「拒絶されても、あなたを愛する神」

「拒絶されても、あなたを愛する神」

聖書 マタイによる福音書 14:1-12、エレミヤ書 36:21-29

2018年 1月 7日 礼拝、小岩教会

 

バプテスマのヨハネの死は、

とてもショッキングな出来事のひとつです。

ヘロディアの娘が、ヘロデの誕生日のお祝いの席で踊りを披露した後、

ヘロデから「願うものは何でもやろう」と言われた彼女は、

母親にそそのかされ、ヨハネの首を求めます。

そして、彼女たちの願いどおりに、ヨハネは首を切られ、

その首が盆に載せて運ばれてきたというのです。

母親の命令とはいえ、恐らくまだ10代であろう少女が、

美しい踊りを終えた後に、首を求める。

もともとの言葉では、二人称命令形で「あなたは私に与えよ」と、

とてもきつい表現で記されています。

そのため、この親子は、冷たく、いやらしい人間として、

描かれていることがよくわかります。

そして、首を受け取った少女の反応も描かれることなく、

母親のもとにヨハネの首は届き、

この狂気じみた報告は幕を閉じます。

私たちはこの出来事を、

一体どのようにして受け取れば良いのでしょうか。

 

死が目前に迫ったヨハネがヘロデに向かって語った言葉や、

神への祈りが記されているわけでもなく、

ヨハネの死が大きな出来事を引き起こしたことを

マタイは伝えているわけでもありません。

ここで伝えられているのは、

バプテスマのヨハネと呼ばれる一人の男が、

無残に首を切られて殺されてしまったということでした。

この出来事は、明らかにヨハネに対する「拒絶」でした。

ヨハネは、悔い改めと裁きの言葉を人々に語る預言者でした。

ヘロデもまた、他の群衆たちと同じように、

ヨハネを通して、悔い改めを迫られていました。

このとき、ヘロデは前の妻と別れた後で、

ヘロディアは彼にとって再婚相手でした。

しかし、ヘロディアは、ヘロデの兄弟の妻であったため、

「ユダヤの律法によれば、

ヘロディアとあなたの関係は、律法違反である」と、

ヘロデはヨハネによって告発され続けていたのです。

ヘロデ・アンティパスは、ヨハネの言葉を受け入れられず、

彼を捕らえて、牢屋へと入れました。

そう、ヘロデは神によって立てられた預言者を拒絶したのです。

ヘロデの妻のヘロディアも当然、同じように、

ヨハネの言葉に反感を覚えていました。

ヘロディアにとって、娘の踊りを見た夫が、

「願うものは何でもやろう」と言い出したのは、

ヨハネを殺す絶好の機会と思えたのでしょう。

娘を利用して、彼女はヘロデの説得に成功し、

ヨハネを殺し、彼の言葉を拒絶したのです。

このように、預言者と呼ばれる一人の男が、

無惨に、何の抵抗も出来ずに殺されていく姿を見るとき、

私は旧約聖書の時代の預言者たちを思い出します。

そう、彼らもまた、何度も何度も、人々から拒絶されてきました。

旧約聖書の時代、多くの預言者たちは、

王たちや、その政治のあり方を批判してきました。

「このままで良いと思うのか?」と、

彼らは問いかけ続けてきました。

「このままで良いわけないだろう?

