「あなた方の目と耳は幸いだ」

「あなた方の目と耳は幸いだ」 

マタイによる福音書 13:10-17、イザヤ書 6:9-13

2017年 9月 10日 礼拝、小岩教会 

 

【なぜたとえを用いてイエスは話すのか?】 

種まく人のたとえをイエス様が語るの聞いたとき、 

弟子たちの心に疑問が湧いてきました。 

「このたとえを通して、 

イエス様が伝えようとしていることは、 

弟子である自分たちには何となくわかる。 

でも、人によっては全くもって意味不明! 

チンプンカンプンに違いない。 

たとえなど用いないで、もっとわかりやすく語れば良いのに、 

何でイエス様はこのような話し方をするのだろうか」と。 

そのため、彼らはたとえを用いて語る理由を、イエス様に尋ねました。 

弟子たちの質問に対して、イエス様はこのように答えます。 

 

あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、 

あの人たちには許されていないからである。(マタイ13:11) 

 

「天の国の秘密」とは、一体何を意味しているのでしょうか。 

「秘密」と訳されている言葉は、 

人間の理性では決して知ることの出来ない、 

神の思いや神の計画を意味する言葉です。 

つまり、「天の国」とは、神の側が明らかにしなければ、 

私たち人間は知ることも出来ない。 

いや、見ることも、聞くことも出来ないものなのです。 

しかし、天の国の秘密は、

イエス様を通してすべての人に明らかにされました。 

「天の国は近づいた」と語り、人々を教え、 

病人を癒し、悪霊を追い払い、罪の赦しを与える 

イエス様を通して、天の国は明らかにされました。 

でも、イエス様の言葉を聞き、イエス様の生き様を見たすべての人が、 

イエス様を心から受け入れ、

天の国の到来を信じたわけではありませんでした。 

中にはイエス様と距離を置く人、 

イエス様に強く反発し、イエス様を殺そうとする人までいました。 

ですから、イエス様は、天の国について語るとき、 

たとえを用いて語ることを選ばれたのです。 

自分の言葉を聞いて強く反発してしまう人たちが、 

何とか耳を傾け、天の国について知ることが出来るようにと願って、 

イエス様はたとえを用いて語られたのです。 

 

【「私は彼らを癒やす」と主は言われる】 

しかし、たとえを用いて語ったとしても、 

「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」人たちがいることは、 

イエス様もよくわかっていました。 

自分を拒絶し、天の国について知ることが出来ない人がいる現実について、 

イエス様は、預言者イザヤの言葉を引用して説明しています。 

 

イザヤの預言は、彼らによって実現した。 

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、 

見るには見るが、決して認めない。 

この民の心は鈍り、 

耳は遠くなり、 

目は閉じてしまった。 

こうして、彼らは目で見ることなく、 

耳で聞くことなく、 

心で理解せず、悔い改めない。 

わたしは彼らをいやさない。』(マタイ13:14-15) 

 

