「旅の心得」

「旅の心得」 

聖書 マタイによる福音書 10:1-15、創世記 12:1-5 

2017年 6月 4日 礼拝、小岩教会 

 

【主イエスは宣教の旅と派遣されている】 

きょうの物語において、イエス様は12人の弟子たち

を、

ご自分のもとに集めて、彼らを宣教の旅へと送り出しています。

その際、イエス様はこの宣教の旅の目的について、このように語りました。

 

行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。 (マタイ10:7-8)

 

イエス様は、その宣教の初めに、「天の国は近づいた」と宣言され、

出会う多くの人々の病を癒し、悪霊を追い払いました。

また、重い皮膚病を患っている人を清め、罪の赦しを宣言し、

亡くなった少女を生き返らせました。

ですから、イエス様が弟子たちに命じたこれらのことは、

イエス様がこれまで行ってきたことでもありました。

「行って、あなたがたも同じようにしなさい」と、

イエス様は弟子たちに命じているのです。

つまり、イエス様が行っていた宣教の働きを、

弟子たち自身の働きとして、引き継いで行なうようにと招かれたのです。

しかし、このイエス様の言葉は、

12人の「使徒」と呼ばれるこの弟子たちにだけ、

特別に与えられた任務ではありません。

イエス様の宣教の働きは、教会に委ねられています。

そして、教会に招かれ、主イエスを信じ、

主イエスに従って生きようとする、私たち一人ひとりに委ねられているのです。

でも、きょうのイエス様の言葉を聞くときに、私たちは思うのです。

「『天の国が近づいた』と宣べ伝えることは出来る。

しかし、病人を癒し、重い皮膚病を患っている人を清め、

悪霊を追い払い、その上、死者を生き返らせることなど、

私たちに出来るのだろうか?」と。

自然の法則を無視した、奇跡的なことが出来るか、出来ないのか。

そういったことは、イエス様が宣教を行なう上で、

重視したことではありませんでしたし、

私たちに伝えたいことでもありませんでした。

そうではなく、今、傷ついている人たちのために、行動を起こすこと。

傷ついている人たちのために、憐れみを示すこと。

それこそが、「天の国が近づいた」と宣言する、

イエス様が行った宣教の業であり、

教会とそこに集うすべての人々に与えられた宣教の働きなのです。

私たちも、この宣教の旅に、弟子たちと同じように招かれているのです。

いや、正確に言うならば、キリストを信じて生きる私たちの生涯は、

天の国、すなわち神の支配が私たちのもとに来たことを、

この世界に向かって宣言し、告げ知らせる旅なのです。

 

