「救い主は何処にいますか?」

「救い主は何処にいますか?」 

聖書 マタイによる福音書 11:2-15、イザヤ書 35:1-10 

2017年 7月 2日 礼拝、小岩教会 

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【救い主を探す洗礼者ヨハネ】 

「洗礼者ヨハネ」と呼ばれる人をご存知でしょうか。 

彼は、4つの福音書すべてに登場し、 

イエス様に洗礼を授けた人として知られています。 

彼は、荒れ野で生活をした禁欲主義者でした。 

らくだの毛衣を身にまとい、腰に革の帯を締めて、 

いなごと野蜜を食べて生活をしていたようです(マタイ3:4)。 

ヨハネは、荒れ野でユダヤの人々に向かって、 

正義と愛に基いて生きるようにと叫びました。 

それこそが神が求めておられることだから、 

これまでの生き方をやめて、神の喜ぶ道を歩むようにと、 

罪の悔い改めを人々に迫りました。 

ヨハネの言葉を聞いた人々は、彼を「預言者」として受け入れ、 

彼に従う弟子たちもいました。 

中には、「彼こそが、救い主なのではないか」と 

考える人たちもいたそうです。 

しかし、ヨハネ自身も救い主を待ち望んでいたユダヤ人の一人でした。 

いえ、実際のところ、ヨハネはそれ以上の存在でした。 

彼は、救い主が来られるための道を、備える存在として、 

神に立てられた人だったのです。 

ですから、ヨハネは荒れ野で人々に向かって 

「天の国は近づいた」(マタイ3:2)と叫ぶとき、 

いつも救い主を探していました。 

「主よ、救い主のために、私は道を整えてきました。 

私たちを罪深い現実から救うために、 

私の後から来られる方は、いつ来られるのでしょうか」。 

ヨハネはいつも、救い主を探していたのです。 

「私たちの救い主は、何処にいますか?」と。 

 

【失望するヨハネ】 

そんなヨハネの前に、救い主として現れたのが、 

ヨハネのいとこである、イエスと呼ばれる男でした。 

イエス様が救い主として生まれたということについて、 

ヨハネはこれまで、家族から何度か話を聞かされたことでしょう。 

でも、30年もの間、いとこのイエスといえば、普通に生活をしていました。 

父親の後を継いで行っていた、大工仕事も様になっていました。 

そんなイエス様が目の前にやって来て、洗礼を授けて欲しいと言われたため、

洗礼を授けると、不思議なことが起こったのです。 

天が、イエス様に向かって開き、神の声が聞こえてきたのです。 

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)と。 

この出来事を通して、ヨハネは、 

「イエスこそが待ち望んでいた救い主なのだ」と信じるようになったのです。 

でも、ヨハネはある時、自分のその確信に対して、 

不安を覚えるようになったようです。 

「この人は、本当に私たちの救い主なのだろうか?」と。 

ヨハネが、そのような思いを抱くようになったのは、 

彼がヘロデ王に捕えられ、牢屋に入れられたときでした。 

ヨハネはある日、自分の弟子たちをイエス様のもとに送って、 

イエス様に尋ねました。 

 

来るべき方は、あなたでしょうか。 それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。(マタイ11:3) 

 

ヘロデに捕えられて、牢屋の中で過ごす日々の中で、 

ヨハネは何度もイエス様のことを耳にしたのだと思います。 

でも、聞こえてくるイエス様についての噂は、 

ヨハネの願っていたこととは違っていました。 

イエス様は、ヨハネのように、 

荒れ野でずっと生活をしていたわけではなく、 

それとは正反対に、罪人と呼ばれる人たちと飲み食いしていました。 

人々の病を癒し、悪霊を追い払うことは素晴らしいことでした。 

でも、それ以上のことも行って欲しいとヨハネは思ったのです。 

「イエスが救い主であるならば、

ユダヤの社会に、そしてこの世界に衝撃を与え、 

正義と愛をこの地上に打ち立てるような行動を、 

もっともっと起こすべきではないだろうか」と。 

でも、いつまで経っても、イエス様の行動は変わりませんでした。

イエス様は相変わらず、

貧しい人たちや虐げられている人たちのもとへと出て行くばかり……。

そんなイエス様の話を聞いて、ヨハネは失望していたのです。 

「自分はもしかしたら勘違いをしていたのかもしれない」。 

そのように思うに至ったから、ヨハネは、 

弟子たちをイエス様のもとに遣わして尋ねたのです。 

「来るべき方は、あなたでしょうか。 

それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(マタイ11:3)と。 

弟子たちを送り出した後、 

「ああ、救い主は一体、何処にいるのだろうか?」と、 

ため息をついて、嘆くヨハネの声が聞こえてくるかのようです。 

  

