「教会は改革され、改革し続ける」

「教会は改革され、改革し続ける」

聖書 マタイによる福音書 13:44-50、申命記 6:4-5

2017年 10月 29日 礼拝、小岩教会

 

【宝や真珠よりも、遥かにまさるもの】

イエスさまは、たとえ話を語るとき、

「天の国は次のようにたとえられる」と語り始めることが多かったようです。

「たとえられる」と訳されている言葉は、

もともとの言葉では、「似ている」という意味の単語が用いられています。

ただ、「天の国は、こういうものです」と言い切るのではなく、

「天の国は、こういうものに似ているんですよ」と語るのは、

ちょっと遠回りをしているように感じます。

でも、「天の国」というものは、

イエスさまを通して、初めて知らされたものです。

その意味で、天の国は、私たちにとって、全く未知のものといえます。

そのため、イエスさまは、私たちが何とかして、

天の国について知ることができるようにと願って、

「天の国は、こういうものに似ているんですよ」と、

天の国を様々なものにたとえて、説明されたのです。

イエスさまは、あるときは、「天の国はからし種のようだ」と語り、

天の国は、小さな種のようだけれど、

成長すると大きくなる様子を伝えました。

またあるときは、「パン種のようだ」と語り、

天の国は、人の目には隠されているけれども、

周囲に大きな影響を及ぼすものであると教えてくださいました。

では、きょうのイエスさまの言葉は、

どのような意味を込めて語られたのでしょうか。

イエスさまは3つのたとえを話しています。

ひとつ目は、「畑に隠された宝」に似ている。

ふたつ目は、「商人が高価な真珠を探す」ことに似ている。

そして最後に、漁師が網で魚を捕ることに似ていると言って、

イエスさまは天の国のたとえを語られました。

最初のたとえと、ふたつ目のたとえは、とても似ている話です。

というのは、畑に宝を見つけた人も、

高価な真珠を見つけた人も、

それを手に入れるために、財産のすべてを手放したからです。

ということは、イエスさまは、

私たちにも同じように生きるように求めているのでしょうか?

天の国を自分の手にするために、

この世の富をすべて捨て去って生きろとでも、言っているのでしょうか?

確かに、富に囚われた生き方は、私たちのあるべき姿ではありません。

「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)

とイエスさまが語られたように、それは神の願う生き方ではありません。

すべてのものは神によって与えられ、

神によって私たちは養われて生きているのですから、

私たちは、すべての造り主である神を信頼して生きるべきです。

でも、だからといって、

財産のすべてを何の考えもなしに手放すのは、無謀です。

ですから、イエスさまは、

あなたの持っている富を手放しなさいと勧めているのではありません。

イエスさまがこのたとえ話に込めた狙いは、

財産のすべてを投げ打ってまで手に入れたいと願う、

宝や真珠があるという事実に、私たちの目を向けるところにあると思います。

「この地上で手にする様々な宝よりも、遥かに勝るものがある」

ということをイエスさまは伝えているのです。

それは何だと思いますか?

そうです、これは「天の国のたとえ」です。

ですから、「私たちがこの地上で手にする様々な宝や富よりも、

遥かに勝って価値のあるものは、天の国なのだ」と

イエスさまは伝えようとしているのです。

それほどまでに価値のある「天の国」とは、「神の支配」のことです。

からし種やパン種の話で示されたように、

確かにそれは、目に見えないものかもしれません。

でも、確かに、すべてに勝る宝として「神の支配」はこの世界にあるのです。

 

【神の言葉、という私たちに与えられた宝】

それでは、宝や真珠よりも遥かに勝る、天の国は、

一体、私たちの世界の何処にあるのでしょうか?

畑に宝を見つけた人のように、

まるでそれは、偶然、手に入るものなのでしょうか?

それとも、良い真珠を探し求めて旅をする商人のように、

私たちも必死に探さなければならないのでしょうか?