【旅の心得その1:「失われた羊のところへ行け」】

ところで、イエス様は、この宣教の旅へと弟子たちを送り出す上で、

4つの「旅の心得」を語り始めました。

最初の心得は、「イスラエルの家の失われた羊のところへ

行きなさい」(マタイ10:6)というものでした。

このように語る前にイエス様は、「異邦人の道に行ってはならない」、

また「サマリア人の町に入ってはならない」と語っています。

ということは、イエス様にとって、

宣教の対象はユダヤ人だけだったのでしょうか。

自分と同じ民族の人しか愛さない、

同じ価値観、同じ文化、同じ言葉を共有する人たちにしか伝えない。

そのような狭い考えの中で、

イエス様も弟子たちも、宣教を行ったということなのでしょうか。

そのようなことは、決してありません。

イエス様は、「神がイスラエルを、ご自分の民として選ばれた」

という事実を大切にされたから、

「イスラエルの家の失われた羊」たちのもとへ行くことを優先されたのです。

神がイスラエルを初めに選ばれたのには、大きな意味がありました。

神がアブラハムに語られたように、

イスラエルは、この世界の「祝福の源となるように」(創世記12:2)、

神に選ばれ、神の民とされました。

ですから、イスラエルの民が神の祝福を受けることを通して、

イスラエルのゆえに、他のすべての国の人々も祝福を受けるのです。

これが、神が約束され、イエス様が期待していたことでした。

そのため、イエス様は「イスラエルの家の失われた羊のところへ

行きなさい」(マタイ10:6)と弟子たちに言われたのです。

「失われた」ということは、本来あるべき姿とは違うということです。

イスラエルの民が、神の民と呼ばれるのに相応しい民となるために、

彼らのもとへ行って、「天の国は近づいた」と伝えなさい。

イスラエルの民であるにも関わらず、

傷つき、悲しみの涙を流し、苦しみを抱えている人たちのもとに行き、

彼らに寄り添い、神の支配が既にあなた方の現実となっている告げなさい。

そうすることによって、「祝福の源」であるイスラエルが、

再び、神の民に相応しい姿へと整えられていくと、イエス様は信じたのです。

ですから、イエス様が、「異邦人の道に行ってはならない」と語ったのは、

決して、イスラエルやユダヤの国以外の人々を

蔑ろにしていたわけではありません。

すべての人を心から愛していたからこそ、

イスラエルが真実な意味で、「祝福の源」となるために、

イスラエルの民への宣教にイエス様は集中し、

弟子たちを「イスラエルの家の失われた羊のところへ」送り出したのです。

 

【旅の心得その2:「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」】

そして、イエス様は弟子たちを送り出す上で、二つ目の心得として、

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10:8)と語りました。

弟子たちがただで受けたものとは何だったのでしょうか。

それは、イエス様との出会いでしょう。

彼らは、イスラエルの中で、特別優秀だったわけでも、

清く正しい生き方をしていたわけでもありませんでした。

寧ろ、彼らは、どこにでもいるような、普通の人たちでした。

彼らがどのような存在であったかにかかわらず、

イエス様は彼らを選び、ご自分の弟子とされました。

そして、彼らにご自分の権威を委ね、宣教へと送り出したのです。

これこそ、弟子たちが無償で受けたものです。

そして、弟子たちをはじめ、私たちは、

罪の赦しと復活の希望を、神から「ただで」受けています。

私たちが努力をしたからでも、優秀であったからでもなく、

神の側からの愛の行いとして、完全な恵みの贈り物として、

救いは私たちに与えられました。

そして、きょう、このペンテコステの日に思い起こしたいのは、

聖霊が神からの恵みの贈り物として、

私たち一人ひとりに与えられているという事実です。

「聖霊が私たちに与えられたから、

福音は広がったのだ」とルカは語っています。

 

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒言行録1:8)

 

このように、神からの恵みが溢れるばかりに、私たちに注がれています。

「だから、宣教の旅に出て行くあなた方は、

惜しみなく、良いものを与えるものでありなさい」。

イエス様は旅へ出て行こうとする、弟子たちや私たちに語り掛けたのです。

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10:8)と。

 

【旅の心得その3:「神に頼って行け」】

そして、このことと関連して、イエス様は3つ目の心得を語ります。

 

帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。(マタイ10:9-10)

 

私たちがいつも必要としているのは、

「旅に持っていくと役立つ物のリスト」です。

でも、ここでイエス様が語っているのは、

「旅に持って行く必要のない物のリスト」です。

ここで、イエス様は、とても厳しい禁欲的な生活を、

弟子たちに勧めているように感じます。

イエス様は、弟子たちの宣教の旅や、私たちの信仰の旅路を、

義務やルールでガチガチに固めようとしているのでしょうか。

いいえ、そうではありません。

イエス様は、このリストを普遍的なものとしては紹介していません。

イエス様がこのリストを弟子たちに紹介したのは、

これから旅に出て行く弟子たちが、

「いつでも神を信頼するように」と励ますためでした。

だからイエス様は、このリストの終わりに、

「働く者が食べ物を受けるのは当然である」(マタイ10:10)

と短い言葉を添えているのです。

すべてのものを与え、私たちを養ってくださる神こそが、

私たちの生涯の旅路を導き、養ってくださるのです。

 

【旅の心得その4:「平和を携えて行け」】

さて、イエス様が語った4つ目の心得は、挨拶をすることでした。

ユダヤの人々や、彼らの先祖であるイスラエルの人々が使った挨拶の言葉は、

ヘブライ語で「シャローム」、「平和がありますように」です。

イエス様に遣わされて旅に出た者にとって、

この挨拶の言葉は、平和を願う以上のものでした。

イエス様は、旅先で滞在する家が決まったら、

その家の人々に挨拶をするようにと弟子たちに勧めたとき、

まるでこの言葉が意思をもっているかのように語っています。

 

