「種を蒔く人を見よ」

「種を蒔く人を見よ」

聖書 マタイによる福音書 13:1-9、エゼキエル書 36:9-11

2017年 9月 3日 礼拝、小岩教会 

 

【主イエスがたとえを用いて語った理由】

ガリラヤ湖に浮かぶ舟に腰を掛け、

きょうも、イエス様は人々に語り始めました。

イエス様の語る言葉を、岸辺に立って真剣に聞いていた、

多くの人たちにとって、この「種まき」の話は、

イエス様が語られたたとえ話の中でも、

特に親しみを覚える話だと思います。

というのも、種が蒔かれて、その種が成長するのを見守り、 

収穫に一喜一憂するのは、 

この当時の人々にとって日常的なことだったからです。 

このように、イエス様は、人々に親しみ深い形で、 

神の国についてのたとえを語りました。

でも、イエス様の話は、とてもわかりやすく感じる一方で、 

イエス様がこの話を通して何を伝えようとしているのかは、 

すべての人に明らかだったわけではありません。

ある人は、その意味を理解し、うなずきながら聞いていました。 

またある人は、「この人は何故このような話をするのだろうか」と、 

首をかしげながら、悩んだことでしょう。

イエス様がたとえを用いて語るときは、

多くの場合、「天の国」について、人々に知らせるために語っています。

でも、そもそもなぜイエス様はたとえを用いて、

語る必要があったのでしょうか。

それは、「天の国」とは、

人々がこれまで触れたことがない、未知のものだったからです。

もしも私たちが未知のものについて知ろうとするとき、 

既に知っていることを土台にして理解する必要があります。

ですから、未だ完全にその全貌を知ることが出来ないけれど、

確かに私たちには「天の国」が与えられている、

ということを教えるために、イエス様はたとえを用いられたのです。

たとえ話を聞いて、その光景を想像することを通して、

天の国について創造的に、自由に思い巡らす。

これこそ、イエス様が、

たとえ話を用いて天の国について語ったことの狙いです。

 

【種まきの話をどのように聞いている?】

ところで、この「種まき」の話を、

私たちは一体どのように受け止めることが出来るのでしょうか。

このたとえ話を聞いて、理解できなかった人たちのために、

イエス様は、このたとえを解説されました(マタイ13:18-23)。

「実を結ばない土地は、神の言葉を聞かない人の姿で、

実を結ぶ土地は、神の言葉を聞き、

それを心から受け入れる人の姿だ」という具合に。

イエス様がこのように解説をされたので、

私たちはこのたとえ話を聞く度に、

いつも自分に問いかけたくなります。

「私は、このたとえ話の中で語られている土地の中で、

一体、どの土地のような人間なのだろうか?

神の言葉を受け入れているだろうか、

拒絶しているだろうか。

それとも、神を受け入れているふりをして、

実は、神に背いていないだろうか」。

「そうです、私自身は、良い土地には程遠い生き方をしています。 

あぁ、所詮、自分は茨だらけ、岩だらけの土地です」。

このように、どうしても、私たちはこのたとえ話を聞くとき、

種がまかれる「土地」の方に目を向けてしまいます。

でも、イエス様は、このたとえを理解できなかった人たちのために、

このたとえが持つ本来の意味をあえて変えて、

このような解説を加えたのです。

では、そうであるならば、どのような意味を込めて、

イエス様はこのたとえを語られたのでしょうか。

実は、このたとえを理解するための鍵は、

土地ではなく、種を蒔く人の側にあります。

3節の言葉を、ギリシア語から直訳してみると、

そのことがより鮮明になります。

イエス様は、このたとえ話をこのように語り始めました。

 

見よ、種を蒔く人が出て行った、種を蒔くために。

(マタイ13:3、私訳)

 

