「主イエスにつまずく者、神の憐れみを受けて立ち上がる者」

「主イエスにつまずく者、神の憐れみを受けて立ち上がる者」 

聖書 マタイによる福音書 13:53-58、アモス書 8:9-14 

2017年 11月 12日 礼拝、小岩教会 

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【主イエスにつまずいた故郷の人々】 

あるとき、イエスさまは、 

ご自分の故郷であるナザレに戻って来られたそうです。 

ガリラヤ地方の他の町で行っていたように、 

イエスさまは、故郷のナザレにおいても、 

シナゴーグと呼ばれる、ユダヤ人たちが神を礼拝する会堂へ行き、 

神の言葉を説き明かし、人々に教えを語ったそうです。 

このときにイエスさまが置かれた環境は、 

いつもと違っていました。 

故郷の会堂であったため、そこにいたのは、 

恐らく一緒にいたであろう弟子たちを除けば、 

幼い頃からイエスさまを知っている人たちばかりです。 

彼らは、子どもの頃のイエスさまをよく知っていました。 

他の子どもたちと何の変わりもなく、 

無邪気に遊んでいた姿を見ていました。 

会堂で聖書を学んでいる姿もよく見かけましたし、 

毎週、安息日が来るごとに、 

一緒に神を礼拝したのも覚えています。 

父親のヨセフが大工であったのも知っていましたし、 

母親のマリアも、イエスさまのきょうだいたちも、 

ナザレの人々にとっては顔なじみでした。 

そのため、イエスさまの故郷、ナザレの人々にとって、 

イエスさまは「普通の人」と受け止められていたのです。 

ですから、会堂で教え始めたイエスさまの言葉を聞いて、 

人々は驚きました。 

「え?アイツはあのイエスだろ? 

聖書について、高い専門性のある教育を受けたわけでもないのに、 

大工の息子であるアイツが、 

一体、何でこのような教えを語れるんだ? 

このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう?」などと、 

人々は口々に語り合っていました。

ナザレの人々は自分たちが良く知っている、 

大工の息子であるイエスさまが語る教えの言葉を 

どうしても受け入れられなかったのです。 

そうです、イエスさまの家族や生い立ち、少年時代について 

どれほど知っていたとしても、 

過去にたくさんの時間を共有していたとしても、 

イエスさまを受け入れるのには何の役にも立たなかったのです。 

むしろ、イエスさまの言葉を聞くことの妨げとなってしまったのです。 

 

【主イエスにつまずく弟子たち、そして私たち】

イエスさまに対する、人々のこのような反応について、 

「人々はイエスにつまずいた」と、マタイは記しています(マタイ13:57)。 

イエスさまを通して天の国のたとえが語られ、 

「天の国はあなた方のもとに近づいた」と教えられているのに、 

イエスさまに従って、イエスさまの弟子としての道を歩み出すことが、 

ナザレの人々には出来ませんでした。 

そう、イエスさま自身が、妨げとなってしまっていたのです。 

しかし、イエスさまが人々のつまずきとなってしまったのは、 

何もこの時だけではありませんでした。 

ファリサイ派の人々もまた、イエスさまにつまずきました(マタイ15:12)。 

彼らは心から神を信じ、 

神に従う道を真剣に祈り求めていた人たちでした。 

しかし、イエスさまと出会ったとき、 

天の国について語るイエスさまの言葉を理解しきれず、 

時には反発を覚えて、彼らはイエスさまにつまずきました。 

そして、イエスさまに従っていた弟子たちさえも、 

イエスさまにつまずいたことが、福音書の中で報告されています。 

イエスさまが逮捕されたとき、弟子たちは皆、 

イエスさまのことを見捨てて逃げてしまいました(マタイ26:56)。 

なぜ弟子たちもイエスさまに躓いてしまったのでしょか? 

