「その日、太陽のように輝く」

「その日、太陽のように輝く」

聖書  マタイによる福音書 13:36-43、ダニエル書 12:1-4 

2017年 10月 22日 礼拝、小岩教会

 

【私は「御国の子」?それとも、「悪い者の子」?】

私たちは、毎週日曜日、礼拝の中で「使徒信条」によって、

このような信仰の告白をしています。

 

かしこより来たりて

生ける者と死にたる者とを審きたまわん。(「使徒信条」より)

 

世の終わりの日、イエスさまが再び私たちのもとに来られるとき、

すべての人間が、神の裁きの対象として、

神の前に立たされることを、私たちは毎週のように確認しています。

でも、きょうのイエスさまの言葉を読むと、

それとは違う印象を覚えるのは、私だけでしょうか。

同じ畑の中に生えた麦と毒麦についてのたとえ話で登場する「毒麦」を、

イエスさまは「悪い者の子ら」と説明し、

毒麦、つまり「悪い者の子ら」は集められて、

燃え盛る炉の中に投げ込まれる、と言うのです。

まるで、神に背く悪者だけが、

神の裁きの対象であるかのような印象を覚えます。

そのような話として聞くならば、きょうのイエスさまの言葉は、

とても厳しい言葉として私たちの心に響くものとなるでしょう。

神と自分の関係の「つまずき」となるものを、

自分の心から取り去るためにはどうすれば良いだろうか。

「不法を行う者」の一人として、自分は神に数えられていないだろうか。

もしも、「悪い者の子ら」の一人に数えられ、

神によって裁かれることになったならば、

終わりの日、自分は、燃え盛る炉の中に投げ込まれてしまう。

そうならないために、良い行いを積み重ねなければいけない。

たくさん聖書を読んで、たくさん祈って、たくさん奉仕をして、

神に喜ばれなければいけない。

いや、それでもまだ足りないかもしれない。

というように、私たちが救われるためには、

結局のところ、私たちの側に努力が必要であるかのように思えてくるのです。

救いは神の恵みによってのみ与えられているのに、

どこかでそれだけでは安心できない自分がいるのです。

【終わりの日における、神の裁き】

でも、そもそも、神の裁きというものは、

正しい者と悪い人をはっきりと分けて、

悪人だけを裁くものなのでしょうか。

よくよく考えてみると、私たち人間は、

単純に正しい者と悪い者とに分ける事は出来ません。

たとえ、「御国の子」と呼ばれるような者であったとしても、

神を信じる信仰者であったとしても、

神に一度も背かず、罪の全くない者など一人もいません。

誰も傷つけず、一切高ぶることのない人間などいません。

その意味で、「御国の子」である自分と、

「悪い者の子」である自分の両方を抱えながら生きるのが、

私たち人間という存在なのかもしれません。

そう、まさにイエスさまがたとえの中で語られたように、

同じ畑の中に麦と毒麦を抱えるのが、

私たちの現実であり、この世界の現実なのです。

そう考えると、イエスさまがここで語られている裁きは、

私たちにとって、希望を持てるものに思えてきます。

イエスさまはこう言われました。

 

人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。(マタイ13:41-42)

 

興味深いことに、天使が集めるようにと指示された、

つまずきとなるものや、不法を行う者は、

「自分の国」つまり、神の国から集めると語られています。

つまり、御国に属する子たちから、

捨て去るべき毒麦を集めているように読めます。

ということは、私たちにとって、

イエスさまが再び来られる、世の終わりの日は、

恐れを覚える日ではなく、喜びの日です。

使徒信条によって私たちが毎週告白しているように、 

終わりの日に、生きている者も、死んだ者も、

すべて等しく神の前に立たされ、

私たちは神によって裁きを受けます。 

しかしその裁きは、私たちから、罪や不法、悪意や妬みといった、 

毒麦が取り去られ、燃やし尽くされる時なのです。

そして、毒麦が取り去られるのは、

私という一人の、個人の人間からのみではありません。 

この世界から、毒麦は取り去られ、燃やし尽くされます。 

あらゆる支配も、権力も、国家も、暴力や破壊も、恐怖も、死も、 

すべてキリストにおいて滅ぼされ、 

その日、「神がすべてにおいてすべてとなられる」のです(Ⅰコリ15:28)。 

ですから、私たちは希望を抱いて、 

終わりの日を待ち望むことが出来るのです。 

 