イザヤ書6章に記されているこの預言の言葉は、 

新約聖書でよく引用される旧約聖書の言葉のひとつです。 

イエス様を拒絶して、福音を受け入れることが出来ない人たちがいる、 

その理由を説明するために、この言葉は用いられています。 

しかし、それにしても、救いようがない言葉のように感じてしまいます。 

預言者イザヤの言葉や行動を理解せず、認めない人たちは、 

「目で見ることなく、耳で聞くことなく、 

心で理解せず、悔い改めない」と言われ、 

彼らの不信仰な現実が批判されています。 

そればかりでなく、「わたしは彼らをいやさない」と、 

神によって宣言されているのです。 

心が鈍くなり、耳が遠くなり、目が閉ざされてしまったため、 

神の言葉を聞けず、神の救いを見ることが出来ない。 

神の行動に心動かされることもない。 

そのような状態を、神が癒してくださらないというのですから、 

それは救いようのない、悲しい言葉に感じます。 

しかし、マタイが用いたイザヤ書のギリシア語訳を注意深く読んでみると、 

「わたしは彼らをいやさない」という最後の言葉は、 

否定の文ではなく、肯定文として読む可能性が高いことに気付かされます。 

つまり、彼らは「目で見ることなく、耳で聞くことなく、 

心で理解せず、悔い改めない」。 

「しかし、わたしは彼らをいやす」と。 

このように訳せるのは、ギリシア語だけでなく、 

ヘブライ語に関しても、そうです。 

つまり、神は最後には「癒やしを与える」という、 

約束の言葉を私たちに語ってくださっているのです。 

ということは、そのような希望を抱いて、 

イエス様はたとえを語ったのだと思います。 

今は拒絶され、聞いても上の空で、 

何を見ても、神の救いの現実を見ることがない。 

そのような人々が、今は大勢いるけれども、 

神が、癒しを与えてくださる。 

「彼らは目で見ることなく、 

耳で聞くことなく、 

心で理解せず、悔い改めない」けれども、 

神が、「わたしは彼らをいやす」と語り掛けてくださっている。 

今は拒絶されるとわかっていても、イエス様は希望を抱いて、 

人々に天の国の現実をたとえを用いて語り伝えたのです。 

 

【あなたがたの目、耳は幸い】 

ですから、イエス様にとって、 

天の国の教えを喜んで聞き、ご自分に従って歩もうとする、 

弟子たちの存在は大きな喜びでした。 

神が彼らに働きかけ、 

天の国のたとえを理解することが出来るようにしてくださったのですから。 

そのため、イエス様は弟子たちに向かって、このように宣言されました。 

 

あなたがたの目は見ているから幸いだ。 

あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 

はっきり言っておく。 

多くの預言者や正しい人たちは、 

あなたがたが見ているものを見たかったが、

見ることができず、 

あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、

聞けなかったのである。 

(マタイ13:16-17) 

 

この当時の人々が普段、目にしたもの、耳で聞いたこととは、 

どのようなものだったでしょうか。 

不平等や差別は、当然のように行われていました。 

個人的な暴力も目にすることもあれば、 

裕福な人が貧しい人から搾取していることも見聞きしていました。 

そのような光景を見聞きしていた弟子たちに、 

イエス様は宣言されたのです。 

「あなたがたの目は見ているから幸いだ。 

あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と。 

もちろん、目や耳が悪くないから幸いだという意味ではありません。 

私を通して、天の国を見ているから、あなた方の目は幸いだ。 

私を通して、天の国が来たことを聞いているから、 

あなた方の耳は幸いだ、とイエス様は語っているのです。 

天の国とは、神の支配を意味する言葉です。 

つまり、不正や悪事が行われ、 

不正義や不平等、差別がまかり通っているこの世界に、 

神の支配が訪れて、神が平和をもたらすという約束が、 

「天の国」という言葉の持つ意味です。 

私たちは、いじめや家庭の崩壊、 

差別や国家が武力をもって牽制しあっている姿を、見聞きしています。 

人と人とが手と手を取り合えない。 

自分と考え方の違う人を受け入れられない。 

そのような世界の現実をこの目で見て、この耳で聞いています。 

しかし、「天の国は近づいた」とイエス様は宣言されています。 

そう、私たちが失望し、目の前が真っ暗になってしまい、 

耳を閉ざして、逃げ出したくなるような場所に、 

神が「光あれ」と語り掛け、平和をもたらしてくださるのです。 

イエス様によって、それを目にすることが私たちには出来ます。 

イエス様の言葉を通して、それを耳にすることが私たちには許されています。 

だから、「あなた方の目と耳は幸いだ」とイエス様は宣言されているのです。 

 

【天の国の種を蒔こう】 

ところで、このようなたとえ話の解説が、 

種蒔きのたとえの後に語られたことに、 

私たちは大きな意味を見出すことが出来ると思います。 

私たちは、神の癒しをこの耳で聞き、 

目で見ることが許されていますし、 

天の御国の訪れを知らされ、 

信仰の目で見ることが許されています。 

それが私たちが、「幸いだ」と宣言されている理由です。 

「幸いだ」と宣言されている私たちには、 

神から「天の国の種」が託されています。 

天の国の現実に触れた私たちを通して、 

天の国は、私たちと共に生きる人々の間に広がっていくからです。 

さぁ、きょう、神はあなた方に何を語り、何を見せておられるでしょうか。 

あなた方はその耳で何を聞き、何を見ているでしょうか。 

あなた方が聖書から語られる御言葉を通して、 

また、礼拝や、教会での交わりを通して、 

その耳で聞き、その目で見る、天の国の現実こそ、 

あなた方に与えられている、天の国の種、 

あなた方が見聞きした「幸い」をこの世界に宣言する種なのです。 

神は預言者イザヤに問いかけたように、 

いつも、天の国の種を手にするあなた方に問いかけておられます。 

 

「誰を遣わすべきか。 

誰が我々に代わって行くだろうか。」(イザヤ6:8)