「その目で神の救いを見よ」

「その目で神の救いを見よ」 

聖書 ルカによる福音書2:22-40、ダニエル書7:13-14 

2017年 1月 8日 礼拝、小岩教会 

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【神の救いを待ち望む人々:シメオンとアンナ】 

イエス様が生まれて40日が過ぎてから(ルカ2:22、レビ12:2-4)、 

ヨセフとマリアはイエス様をエルサレムへと連れて行きました。 

ユダヤの律法によれば、最初の男の子が生まれた際、

その子を神の前に捧げる儀式をする必要がありました。

そのため、イエス様の両親は律法に従って、

神殿で鳩を捧げるために、エルサレムへとやって来たのです。 

この時、イエス様の家族がふたりの人物と出会ったと、ルカは報告しています。 

ひとりは、シメオンという名の男性。

そして、もうひとりはアンナという名の女性で、

彼女は神の言葉を人々に伝える預言者でした(ルカ2:36)。

ルカは、シメオンの言葉を多く記録し(ルカ2:29-32、34-35)、

アンナについては短い報告で留めています(ルカ2:36-37)。

偶然同じ場所に居合わせたため、この二人は同じ話の中に登場しています。

そのため、一見この二人には強い繋がりがないように感じます。

しかし、ルカの記述から、この二人に共通することがあったことがわかります。

それは、シメオンも、アンナも、

神の救いを「待ち望む人」であったということです。

では、シメオンやアンナはどのような救いを待ち望んでいたのでしょうか。

ルカによれば、シメオンは「イスラエルの慰め」を待ち望んでいたそうです。

彼は、神の慰めが自分たちイスラエルの民に必要であると感じていました。

ということは、現在のイスラエルが神の民としての理想からかけ離れ、

あるべき状態にはないと、シメオンは感じていたということでしょう。

それは、シメオンだけでなく、

その時代の多くのユダヤ人たちが感じていたことでした。

その根本的な原因のひとつは、

イスラエルの地がローマ帝国の属州となっていたことにありました。

彼らの心からの願いは、ローマ帝国の支配から完全に解放されて、

神に与えられたこの約束の地で、喜びをもって暮らすことでした。

しかし、その願いがかなわないからこそ、

シメオンをはじめ、多くのユダヤ人たちは、神の慰めを求め続けたのです。

神が自分たちを憐れみ、イスラエルを慰めるために、

救いの御手を伸ばしてくださることを、彼らは待ち望み続けていました。

それは、女預言者であるアンナも心から待ち望んでいたことでした。

だからこそ、彼女はイエス様と出会った後、 

その喜びやこの幼子を通して与えられる希望を、 

「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々」に話したのです。

まさに、神の救いを待ち望む人々のもとに、

救い主として、幼子のイエス様が来られたのです。

 

【期待とは違う救い主】 

しかし、シメオンやアンナの目の前にいる救い主は、

人々が待ち望んだ救い主の姿とはかけ離れた存在でした。

当時のユダヤの人々は、もっとわかりやすい救いを待ち望んでいました。 

旧約聖書の「ダニエル書」にこのような言葉があります。

 

夜の幻をなお見ていると、 

見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り 

「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 

権威、威光、王権を受けた。 

諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え 

彼の支配はとこしえに続き 

その統治は滅びることがない。(ダニエル7:13-14)

 

この言葉の通りに、天の雲にのって、救い主が来るのならば、

とてもわかりやすいですし、人々の期待通りではあると思います。

彼らが待ち望んでいるのは、神の慰めの現れとして、

エルサレムに救いをもたらす救い主。

神から権威と王権を与えられ、

すべての国々がひざまずく、絶対的な王であるメシアです。

そんな力強い王が、ローマ帝国の支配から

自分たちの国を解放することを、彼らは待ち望んでいました。

しかし、シメオンとアンナがその目で見た救い主は、

生まれたばかりの、弱々しい赤ちゃんでした。

自分の力で生きることが出来ず、必ず周囲の人々の助けを必要とする、

そんな弱くて、頼りない存在が、救い主だと示されたのです。 

でも、彼らは、自分たちが抱いていた救い主の姿と、

実際に目にした救い主の姿との間にあるギャップを感じて、

反発したり、不信仰に陥ったりはしませんでした。

ルカは救い主として来た幼子との出会いを純粋に、心から喜ぶ、

シメオンとアンナの姿を描いています。 

実際に救い主と出会い、間近に見ることが出来たからこそ、

彼らは反発せず、心から喜んだのだと思います。

この幼子を通して、この世界に起こる神の救いの業に、

彼らは胸を踊らせたことでしょう。

 

【すべての人に救いを与える光】 

イエス様と出会ったシメオンは、この出会いを喜んで、

神をたたえて、このように言いました。

 

「主よ、今こそあなたは、

お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。

わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

これは万民のために整えてくださった救いで、  

異邦人を照らす啓示の光、 

あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:29-32) 

 