その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。(マタイ10:12-13)

 

「シャローム」、「平和があるように」という挨拶がなされるならば、

平和そのものが、人々の間に訪れる、とイエス様は言うのです。

なぜそのようなことが起こり得るのでしょうか。

それは、弟子たちを送り出した方が、平和の主である方だからです。

イエス様は、私たち人間と神との間に和解をもたらし、

私たち人間同士の間に平和をもたらすために、

十字架にかかってくださいました。

ですから、イエス様を信じ、イエス様に従う者は皆、

イエス様によって与えられた「平和」を既に受け取っているのです。

この「平和」を、「シャローム」を携えて出て行き、

出会う人々の間に平和をもたらすようにと、私たちは招かれているのです。

 

【聖霊と共に歩む旅】 

このように、イエス様は「旅の心得」を、

弟子たちをはじめ、私たち一人ひとりに与えた上で、

旅へ出て行くように送り出してくださいました。

きょう、このペンテコステの日に、私たちが最も思い起こしたいことは、 

私たちの生涯の旅を、聖霊なる神が、

いつも導いてくださっているということです。 

私たちは、いつも何らかの導きを頼りにして生きています。

幼いころは、親の愛情や言葉を頼りにしましたし、

もう少し大人になったら、先生と呼ばれる人たちの言葉を信頼しました。

新聞や雑誌、テレビやネットなどで見る情報に踊らされることもあれば、

お金や夢、社会が唱う「理想」、

占いや思想といったものに、信頼を置くことだってあります。

でも、本当の意味で私たちの生涯を確かな光の中へと導き、

自由と喜びを与え、命に溢れさせるものは、

神が私たちに与えてくださった聖霊です。

このことこそ、最も私たちが心に留めておくべきことです。

聖霊の導きの中を歩むとき、

私たちは、「天の国が近づいた」ことの意味を知ることが出来ます。

聖霊を通して、神の支配が私たち自身に広がっていくからです。

それは、聖霊が神の言葉を私たちの心に刻み込むことによって、起こります。

神の言葉は、私たちにとって「旅の指針」であり、「旅の心得」です。

ですから、私たちは、神が語り掛けてくださる言葉に真剣に向き合って、

天の国を目指して歩んで行くのです。

天の国を目指して歩む、私たちに、イエス様は語り掛けておられます。

「失われた羊のもとへ行きなさい」。

神の目から見て、失われた羊とは誰のことなのでしょうか。

それは、私たちが出会い、目の前にいる人たちです。

イエス様は続けて言われます。

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」、

「神に頼って、この旅を歩みなさい」。

神から与えられた愛や憐れみ、そしてa平和を、

あなた方の目の前にいる人たちに分け与えなさい。

旅の途中で、他のものに信頼したくなるかもしれません。

しかし、ただ神にのみ、私たちの救いはあることを思い起こして、

神にのみ拠り頼んで歩んで行きましょう。

神は、私たちに必要な助け手を与えてくださる方なのですから。

そして、イエス様は私たちを遣わされるのです。

「平和を携えて出て行きなさい」と。

平和とは真逆のことが、さも当然のように繰り広げられ、

争いが争いを呼び、憎しみが留まることを知らない。

それが、私たちが生きているこの世界の現実です。

「だから、あなた方は平和を携えて出て行きなさい。

祝福の源であるあなた方を通して、

主である私が、この世界に平和をもたらし、祝福を与える」。

イエス様は、そのように語られているのです。

これこそ、私たちが歩むようにと招かれている旅です。

愛する皆さん、この礼拝堂を出て行くとき、

あなた方の旅はまた再び始まります。

どうか、聖霊の導きの中を歩むことが出来ますように。

聖霊が私たちの心に刻む神の言葉に、

いつも心を開き、耳を傾けることが出来ますように。

さぁ、キリストの平和を携えて、この旅路を歩んで行きましょう。

そして、喜びに溢れるときも、困難や失望の中にあるときも、

どのようなときも、共に祈りながら、

お互いに手を取り合って、歩んで行きましょう。

私たちが歩むように招かれている旅は、

信仰を共にする仲間たちと一緒に、励まし合って歩む旅なのですから。