それは、死刑に定められ、十字架の上で死んでいくイエスさまは、 

自分たちが望んでいた救い主メシアの姿とはかけ離れていたからです。 

そう、弟子たちを最終的につまずかせてしまった、 

十字架に磔にされたイエスさまのその姿こそ、 

すべての人にとってのつまずきだと言えるでしょう。 

使徒パウロも、このように述べています。 

 

わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。 

すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、 

異邦人には愚かなものです(Ⅰコリ1:23) 

 

イエスさまが十字架につけられた姿は、 

特に、ユダヤの人々にとって、大きなつまずきでした。 

「木にかけられた者は、神に呪われたもの」(申命21:23)という言葉が、 

旧約聖書に記されているため、 

十字架にかけられたイエスさまは、 「普通の人」どころか、

神に見捨てられ、神に呪われた者だと受け止められました。 

しかし、そのつまずきの原因となっていたものにこそ、 

私たちの救いが証しされているとパウロはいうのです。 

 

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、

わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。

(ガラテヤ3:13)

 

イエスさまが、神に呪われた者として、 

十字架の上で死んだのには理由がありました。 

それは、私たち人間こそ、神の前に呪われた存在であって、 

私たちの呪いをイエスさまがすべて背負って、 

私たちの身代わりとなって、イエスさまが十字架にかけられたのです。 

ですから、イエスさまが十字架にかけられて、 

神に呪われた者として死んだのは、 

私たちに救いを与えるためだったのです。 

ですから、十字架という、神が私たちに示されたこのつまずきは、 

神が私たちを愛し、憐れんでくださっている証しなのです。 

でも、「イエスさまが身代わりになったことなど、 

自分たちは必要としていないし、 そんなの理解できない。

身代わりになってくれなんて頼んだ覚えはない!」と思うかもしれません。 

というのも、普段、私たちは、 

罪の赦しなど信じられない世界に生きているからです。 

私たちが生きる社会においては、 

赦されるためには、何らかの代償が必要です。 

罪にはそれ相応の罰が伴うのが、 

当然の世界で私たちは生きています。 

しかし、そんな私たちの常識や価値観の前に、 

イエスさまは十字架にかけられた姿で現れて宣言されます。 

「あなたの抱えるすべての罪を、 

この私が身代わりとして背負った。 

だから、もう、あなたは罪に定められることはない」と。 

イエスさまの十字架は、 

私たちにとってつまずきの原因でもありますが、 

それを遥かに越えて、神の恵みで溢れています。 

神は、私たちを憐れみ、 

一方的な恵みによって、私たちの罪を赦し、 

私たちに救いを与えてくださっているのです。 

 

【つまずく者を神は憐れんでくださった】 

ただ、イエスさまの十字架につまずきを覚えなかったとしても、 

イエスさまにつまずいてしまうことが何度もあるかもしれません。 

多くの場合、それは、イエスさまの語る言葉によって、 

私たちはつまずきを覚えます。 

イエスさまが語る言葉を聞く時、 

私たちがこれまで受け入れてきた世界とは、 

全く違う世界を受け入れなければならないことがあるからです。 

イエスさまは言いました。 

「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。 

「復讐してはいけない」。 

「地上に富を積むのではなく、富は天に積みなさい」というように。 

時に、「そんなの無理です」と叫び、 

イエスさまの言葉の前に、つまずいてしまうことは、 

誰にだってあります。 

そうであるならば、私たちのうち、誰も、 

自分の力では神に喜ばれる歩みは出来ませんし、 

自分の努力では救いを得ることも出来ません。 

それにもかかわらず、神によって救いを与えられ、 

神によって、「いや、あなたには出来る」と語られているならば、 

それはもう、神の憐れみとしか言いようがありません。 

そうです、私たちは、神の憐れみによって、 

たとえつまずいたとしても、立ち上がることが許されています。 

イエスさまの言葉の前に、 

与えられている福音の前に、 

私たちが何度つまずいたとしても、 

それでも、手を差し伸べてくださるのが私たちの神です。 

そのように考えると、きょうの物語は、

「人々が不信仰だったので、

そこではあまり奇跡をなさらなかった」(マタイ13:58)

という言葉で終わっていますが、

イエスさまは故郷のナザレの人たちのことを

完全に諦めたわけではないと思います。

故郷では奇跡を起こしませんでしたが、イエスさまは、

自分につまずく故郷のナザレの人たちも含めて、全世界のために、

すべての人々のために、そして、ここにいる私たち一人ひとりのために、

十字架にかかってくださったのですから。

このように、イエスさまによって、

神の意志は、私たちに明らかにされています。

神は決して、私たちのことを諦めません。

それこそ、神の行う奇跡のわざだと思いませんか?