「暗闇が深まる世界に宿る、確かな光」

「暗闇が深まる世界に宿る、確かな光」

聖書 創世記 1:1-5、ヨハネによる福音書 1:1-5

2017年 12月 31日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

1年の終わりの日、私たちはこの1年の出来事を

その年の「はじめ」から振り返ります。

今年一年、楽しいことも、嬉しいこともありました。

苦しい思いも、悲しい思いも味わいました。

大切な人とのお別れもあれば、

とても嬉しい出会いも経験しました。

テレビをつければ、この1年の間、

2017年のはじめから、きょうに至るまで、

この国や世界でどのようなことが起こったのかを教えてくれます。

喜ばしいニュースも、胸を痛めるような出来事もありました。

励ましを受ける話題もあれば、

これからの未来に不安を抱くような話も耳にしました。

このように、私たちがその年の始まりに目を向けて、

そこから一年を振り返るのは、

新たな始まりを期待しているからなのかもしれません。

次の年こそは、喜ばしい1年にしたい。

この1年の反省を覚えながら、新しい年に期待をするのです。

きょう、この日、

私たちも「はじめ」に目を向けるように招かれています。

それはこの1年の始まりでも、

私たち一人ひとりの生涯の始まりの日でもありません。

ヨハネは、その福音書の始まりでこう言います。

「初めに言があった」と。

 

