「主の日は、すべての国に近づいている」

「主の日は、すべての国に近づいている」

聖書 オバデヤ書 1-15、ヨハネの黙示録 21:9-27 

2017年 11月 19日 礼拝、小岩教会 

 

【エドムへの裁きの宣告】 

オバデヤ書という、このとても小さな預言書は、 

エドムに対する神の裁きが語られています。 

「エドム」と聞いても、どのような人たちのことなのか、 

さっぱりわからない、という感想を抱く方の方が多いと思います。 

でも、このように言うと、ピンとくる方も出てくるかもしれません。 

イスラエルの祖先の一人であるヤコブの双子のお兄さん、 

エサウの子孫がエドムと呼ばれた人たちです。 

つまり、イスラエルの人々にとっては、 

遠い親戚のような民族が、このエドムと呼ばれる人たちでした。 

そんなエドムに対して、神は、預言者オバデヤを通して、 

「お前は、大いに侮られる」と裁きの言葉を語られました。 

オバデヤを通して語られたエドムへの裁きは、 

とても厳しい内容のものでした。 

神は、エドムに向かってこう言われます。 

「盗人や侵略者がやって来て、 

お前たちからたくさんのものを奪い尽くす。 

お前たちの宝は奪い尽くされる。 

同盟関係にある仲間の国に裏切られ、 

お前たちは仲間に欺かれる。 

そして、お前たちは敵の手に陥り、 

殺戮にあうことになる」と(オバデヤ 5-9参照)。 

 

【災いの日、悩みの日】 

なぜエドムがこのような裁きを受けるべきなのでしょうか。 

その理由について、ふたつのことが語られています。 

ひとつは、エドムの人々の心の高ぶりです。 

神を必要とせず、神を無視して生きる彼らは、 

「誰がわたしを地に引きずり降ろせるか」と(オバデヤ 3)、 

自らの力を誇っていました。 

確かに、エドムには、自分の力を誇るだけの根拠がありました。 

エドムの首都セラは、標高1,000mの高さにあり、 

岩で囲まれた難攻不落の町でした。 

神は、このことゆえに自分たちの力を必要以上に誇っているエドムについて、

「たとえ、お前が鷲のように高く昇り

星の間に巣を作っても

わたしは、そこからお前を引き降ろす」と語り、

どのような力も、神の前では無力であることを伝えました。

ただ、エドムが神の裁きを受ける決定的な理由となったのは、 

エドムの高慢ではなく、

エドムがイスラエルに不法を行ったことにありました。

オバデヤは11節から14節で、 

エドムがイスラエルに行ったことについて、 

エドムに警告する形で語っています。 

ここで特徴的なのは、「日」という言葉が、 

10回も使われていることにあります。 

オバデヤは、同じ日について語っています。 

それは、南王国ユダが、バビロニア帝国によって攻撃を受け、 

エルサレムの神殿や町が破壊され、 

仲間や家族、愛する人たちが、見知らぬ地へと連れて行かれた日でした。 

まさにその日は、イスラエル、ユダヤの人々にとって、 

災いの日(オバデヤ 13)でした。 

そして、この出来事を思い起こす度に、 

胸が痛くなる、悩みの日でした(オバデヤ 14)。 

この日、ユダヤの人々に、より大きな悲しみを与えたのは、 

エドムの人々の態度でした。 

はじめ、彼らはただの傍観者でした。 

南王国ユダが、バビロニア帝国によって攻撃を受け、滅ぼされていくのを、 

離れたところでただ見ているだけで(オバデヤ 11)、 

イスラエルを助けるために指一本動かそうとしませんでした。 

しかし、オバデヤを通して、 

「あの日、お前も彼らの一人のようであった」(オバデヤ 11)と、 

神が告発しているように、終いには、エドムは、 

兄弟ヤコブの子孫たちの敵のように行動をし始めたのです。 

エドムはイスラエルに暴力をふるい、財宝を奪いました。 

南王国ユダが敗北し、滅びるのを見て、 

彼らは喜び、大きな口を開いて、イスラエルを蔑みました。 

その上、自分たちに助けを求めてきたイスラエルの人々を裏切り、 

敵の手に引き渡したというのです(オバデヤ 14)。 

これが、かつて、兄弟だった者の子孫たちの姿です。 

まさに、イスラエルにとって、その日は、 

災いの日であり、悩みの日だったのです。 

 