あなた方の行いは、

神が求めていることとは違うことを知りなさい。

そして、悔い改めて、神と共に歩みなさい」と、

彼らは人々に訴え続けました。

でも、人々に厳しい言葉を語り続けたからこそ、

預言者たちは拒絶されてきました。

預言者エレミヤも、拒絶を経験した預言者の一人でした。

神に命じられ、エレミヤは、

その時代の人々に語るべき神の言葉を語り、

エレミヤの書記のバルクが、その言葉を巻物に書き記しました。

このとき、エレミヤは神殿に入ることを禁じられていたため、

バルクが神殿でこの巻物を朗読し、最終的にこの巻物は、

当時のユダヤの王の手に渡ることになりました。

しかし、王の前で読まれたこの巻物は、

王の手によってナイフで切り裂かれ、

暖炉の火ですべて燃やされてしまいました。

耳障りな言葉、受け入れられない言葉は聞かない。

燃やして捨て去る。

まるで、預言者たちに対する多くの人々の反応を

象徴するような出来事でした。

このように、いつの時代も神によって立てられた預言者たちは、

拒絶されてきました。

ヘロディアがヨハネを殺すことを望んだように、

あからさまな拒絶もあれば、

ヘロデのように悩んだあげく拒絶する場合もありました。

誰かに利用された結果、拒絶してしまう場合もあります。

そうやって、人々は預言者たちをはじめ、

神によって立てられた人々を拒絶してきました。

では、預言者たちを拒否するということは、

どのようなことを意味したのでしょうか。

神は、預言者たちに語るべき言葉を与え、彼らを遣わしました。

そんな彼らや彼らの語る言葉を拒絶するということは、

神を拒絶することでもありました。

最終的に、ユダヤの人々がたどり着いたのは、

神の独り子であり、救い主であるイエスさまを拒絶することでした。

自分が遣わした預言者たちを拒絶され、

しまいには、自分のひとり子であるイエス・キリストまでも拒絶され、

十字架にかけられて殺されてしまう。

このように、預言者や救い主を拒絶する人々の姿を見たとき、

神は、どうしたでしょうか。

正直、怒り狂っても良かったと思います。

十字架からイエスさまをおろして、

奇跡を起こし、恐怖と共にご自分を現し、

人々を強引に信じさせることも、

神ならば、しようと思えば出来ました。

そんなこと、簡単なことでした。

しかし、神はそのような行動を取ることはありませんでした。

神は、イエスさまが十字架の上で苦しむ中、

ただ沈黙していました。

イエスさまが十字架にかかり、

死ぬことに大きな意味があったから、

それがすべての人に罪の赦しを与えるために

神が計画したことだったから、

神は、ご自分の独り子の死を前にしたとき、沈黙したのです。

独り子であるイエスさまを死へと引き渡すこと。

それこそが、私たち人間に対する、

神の愛の現れだったのです。

「どれだけあなたが私を拒絶したとしても、

どれだけ悪を積み重ねても、

どれだけ救いようがないように思えても、

私は、あなたを諦めずに愛し続ける」と、

神は十字架の出来事を通して私たちに伝えてくださったのです。

あの日、何のためらいもなく、

救い主を十字架にかけて殺してしまった群衆のように、

きっと、私たちもまた、何度も神を拒絶するのでしょう。

エレミヤの言葉が記された巻物を切り裂き、

燃やしたあの王のように、

神の言葉を何度も拒絶してしまうのでしょう。

「あなたは、そのままで良いんだ」

という声に励まされることもあるでしょう。

神によって与えられている将来の希望を示され、

心躍ることだってあります。

しかし、同時に、

「このままではいけないだろ?」という声も聞こえてくるのです。

正直、そのような言葉には耳を塞ぎたくなります。

私たちは自分の好む生き方を簡単に変えたくはないからです。

でも、私たち自身が願う姿よりも、

より良い姿へと私たちを造り変えるために、

神は、私たちに厳しい言葉を語ることがあるのです。

だから、エレミヤやヨハネをはじめ、

預言者たちは悔い改めを人々に求め続けたのです。

その意味で、神に従って生きるということは、

神の言葉をより好みすることではありません。

神が、私たちを愛しているというとき、

それは、私たちのありのままの姿を受け入れて、

私たちのことを愛してくださっている

ということだけを意味するのではありません。

ありのままの私たちを愛しながらも、

より美しく、神の前でより喜ばしく歩むことが出来るようにと願って、

神は私たちに「このままではいけないだろ?」と、

語り掛けてくださるのです。

神は、私たちのことを決して諦めていません。

私たちを愛し続けてくださるから、

時に私たちを悟し、戒め、厳しい言葉をかけられるのです。

神の言葉を聞くことは、時には辛いものです。

ヘロデやヘロディアのように、拒絶したくなります。

しかし、その拒絶さえも乗り越えて、

最終的に、神は私たちに喜びを与えようとしておられるのです。

どうか、そのことに目を向け、

私たちにいつも働いている神の業を思い起こしつつ、

 

私たちは神の声に耳を傾け続けようではありませんか。