イエスさまは、偶然でもなく、私たちの努力でもなく、

神の恵みよって、天の国は私たちのもとに来たことを示されました。

「天の国は近づいた」(マタイ4:17)と。

何よりも、天の国は、イエス・キリストによって、この世界に示されました。

つまり、イエス・キリストと出会うすべての人々に、

天の国は示されているのです。

では、私たちはどのようにイエスさまと出会えるのでしょうか。

教会は、およそ2000年もの間、

聖書に記されている言葉が語られることを通して、

私たちはイエスさまと出会えると受け止めてきましたし、

事実、イエスさまと出会い、聖書を喜びをもって受け取ってきました。

ですから、私たちがいつも立ち帰るべきところは、聖書なのです。

この「聖書のみ」というとても重要な原則を教会は、

今から500年前に始まった、教会の改革運動を通して確認しました。

聖書が開かれ、そこに記されていることが語られることを通して、

私たちに、神の言葉が語られる、と。

そして、この神の言葉によって、私たちはキリストと出会い、

キリストにあって新しく造り変えられるのです。

ですから、私たちは、聖書という書物の中に、

すべてに勝る宝を見出すことが出来るのです。

歴史上のすべての信仰者たちは、宝を見出したとき、

神によって改革されてきました。

神によって、価値観が変えられました。

生きる意味が変えられました。

行動や言葉、日々の生活が変えられました。

そして、聖書を通して、神の言葉を通して、

喜びと共に見出した宝を十分に受け取るために、

信仰者たちは、自ら、自分たちの生活を改革し続けてきました。

そのようにして、教会は改革し続けてきたのです。

それは、今も変わらないことです。

神の言葉が語られ、それが心に響くならば、

私たちの内側から、「改革」が起こるのです。

時に、それは小さな変化かもしれませんが、

神の言葉は、私たちを変える力があるのです。

ですから、私たちは、500年前にドイツの教会で起こった「改革」を、

過去のものとして喜ぶということをするのではありません。

教会が今も変わらずに、改革され続けることを願うのです。

 

【キリストにあって改革され、改革し続ける】

ところで、そもそも、なぜ、

そのような改革が私たちに必要なのでしょうか。

イエスさまが3つ目に語ったたとえが、

私たちにその必要性を教えてくれると思います。

イエスさまは、「天の国は次のようにたとえられる」と言って、

漁の話をされました。

 

網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。

網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、

座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

(マタイ13:47-48)

 

ここで語られている漁は、「地引き網」という方法で行われています。

それは、舟で網を水中に沈めていき、

陸の側から引っ張って、多くの魚を捕る方法です。

想像していただくとわかるように、

この方法は、無差別に魚を網に入れていく方法です。

ですから、地引網を用いて漁を行うならば、

良いものも、悪いものも、

求めていたものも、求めていなかったものも、

網の中に入ってくるのは当然のことなのです。

そのため、様々な魚が入った網を引き上げた後、

必要としていたものや、良いものを、

網の中から取り分ける作業が行われました。

イエスさまは、天の国はこのようなものに似ていると言われました。

つまり、神の支配の中であろうとも、

私たちは、生きる限り、

良いものとも、悪いものとも出会うことになります。

自分でうまく選ぶことが出来ず、

ひたすらにかき集めていくのが、私たちの人生です。

その意味で、私たちのものになっているのは、神の言葉だけではないのです。

私たちが集め、自分のものにしてきたものは、実に色々なものがあります。

良いものも、悪いものも。

必要なものも、不必要なものも。

価値のあるものも、価値のないものも、

私たちは日々の歩みの中で手にしていくのです。

そうです、その集合体が、「私」という人間であり、

その集合体が、教会という信仰共同体なのです。

しかし、イエスさまは言います。

「網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、

座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる」と。

私たちが生きる限りに抱えている、

悪いものや、不必要なものが取り分けられる日が来るのです。

その日が来る時、私たちは、神の前に喜ばれる存在へと変えられるのです。

これが、私たちに与えられている約束ですが、

私たちはこのような将来の希望を待ち望みつつ、

今も、できる限り、神の前に喜ばれる存在として生きたいものです。

今も抱えている、自分に不必要な欠点や弱さ、罪深さ、

誰かを傷つけてしまう行動や言葉など、

出来る限りなくしたいものです。

そうであるならば、私たちは、この地上にあっても、

主キリストにあって、変えられ続けていくことを神に求めましょう。

神には、それが可能なのですから。

でも、変わることを願う一方で、

それを拒む自分自身がいることにも気づきます。

そうです、変わることは、時に恐ろしいことです。

自分の受け入れられないものを、受け入れることでもあるのですから。

時には、大切なものを手放さなければならないことだってあるでしょう。

でも、思い出してください。

イエス・キリストを信じ、私の救い主として受け入れた、

キリスト者と呼ばれる者は皆、

本来、主キリストにあって変えられたことを喜ぶ存在です。

そうであるならば、どうせなら、

たった一度だけ変えられたことを喜ぶのではなく、

生涯、主キリストにあって、変えられ続けたいと思いませんか?

神には、それが出来ます。

なぜって?

他ならぬ、神こそがそれを願っておられるからです。

ひとり子であるイエスさまを十字架にかけることをゆるされた方は、

イエスさまによって、私たちが抱える罪を完全に赦してくださいました。

そのため、この地上で私たちが生きる限り、私たちに絡みついて来る罪を、

神が私たちから完全に取り除きたいと願っていないはずありません。

神には、あなたを変える力が、変革する力があります。

教会を変える力が、改革する力があります。

それは、私たちにとっての喜びです。

私たちの力では決してなし得ないことを、

神が行われるというのですから。

ですから、私たちも神に心から喜びを持って応えていきましょう。

そうするとき、教会という信仰共同体は、

そして、そこに集う私たち一人ひとりは、

主キリストにあって、改革され続けていくのです。

神は今日も、あなた方一人ひとりに、

聖書を通して語り掛けておられます。

さぁ、あなたに語りかける神の声にいつも耳を傾けなさい。