【主の日は近づいている】 

かつてのエドムの人々の裏切りや敵対について 

思い起こす度に、悲しみがイスラエルの人々を襲いました。 

このような悲しみを経験したイスラエルの人々に、 

神はオバデヤを通して、ひとつの希望の言葉を語られました。 

「主の日は、すべての国に近づいている」(オバデヤ 15)と。 

「主の日」とは、神が決定的な裁きをもたらされる日や、 

歴史の終わりの日を指す言葉です。 

その日は、神があらゆるすべてのものの支配を終わらせ、 

神がすべてのものを裁き、そして救いを与える日です。 

この主の日が、すべての国に近づいているということを、 

オバデヤから聞いた人々は、どのような思いを抱いたのでしょうか。 

確かに、オバデヤの言葉を聞いていた人々にとって、 

捕囚されたという経験は、悲しみでした。 

その日は、悲しみの日でした。 

また、国を滅ぼされたときは、災いの日でした。 

エドムに裏切られたときは、悩みの日でした。 

しかし、主の日がすべての国に近づいているのです。 

悲しみや災い、そして悩み、彼らの抱えていたその全てを包み込み、 

神が手を伸ばして決定的な救いを与える日が、主の日です。 

そのような日が、近づいているのです。 

将来、必ず、来るのです。 

それは、大きな喜びでした。 

そして何より、主の日は、神を信じる民のみに来るのではありません。 

すべての国に、主の日は訪れます。 

そうであるならば、この世界を包み込む、 

すべての悩み、すべての災い、すべての悲しみに、 

神が終止符を打たれるのがその日なのです。 

そして、かつて裏切られたエドムと、

また手を取り合って歩むことの出来る日。

裏切られたが、また再び兄弟と呼び合える日が、主の日なのです。

だから、オバデヤの言葉を聞いたイスラエルの人々は、 

目の前に広がるエルサレムの廃墟を見つめながらも、 

将来に希望を抱くことが出来たのです。 

 

【主にあって、将来に望みを置いて生きる】 

しかし、「主の日」は、聖書の時代の人々だけの希望ではありません。 

主の日は、神を信じる、

すべての信仰者にとっても希望であるに違いありません。 

イスラエルの人々と全く同じというわけではありませんが、 

私たちの日常にも、悩みは降りかかるからです。 

災いといえるような、辛い出来事も経験します。 

病気を患うことによって、苦しむ日々もあります。 

仲間や愛する人と理解し合えない、悲しい経験をする日もあります。 

今抱えている課題に解決策が見いだせず、嘆く日だってあります。 

自分の弱さや罪深さに悲しむ日もあれば、 

誰かの言葉に傷つき、落ち込む日もあります。 

このように、私たちがこの地上で経験する様々な時に勝る日が、 

将来やって来ると、神は約束してくださっているのです。 

神は、私たちに救いの手を伸ばしたいと願っています。 

しかし、現実は、罪や悪の影響によって、 

平和や正義、喜びや憐れみの業といった、 

神の救いがこの世界に完全に実現出来ずにいます。 

もちろん、神は、ご自分の目に悪と映るすべての者を 

根絶やしにするという選択を持っていました。 

しかし、神はそのようなことを選ばずに、 

ご自分の独り子であるイエス・キリストを十字架にかけて、

私たちに罪の赦しを与えてくださいました。 

私たちを苦しめる、人間の罪や悪そのものを 

この地上から取り去るために、神は行動をされたのです。 

私たちが希望の日として待ち望んでいる主の日とは、 

神の救いの業が完成する日です。 

ですから、私たちはいつでも、

将来の希望を見据えて生きるように招かれているのです。

主の日がやって来るとき、私たちには天の御国が与えられます。

だから、私たちはいつも、天の御国を見つめて、

この地上での旅路を歩んで行くのです。

喜びや楽しみを覚える日ばかりではないのは当たり前です。

苦しむ日、悩む日、嘆く日、傷つく日など、

さまざまな時を経験したとしても、

私たちに主の日を希望の日として与え、

私たちを天の御国へと招いてくださる、神に信頼しつつ、

この旅路を歩んで行くことが出来ますように。

どうかあなた方の歩むその一歩一歩を神が守り、

あなた方の行く道を神がいつも導いてくださいますように。