「口が閉ざされたところに、救いが来た」

「口が閉ざされたところに、救いが来た」

聖書 ルカによる福音書 1:5-25、ゼカリヤ書 2:14-17

2017年 12月 3日 礼拝、小岩教会 

 

その日は、祭司であるザカリアにとって、とても喜ばしい日でした。 

年におよそ2回まわってくる、神殿の当番をするこの週、 

彼はアビヤ組の祭司たちで仕事の分担をするためにくじを引いたところ、 

神殿の聖所に入り、祭壇の前に立って、香をたく役目が当たりました。 

香をたいたときに上がる煙は、ユダヤの人々の祈りを象徴していました。 

香をたくことで象徴される人々の祈りを代表して、 

ユダヤの人々のために祈る役割こそ、

この時、ザカリアに与えられた役目です。 

どうやら、祭壇の前で香をたくというこの役目は、通常、

一生の間に1度か2度しか経験できなかったようです。

ですから、この日はザカリアにとって待ち望んでいた日でした。

ついにこの日が来たのだと、彼は心から喜んで、

白い祭司の衣をまとって、神殿の聖所へと入って行ったのです。

しかしこの日、ザカリアの身に大きな事件が起きました。 

何と、神がガブリエルという名の天使を遣わし、 

ザカリアの前に現れたのです。

当然、ザカリアは驚き、不安と恐れを抱きます。

そんな彼に向かって、天使ガブリエルはこのように語り始めました。

 

「恐れることはない。 

ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。」(ルカ1:15)

 

これはとても嬉しい知らせです。

自分の願いが聞かれたというのですから。

でも、一体、どのような願いが神に聞かれたのでしょうか?

ザカリアが祈っていた、

ユダヤの民のための祈りが聞かれたのでしょうか?

驚くべきことに、それはザカリアの個人的な祈りを

神が聞いたという意味で語られました。

彼の妻であるエリサベトが、男の子を生むという約束が、

ガブリエルを通して語られたのです。

でも、彼にとって、それはあり得ないことでした。

自分も、エリサベトも、もう年老いてしまったのですから。

そして何よりも、子どもが与えられなかったこの夫婦にとって、

それは、とうの昔に諦めたことでした。

本来、喜ぶべき知らせであるし、

高齢であり、不妊の女性がみごもることは、

旧約聖書においても、アブラハムの妻サラや、

預言者サムエルの母ハンナなどを通して、

神が驚きのと喜びを伴って、行われる奇跡の業として、

よく知られていた出来事でした。

祭司であるザカリアがそのようなことを知らないわけありません。

しかし、いざ自分にこの約束が語られたとき、

彼は信じることができませんでした。

ザカリアは、「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、 

非のうちどころがなかった」と紹介されていましたが、

それにも関わらず、この時語られた神の約束を、

心から信じることができなかったのです。

そうです、今抱えている現実が彼にとってすべてだったからです。

過去に諦めたことが、今更になって実現するなんて、

すぐには信じることが出来ませんでした。

だから、ザカリアはこのように答えることしか出来ませんでした。

 

「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。

わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」(ルカ1:18)

 

このとき、神の約束を信じることの出来なかったザカリアは、

口を閉ざされ、言葉を奪われました。

それは、彼とエリサベトのもとに子どもが生まれるまで続きました。

つまり、およそ10ヶ月もの間、彼は沈黙したのです。

まさに、喜びの日が一転して、試練のときとなってしまいました。

この出来事は、神の言葉を信じず、受け入れなかった、

ザカリアに対する、神の罰のように読めるかもしれません。

しかし、果たしてそうなのでしょうか。

ルカは、香をたく仕事を終えて、

神殿の聖所から出てきたザカリアを見たとき、

「人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った」(ルカ1:22)

と記しています。

ということは、人々はこの出来事を神の罰と受け止めるよりは、

神がこの人を通して、

これから大いなることをなそうとしている証しとして、

受け止めたことがわかります。

ですから、神の言葉を聞いた結果、

言葉を奪われたザカリアのこの姿こそが、

この当時の人々にとって、神からのメッセージとなったのです。

天使ガブリエルは、この夫婦のもとに産まれてくる、

後にバプテスマのヨハネと呼ばれることになる子どもについて、

このような預言の言葉を語りました。

 