【ヨハネの弟子たちが見聞きしたこと】 

ヨハネの問い掛けに、イエス様は何と言って、答えたでしょうか。 

イエス様は、ヨハネの弟子たちにこう言いました。 

 

行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。(マタイ11:4) 

 

ヨハネの弟子たちが、これまで見て、聞いたことと。 

それは、ヨハネが既に獄中の中で聞いていたことでした。 

 

目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、

重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、

死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。

(マタイ11:5) 

 

イエス様の行ったことは、確かに素晴らしいことではあったけれども、 

イエス様が行ったことを通して、

この世界や社会の状況が劇的に変わったとは言えませんでした。 

不正や不正義はなくなったでしょうか? 

愛や憐れみに溢れる世界となったでしょうか? 

人間の罪や悪は一掃されたでしょうか? 

いいえ、そんなことはありませんでした。 

天の国とは正反対の現実が、人々の日常の中で、

相変わらず猛威を奮っていました。

ヨハネは思いました。

「イエスが救い主であるならば、この世界の現実を 

劇的に変えられるはずではないだろうか?」

でも、実際は、砂漠のように乾いた大地に、 

水が一滴ずつ、ゆっくりと落ちていくのを見ているような出来事でした。 

イエス様は、「これこそが、私が救い主である証しだ」と答えたのです。 

ヨハネは、どのような思いでイエス様の言葉を受け取ったのでしょうか。 

自分の期待していた救い主の姿とは、かけ離れた救い主の姿を知り、 

ショックを受けたかもしれません。 

疑問は、疑問のままであったかもしれません。 

「来るべき方は、あなたでしょうか。 

それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。

救い主は何処にいるのでしょうか?」

 

【「わたしにつまずかない人は幸いである」】 

私たちだって、ヨハネと同じような疑問をもつことがあります。 

イエス様の行なうことが、意味のないように見えてしまうのです。 

いえ、イエス様の行ってくださったことが、 

小さく、取るに足りないことのように見えてしまうのです。 

神に期待していることとは違う現実と出会うとき、 

私たちは問い掛け始めるのです。 

「救い主であるイエス様は、一体何処にいるのでしょうか」と。 

しかし、ヨハネの問い掛けに対するイエス様の答えは、 

私たちが望んでいないところや、 

考えてもいないところに、救い主は来ることを語ります。 

そうです、私たちの努力の末に救い主が来るのでも、 

私たちが望んでいる形で、イエス様が来るのでもないのです。 

虐げられている者、貧しい者、罪にもがき苦しむ者、嘆く者たちに、 

また、取るに足りないように見える者たちに寄り添うことによって、 

イエス様は愛と正義を示されました。 

イエス様にとって、それこそ、この世界の現実を 

根本的に変えるために必要なことなのです。 

この世界の現実を劇的に変える出来事は、 

イエス様の十字架と復活によって起こりました。 

罪の赦しと復活の希望というあり得ないことが、 

私たちに与えられているとイエス様を通して告げられました。 

でも、それよりも優先して、イエス様が行ったのは、 

一人ひとりと出会い、その苦しみや悲しみに寄り添うことでした。 

どんなに小さく、些細に思える人も、 

イエス様にとって、愛すべき、大切な人です。 

それをイエス様は、まず第一に示すために、行動されたのです。 

たとえ、私たちの目には、わずか一滴の水を砂漠に注ぐような、 

無意味な行動に見えたとしても、 

それでも、イエス様にとって、それらのことは、 

砂漠に花を咲かせるために必要な一歩だったのです。 

きょう、救い主は一体何処にいるのでしょうか。 

イエス様を信じて、イエス様に従う、あなたがた一人ひとりを通して、

救い主であるイエス様は私たちと共にいます。 

そして、あなた方と共にいることを通して、 

イエス様は、あなた方の家族や友人たちと出会うのです。 

神は、私たちを通して、 

私たちの愛する人たちと出会いたいと願っておられるのです。 

それは、神の愛や正義を、 

この世界に示すためには非効率的なことです。 

また、神の憐れみや平和がこの世界に広がる上では、 

とても小さな一歩に見えるかもしれません。 

でも、それは神の目から見るならば、やがて砂漠に川を流れさせ、 

その一面を花でいっぱいにするほどの力を持つ、大きな一歩なのです。 

だから、救い主であるイエス様は、 

私たちが無意味に思えるような場所に立って、救いの手を伸ばされるのです。 

そして、いつも私たちに語りかけておられるのです。 

「わたしにつまずかない人は幸いである」(マタイ11:6)と。