すべての人のために、神が整えてくださった救い。

それが、今自分の目の前にいるイエス様だと、シメオンは言います。

ユダヤ人だけではなく、すべての人にとっての喜びであり、

すべての人を照らす光であると、彼は宣言しています。

確かに、シメオンやアンナをはじめ、この時代の人々にとって、 

救いは目に見える形で来ました。

神の独り子であるイエス様が、人としてこの世界に来たのですから。

でも、私たちにとってはどうでしょうか。

残念ながら、私たちはイエス様の姿を実際に見ることができません。

イエス様は十字架に架かって、死んで、墓に葬られた後、 

復活しましたが、その後、天に昇って行きました。

そのため、私たちは直接、救い主であるイエス様を見ることが出来ません。

ですから、正直言って「この当時の人々と、

どこまでこの喜びを共有出来るのだろうか」

と思ってしまうかもしれません。

「私たちこそ、ダニエル書に記されているような出来事が起こって、

神の救いが自分の目で見てわかりやすいように

示されることをが必要なのでは?」と思って、叫びたくなるかもしれません。

「主よ、あなたが私たちを救ってくださるという、

そのしるしを、私たちの目に見える形で示してください」と。

しかし、そのように叫ばなくとも、

私たちはこの目で神の救いを見ることが出来ます。

なぜ私がこのように断言出来るのかというと、

シメオンをイエス様のもとに導いた、聖霊なる神の働きによって、

私たちはイエス様と共にいることが既に出来ているからです。

これが聖書が証言し、教会が信じ続けてきたことです。

聖霊は、シメオンだけでなく、

イエス様を信じるすべての人々に与えられています。

そう、あなたがた一人ひとりに与えられています。

ということは、私たちは教会の交わりの中において、

神を信じる人々と出会うとき、

「神の救い」を実際にこの目で見ることが出来るのです。

神によって救われた人々が、目の前にいるのですから。

そして、神を信じ、聖霊なる神が

共にいてくださっている人々が、私たちの目の前にいるのですから。

イエス様は、聖霊において、私と共にいてくださると共に、

信じるすべての人々と共にいてくださっています。

これこそ、神の救いの手が確かに伸ばされているという証しです。

そのため、私たちはシメオンと共に、

喜びの声を高らかに上げることが出来るのです。

「わたしはこの目で、主よ、あなたの救いを見た」と。

イエス様と出会って、イエス様を信じ、神の救いへと招かれ、

喜び溢れている人と、私たちは教会の交わりの中で出会っているのです。

そうです、私たち一人ひとりが、神の救いの目撃者です。

そして、何より、聖霊においてイエス様と出会っている

私たち一人ひとりが、神の救いを証しする存在なのです。

「神との出会いを通して、少しずつキリストに似た者へと変えられている、

私たちの言葉や行動、生き様が神の救いを証ししている」

ということを私は言いたいのではありません。

「あなたが神によって救われた」という事実そのものが、

神の救いの証しなのです。

あなたが立派な人で、素晴らしい人格の持ち主だから、

良いものをたくさん持っているからなどという理由で、

神はあなたがたを救ったのではありません。

あなたという存在を神が心から愛しているから、

神はイエス様をあなたがたのために送り、救いを与えてくださったのです。

 

【その目で神の救いを見よ】 

しかし、このように神の救いの御手が、

イエス様によって伸ばされていることを知る一方で、

神の救いとは正反対の現実を私たちは見ています。

いや、神の救いとは正反対の現実に、取り囲まれています。

人々の間には、価値観や信念の違い、

人種や言葉の違いといった分厚い壁が常にあります。 

愛を誓いあった夫婦や血のつながりのある家族でさえ、

愛し合えず、憎しみ合ってしまう現実が広がっています。 

格差はますます広がり、一部の人々に富が集中していくことによって、

多くの人が苦しんでいます。

そして、私たち人間が自分の都合に合わせた生活ばかりをして、

自然環境を壊していくため、この世界で共に生きる

被造物たちも、もがき苦しんでいます。

私たちがこの目で見る現実は、

神の造られたこの世界を良い状態に保てずにいて、

「神の救い」に溢れる現実からはかけ離れているように感じます。

そのような光景を目の当たりにするとき、

希望を持てず、言葉を失ってしまうかもしれません。

しかし、私たちには聖書を通して、神の言葉が与えられています。

ここには、神の壮大な救いの計画が記されています。

それは、神の業によって、

この世界のすべてのものが救いへと導かれるという計画です。

私たちは神の計画を完全に知ることができないため、

私たちのこの目では、神の計画は霞んだ状態でしか見えません。 

しかし、それにも関わらず、私たちは神の救いを見ることが出来ます。

聖霊が私たちに与えられているからです。

この聖霊なる神の働きによって、

神の救いの計画を見せていただいている

あなたがた一人ひとりを、神は用いようとされています。

喜びをこの世界に伝えるために、

また、その喜びの現実を多くの人が、

この世界で共に生きる人々が少しでも取り戻すために、

神は私たちを用いられます。

神が、神の言葉である聖書と聖霊の働きを通して私たちに見せてくださる、

その救いの計画を知るとき、どうか喜びをもって、

「主よ、私を用いてください」と進み出ていくことが出来ますように。

神の言葉と聖霊の働きによって、

その目で神の救いの現実を見ることが出来ているあなたがたを用いて、

神はこの地に救いの御手を伸ばしておられるのです。

神の起こす救いの業に期待しつつ、今週も、

神によってそれぞれの場所へと遣わされていきましょう。