彼は主の御前に偉大な人になり、

ぶどう酒や強い酒を飲まず、

既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、

イスラエルの多くの子らを

その神である主のもとに立ち帰らせる。

彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、

父の心を子に向けさせ、

逆らう者に正しい人の分別を持たせて、

準備のできた民を主のために用意する。(ルカ1:15-17) 

 

このときにガブリエルは、

バプテスマのヨハネがどのような働きをするかについて語りました。

彼は、神に背を向けて歩んでいる、イスラエルの人々を

神のもとに立ち返らせる役割を担うというのです。

その役目のためにヨハネが行ったのは、罪の悔い改めを求める説教を語ることと、

罪の悔い改めの洗礼を人々に授けることでした。

しかし、ヨハネを通して、神の救いが来たわけではありませんでした。

ヨハネは、救い主であるイエスさまの道備えをする預言者でした。

つまり、イエスさまを通して神が行われる救いの業に、

人々を備えさせるための働きをヨハネは担ったのでした。

ですから、ヨハネの誕生の告知は、

これから神がなそうとする救いの働きを知らせる、

喜びの出来事の序曲のようなものだったのです。

それは、神がザカリアの口を閉じ、

彼に沈黙を与えたことから始まりました。

不思議なことに、沈黙を通して、神が働きかけてくださったのです。 

しかし、思い返してみれば、子どもの誕生に関して言えば、 

ザカリアもエリサベトも、既に沈黙していました。

将来の希望など持つことができず、完全に諦めていました。

若い頃、どれほど二人で心を合わせて祈ったことでしょうか。

祈りが神に届かない現実を突きつけられ、

どれほど涙を流し、悲しんだことでしょうか。

しかし今、彼らを神が憐れみ、彼らに働きかけた。 

彼らが手放し、諦めていたところに、神は救いの手を伸ばし、

ザカリアとエリサベトだけでなく、

すべての人に喜びをもたらそうとされたのです。

ザカリアとエリサベトにとって、

あの時、悲しみのうちに祈ったあの祈りが、

まさかこの時、神に聞かれるとは思いもよらなかったでしょう。

そして、まさかイスラエルに救いを及ぼす、

いや、イエス・キリストを通してすべての人に救いを及ぼす、

神の計画のうちに、自分たちが入れられ、

神の計画の一部を担うなど、思ってもいなかったでしょう。

しかし、神は彼らに約束を語られました。

彼らが諦め、失望して、口を閉ざして沈黙していたところに、

神は働き掛けてくださったのです。

ザカリアは、神の働きを沈黙の中で見聞きしました。

自分が神の働きを語るのでも、

神の奇跡を叫び求めるのでもなく、

ただただ、沈黙のうちに、神の業を見つめました。

若い頃に、子どもが産まれなかったことも、

神の計画が自分たちを通して実現するためだと、その沈黙の中で知りました。

この日、くじに当たり、祭壇の前で香をたく役目を与えられたのも、

神が働き掛けてくださったからだと知りました。

実に、日常の中に、神の計画と、

それを実行しようと働く神の業が満ち溢れていたことに、

彼は沈黙の中で徐々に徐々に気づいたことでしょう。

口を閉ざされたから、神の救いの業を、自分の生涯に、

より強く意識して見出すことが出来たのです。

ザカリアが経験したこととは、また違う形で、

私たちもまた、日頃、口を閉ざしてしまうことがあります。

神の働きの中で、沈黙が起こることもあれば、 

私たちが諦めることによって、沈黙が起こることもあります。 

また、私たちが絶望するところで、沈黙は起こりますし、 

私たちが悲しむところで、私たちの口が閉ざされることもあります。

しかし、私たちが日頃経験する沈黙もまた、

神が許されたものでもあることを覚えたいと思うのです。

直接的には、苦しみや悲しみが原因となって、

私たちが沈黙したとしても、

神はその沈黙の中からでも、新しいことを行うことが出来る方です。

ですから、沈黙の中でこそ、神の御業に目を向けましょう。

預言者ゼカリヤは言います。

 

すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。

主はその聖なる住まいから立ち上がられる。(ゼカリヤ2:17)

 

私たちが口を閉ざさざるを得ないとき、

私たちが神の前に出て行き、沈黙するならば、

神はきっと私たちのために、立ち上がってくださることでしょう。

どうか、口を閉ざしたそのときに、

神の救いの業を見つめて喜ぶことができますように。