【その日、太陽のように輝く】

そのため、イエスさまは、麦と毒麦のたとえを説明したとき、 

希望の約束を語って、話を結ばれたのです。 

「そのとき、正しい人々は

その父の国で太陽のように輝く」(マタイ13:43)と。

「正しい人」というと、道徳的な正しさを想像してしまいますが、

この言葉は直訳すると、「義人」という意味を持ちます。

ということは、神と正しい関係をもつ人に対して、

イエスさまは祝福に満ちた、約束の言葉を語られたのです。

「そのとき、終わりの日に、

あなた方は太陽のように輝く」と。

「義人」と呼ばれる人たちは、

信仰に基づいた歩みをする中で、

いつも苦しい思いをしていたであろうことが、

イエスさまの言葉から想像することが出来ます。

山上の説教のはじめに、イエスさまは言いました。

「義に飢え渇く人々は、幸いである、

その人たちは満たされる」(マタイ5:6)。

また、このようにも言いました。

「義のために迫害される人々は、幸いである、

天の国はその人たちのものである」(マタイ5:10)。

これらの言葉から、義を求めて生きた人たちが、

神の義を求めて生きるために、人々から疎まれ、

いじめにあったり、迫害を受けたりしたことが想像出来るでしょう。

「義人」と呼ばれるような信仰者たちにとって、

太陽のように輝くような思いなど、無縁と言って良いと思います。

しかし、そのような人々に、

イエスさまは祝福と希望に満ちた約束をされたのです。

あなた方は今は、信仰を抱いて生きるゆえに、

苦しみを抱え、悲しんでいるかもしれない。

憐れみに基づいて生きようとすればするほど、

「自分のことだけ考えて生きるだけで精一杯なのに」

という声と戦って、ボロボロになってしまうかもしれない。

神の願う正義に基づいて生きれば生きるほど、

この世界の暴力や権力に押しつぶされそうになるかもしれない。

しかし、終わりの日には、あなた方は太陽のように輝くと、

イエスさまは約束しておられるのです。

確かに、私たちは、決して完全な存在ではありません。

神の前に、常に喜ばれる人間というわけでもありません。

その上、私たちは誰かをつまずかせる原因を抱え、

気づかないうちに不法を行ってしまうので、

「義人」とは呼ばれるには、程遠い存在です。

その意味で、太陽のように輝くなんて、到底、無理な話です。

でも、そんな私たちが、キリストにあって、義人と呼ばれ、

神によって、太陽のように輝く存在にされる。

神によAって、完全な者とされる、というのです。

これは、私たちに必ず与えられている神からの約束です。

それと同時に、神はあなたがたに宣言されています。

この地上にあって、あなたがたは、既に、世の光とされているのだ、と。

イエス・キリストによって、罪の赦し、復活と永遠の命の希望を与えられ、

日々新しく作り変えられている私たちを通して、

神はご自身の栄光をこの世界に現されています。

あなた方を通して、神の栄光が明らかにされているのです。

その意味では、既に、あなた方は太陽のように輝く、

光の源をイエスさまによって与えられています。

そして将来は、私たちを苦しめる毒麦が燃やし尽くされることを通して、

ますます強く輝く存在へと変えられていくのです。

ですから、私たちはいつも神に希望を抱いて歩みましょう。

神は、私たちの毒麦を燃やし尽くして、

「あなたは義人である」と私たちに宣言してくださるのです。

だから、私たちが失望するところや、悲しむところ、嘆くところ、

そのすべてに神が働き、

キリストにあって、太陽のように輝くものとさせてくださることを、

私たちはいつも期待して日々歩むことが出来るのです。

どうか、来るべき日、キリストにあって、

太陽のように輝く者とされる日に心からの希望を抱いて、

日々、歩み続けることができますように。

主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の親しき交わりが、

あなたがたと共にありますように。