これは、旧約聖書の「創世記」に記されている、

天と地の創造物語を意識して語られた言葉です。

ですので、ヨハネが目を向けるように促す初めとは、

天と地が神によって造られたその初めのときです。

福音書がこのような始まり方をするのは、

何だかとても不思議な気がします。

というのは、イエス・キリストを紹介し、

人々を信仰へと導くために書かれたのが、

福音書という書物だからです。

イエスさまを紹介することが目的なのであれば、

振り返るべき「はじまり」の時とは、

イエスさまが生まれた、あのクリスマスの日のはずです。

しかし、ヨハネは、それよりも遥か昔に起こった、

「はじまり」を思い起こす必要を覚えたのです。

ヨハネが思い起こしている、

神が天と地を造られた、この世界の始まりの日。

その日、神は「光あれ」と、

この世界に向かって語りかけました。

すると、この世界に光が生じたのです。

しかし、どうやらこの光は、

太陽を通して得られる光を指しているわけではないようです。

というのも、天地創造の物語において、

太陽、月、星といった天体は、4日目に造られています。

ということは、太陽や月から受ける光とは違う光を、

神はこの世界を造られた初めのときに、

「光」として与えてくださったことがわかります。

造られたすべてのものを祝福し、照らし出す光によって、

その始まりの日に、神はこの世界を照らし出してくださったのです。

しかし、どうやらヨハネは、彼が生きたその当時の時代、

光よりも暗闇が強い力を持っているように感じていたようです。

いや、ヨハネが記したこの福音書を読んだ、

ヨハネと共にその時代を生きた人々も、

彼と同じように考えていたことでしょう。

神がこの世界に与えたあの祝福の光が、

まるで力を失ってしまったかのように感じていました。

暗闇で覆われたため、光が失われてしまい、

暗闇が日に日に深まっていくように感じたのです。

ヨハネ福音書が書かれたのは、

おそらく80年から90年代頃だと考えられています。

ヨハネによる福音書の主要な読者であったユダヤ人たちにとって、

この時期は、まさに激動の時代でした。

ヨハネによる福音書が記される十数年前、

ローマの軍隊によって、

彼らにとって世界の中心だった、

エルサレムの神殿は破壊されました。

この出来事があったため、

ユダヤ人たちは深く悲しみ、失望していました。

また、同胞のユダヤ人たちからは、

キリストを信じているという理由で会堂を追い出されました。

追放された先で出会った異邦人たちからも、いじめにあいました。

その意味で、当時のキリストを信じるユダヤ人たちにとって、

この世界は、先の見通しもつかない暗闇だったのです。

ヨハネは、このような人々に、

福音の喜びを伝えたかったのです。

自分が置かれている境遇に失望し、

神の祝福の光を信じられず、

闇に覆われて生きていると感じている仲間たちに、

彼はこの福音書を通して伝えようとしているのです。

「今、あなた方が覆われている、その闇の中に、

たしかに光があることを知ってほしい。

ほら、イエス・キリストが私たちのために来てくださった。

この方こそ、私たちの命であり、闇を照らす光なのだ」と。

ヨハネはそのような思いを込めて、この福音書のはじめに、

「初めに言があった。言は神と共にあった。

言は神であった」と書いているのです。

この世界が造られたその初めから、神と共にあり、

そして神である、その言とは、

イエス・キリストのことです。

つまり、神が「光あれ」と語られたとき、

「神の言」である主イエスは、神と共に働かれたのです。

そうであるならば、救い主イエス・キリストが

私たちのもとに来てくださったということは、

単に、心の平安や魂の救いが与えられる、

というだけの話ではないのです。

キリストを通して、神の祝福の光が

私たちに与えられているということなのです。

「だから、あなた方は、

完全な暗闇の中で生きているわけではない。

その暗闇の中で、確かに輝く神の光を

あなた方はキリストによって与えられているんだ」と、

ヨハネは人々に語りかけているのです。

ヨハネは、「はじめに」と語ることによって、

神が天と地を造られたそのはじめを思い起こさせることを通して、

イエスさまを通して与えられる光は、

この世界をはじめに照らし出した、

神の光であることを伝えました。

そう、神がこの世界を造られたとき、

「光あれ」と語ることによって、

混沌に溢れていたこの世界に、

創造の秩序をもたらしてくださいました。

まさに、あの光が、キリストによって与えられたのです。

そして、神が天と地を造られたあの日、

神が語られた言葉によって、命が生じました。

それと同じように、キリストは私たちにとって、

命を得させる光なのです。

キリストは、私たちに罪の赦しを与えるために、

命を投げ出し、十字架にかかられました。

それによって、私たちは、神との間に生き生きとした、

命にあふれる交わりが与えられました。

また、神は、キリストを死者の中から

よみがえらせることを通して、

私たちに復活の命を与える希望を与えてくださいました。

そして、天に昇ったキリストを思い起こすことを通して、

神は、私たちに、天の国で神と共に生きるという、

永遠の命の希望さえも与えてくださいました。

まさに、キリストこそ、神の愛を告げる光なのです。

だから、ヨハネは強い確信を抱いて、

人々に、私たちの光であるキリストを紹介したのです。

「確かに、今は暗闇が広がっているように思えるかもしれない。

しかし、この暗闇の中に、確かな光が与えられた。

それがイエス・キリストなのだ。

この方を通して、私たちは命を得ることが出来るのです」と、

ヨハネは私たちに語りかけているのです。

さて、1年の終わりのきょう、この日、

この1年を振り返るとき、

ますますこの世界に闇が深まっているように感じます。

人種差別やいじめ、性暴力の現実など、

なかなか表面化されない問題が表に出てくる度に、

人間の罪や悪に対する諦めにも似た感情を覚えます。

そのように感じるのはきっと、私だけではないと思います。

しかし、だからといって、

私たちはこの暗闇だけを見つめて、失望はしません。

私たちは、ヨハネが示す「はじめに」を

共に見つめることが許されているからです。

そう、はじめに、神が私たちのことを諦めず、

何よりも愛してくださったから、

神は、この世界に、まずはじめに、光を宿してくださいました。

そして、神が諦めず、愛し続けてくださったから、

人間の罪にまみれ、悪がはびこるこの世界に、

神は、イエスさまを通して、光を与えてくださいました。

神は、この光を私たちに受け取ってほしいといつも願っています。

そして、この光を通して、

世界を光で包み込もうとしてくださっているのです。

ですから、私たちは決して失望しません。

人間の罪の深まりを、この世界の闇の深まりを

どれほど感じたとしても、

それでも、神の独り子であるイエス・キリストが

私たちのもとに送られたという事実を私たちは忘れません。

イエスさまが来てくださったから、

私たちのもとには確かな光が輝いているのです。

きょう、使徒ヨハネは、この福音書を通して、

私たちを招いているのです。

「さぁ、光であるイエスさまのもとに来なさい。

そして、この方と一緒に歩んで行こうよ」と。

どうかこの1年がそうであったように、

明日から始まる新しい年も、

私たちの光であるイエスさまと共に歩むことが出来ますように。

主イエス・キリストの恵みと平和が、あなた方にありますように。