イエス様は土地ではなく、 種を蒔く人に目を向けるように促しています。

それでは、この話が、種を蒔く人にこそ目を向ける話だと気づくとき、 

このたとえは、どのような響きを持ち始めるのでしょうか。

注目すべきなのが種を蒔く人であるならば、

この話は、種を蒔く人が、たくさんの失敗を繰り返した話です。

種を蒔く人の種まきは、ことごとく失敗しています。

ある時は、鳥に種を食べ尽くされます。 

ある時は、種は太陽の熱に焼かれてしまいます。 

またある時は、茨に成長を邪魔をされてしまいます。

でも、よくよく考えてみると、種を蒔く人のこれらの失敗は、

実は、彼自身の手で引き起こされたものです。

確かに、この当時の種まきの方法は、

出来るだけ広く種が土地に蒔かれるように、

腕を拡げて種をばら撒くのが、種蒔きの一般的な方法でした。

ですから、少しくらい、道端に落ちたり、悪い土地に落ちる種は出てきます。

でも、悪い土地に種を蒔いて、種を無駄にしたくないならば、

良い土地にだけ種を蒔く工夫はある程度出来たでしょう。

道端の近くでは、腰を下ろして、耕した土地に種を蒔くとか、

悪い土地には背を向けて種を蒔くという具合に。

でも、イエス様が語ったこのたとえ話において、

種を蒔く人は、そのような行動はしていません。

この人は惜しむことなく種を蒔いているのです。

 

【神は語り続ける】

種を蒔く人がどのような土地にも種を蒔き、

効率を重視することなく、失敗を恐れないでいる姿は、

神が私たちに御言葉を語り続けてくださる姿と重なります。

神は決して、効率を重視している方ではありません。

たとえ、悪い地であると判断されたとしても、

諦めず、種を蒔き続けます。

御言葉を語り続けます。

そうです、神が語られるのは、ただ1回きりではありません。

実を結ばないのならば、その原因を探ってくださる。

石や雑草があるならば、取り除けてくださる。

土の状態が悪いならば、耕してくださる。

預言者エゼキエルを通して、神が

「わたしはお前たちのために、お前たちのもとへと向かう。 

お前たちは耕され、種を蒔かれる」(エゼキエル36:9)

と語られた通りに、神は行動されるのです。

神は土地を耕し、種が芽生え、実を結び、

収穫を迎えるその時まで、私たちを養ってくださる方なのです。 

 

【神と共に種を蒔く】 

ところで、この種はいつ蒔かれたのでしょうか。

6節に「日が昇ると焼けて、 

根がないために枯れてしまった」と記されています。

「昇る」と訳されている言葉は、

太陽が地平線を越えて昇る様子を表す言葉です。

ということは、太陽が昇る前、まだ暗い時間に、

種を蒔く人は種を蒔きに出て行ったことがわかるでしょう。

私たちに御言葉の種を蒔き続けてくださる神は、

この種蒔きのように行動される方です。

私たちがまだ眠りについているときに、神は行動されます。

私たちが何かをなす前に、いや、この世に命を受けるよりも前に、 

神は先に行動され、土地を耕し、種を蒔いてくださっています。

このような神の種蒔きは、これまで何度も失敗してきました。

でも、失敗したら、その土地は見捨てるということを神はなさいません。

このたとえは、最後には100倍、60倍、30倍の実を結ぶと、

希望のうちに終わっています。

何度も何度も、失敗を繰り返すけれども、

最終的に実を結ぶために、神は行動されます。

諦めることなく、何度も何度も、土地を耕し、種を蒔かれます。

そして、最後には多くの実を結び、

収穫時には多くの喜びがあることが示されています。

神は、そのような希望を見つめて、私たちに語り続けておられるのです。

これが、天の国、神の支配の現実なのだと、

イエス様は教えてくださったのです。

そして、これこそ、神がこの世界になされている宣教の業です。

私たちに出来ることは、この神の宣教の業を共に担い、

神が語りたいと願う場所に、種を届けることです。

ですから、神の言葉を私たちが真剣に聞くことから、

私たちの種蒔きは始まります。

1粒の種が、私たち自身のうちに実を結ぶならば、

それは、100倍、60倍、30倍にもなります。

実は誰かを養うために存在します。

そして、余った実は地に落ちて、栄養となることでしょう。

また、その実にある種が育ち、実を結ぶことだってあります。

そうやって、神から受け取った種を私たちは、

この世界に、神と共に蒔くことが出来るのです。

私たちが招かれている、宣教の働きは、何よりも神の業です。

ですから、神と共に種を蒔くとき、

良い実が結ばない地がある現実には、神と共に涙を流し、

豊かな収穫が与えられる時には、神と共に喜びを味わいましょう。

大切なのは、土地の状態に気を取られることではありません。

土地を耕し、種を蒔いてくださる方を、

私たちがいつも見つめ続けることです。

神が語り、神が行動されるならば、

最後には100倍、60倍、30倍の実を結ぶのですから。

私たちは、希望をもって神を見つめ、種を蒔くお方を見つめて、

神に委ねられた働きのひとつひとつを行っていきましょう。