないでしょうか。たとえ声高(こわだか)に御名を叫ばなかったとしても、自分の苦しみの中で、あのキリストを見上げている、その信仰の姿は、きっと、主キリストを静かに、しかし熱く証しするものであるはずです。

キリストご自身が、十字架の苦しみを通して、神の愛を私たちに示してくださいました。今朝、この神の愛と平和に支えられ、苦しみの中であっても、やはり、キリストに従おうではありませんか。そして、キリストが患難をも喜びつつ私たちに与えてくださった救いと永遠の命に、苦しみを超える恵みを見続けようではありませんか。