「信仰者の船旅」

「信仰者の船旅」

聖書 マタイによる福音書 14:22-36、創世記 7:10-16

2018年 1月 21日 礼拝、小岩教会

 

それは、夜明け前、午前3時から6時頃の時間帯のことでした。

ガリラヤ湖に浮かぶ舟に乗った弟子たちは、思い悩んでいました。

イエスさまに命じられて、向こう岸を目指して舟を漕ぎ出したものの、

逆風のため、舟は思うように前へ進みません。

どれだけ進んだのかも、あとどれだけ舟を漕げば良いのかも、

夜の暗闇のせいで全くわかりません。

弟子たちは疲れ果てていました。

その上、彼らが乗る舟に向かってくる風は、波を引き起こし、

何度も何度も、水が舟に覆いかぶってきました。

ガリラヤ湖のような湖を渡るのに、屋根のついた立派な舟は用いません。

そのため、身体は水で濡れ、体温を奪われ、寒さに震えながら、

弟子たちは残る力を振り絞って、舟を漕ぎ続けていました。

この当時の舟に、エンジンのような動力などありませんから、

夜空の星が示す正しい方角だけを頼りにして、

間違った方向へ行かないように、

彼らはお互いに協力し合って、必死に舟を漕ぎ続けていました。

そんな時、ふと弟子たちの頭をよぎることがありました。

「イエスさまは、なぜ一緒にいてくれないのだろうか。

なぜこんなに風が吹き荒れている中、

湖を横切って、向こう岸へ行くようにと言われたのだろうか」と。

 

イエスさまが弟子たちにそのように命じたのには、

もちろん理由がありました。

このとき、イエスさまは疲れを覚えていました。

バプテスマのヨハネが殺されたという知らせを聞いたとき、

ヨハネの死を嘆き悲しむために、

弟子たちと一緒に人里離れたところへ行ったのに、

イエスさまは大群衆に囲まれてしまったからです。

イエスさまは、いつものように癒やしの業を行い、

語るべき言葉を語り、大勢の人たちと夕食も一緒にとられました。

さぁ、あとはこの大勢の人々を解散させれば、

神の前で静まることが出来ます。

でも、そばにいる弟子たちの顔を見まわすとどうでしょう。

疲れを覚えていたのはイエスさまだけではありませんでした。

弟子たちも同じように、疲れを覚えていたのです。

たとえこの群衆を解散させたとしても、まだまだ大勢の人々が

イエスさまのもとに押し寄せてくる可能性だってあります。

それではイエスさまと一緒にいるかぎり、

弟子たちも休むことなど出来ません。

ですから、イエスさまは弟子たちのことを気遣って、

一度、自分と離れた場所へ向かうようにと、彼らに命じられたのです。

そのようなイエスさまの側の事情やイエスさまの配慮など、

弟子たちは知る由もありません。

だから、彼らは真っ暗闇のガリラヤ湖で、行き先も見えず、

疲れ果て、思い悩みながら、舟を漕ぎ続けていたのです。

このように、逆風に襲われ、困難の中で思い悩みながら、

舟を漕ぎ続ける弟子たちの姿に、

代々の信仰者たちは、自分たちの姿を重ねて見てきました。

いつまで続けるべきかわからない、

何のために行っているのかわからない仕事をしているとき、

まさに自分も、真夜中のガリラヤ湖で舟を漕いでいた、

あの弟子たちの一人のように思えたのです。

キリストを信じるために苦しみを受けるとき、

差別や暴力に耐えなければならないとき、

波に揺さ振られ、不安定な舟の上に乗る弟子たちは、

まさにこの私の姿だと受け止められてきました。

そして、キリストに従って生きようと願えば願うほど、

この世界の価値観とぶつかり合い、

何度も何度も葛藤を覚え、傷つき、悩みを抱えるとき、

強い逆風に吹かれて進みたい方向へ進めない弟子たちの姿を、

今の自分と重ね合わせて見ました。

そのようなものとして、信仰者たちは、

弟子たちのこの小さな船旅を見つめたことでしょう。

そして同時に、この舟に乗る弟子たちの姿は、

私たち自身の姿でもあると思うのです。

水に濡れ、寒い思いをし、苦しみや悩みを抱えながら

舟を漕いでいた弟子たちと文字通り同じわけではありませんが、

私たちも日々の働きに疲れを覚えることがあります。

出口のないように思える苦しみを覚え、

暗闇の中、風に翻弄され倒れそうになりながら、

歩んでいるような感覚を覚えることだってあります。

だからこそ、イエスさまが湖の上を歩き、

歩み寄って来てくださった姿を見るとき、

私たちは大きな慰めと励ましを覚えるのです。

このとき、イエスさまは、弟子たちの前にどのように現れたでしょうか?

イエスさまは、舟の中に突然現れて、

「嵐よ、止みなさい」と叫ばれたのではありませんでした。

イエスさまは暗闇の中、強い風に吹かれながら、

波が荒れる湖の上を歩いて、弟子たちのもとに近づいて来られました。

そう、イエスさまは、自ら危険の中へと身を晒しながら、

弟子たちに歩み寄って行かれたのです。

弟子たちは、そのようなイエスさまの姿を見たとき、

恐怖を覚えて、「幽霊だ」と叫びました。

イエスさまは、そんな彼らにすぐに声をかけられます。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。

「嵐の中であっても、私があなたと共にいる。

この嵐が過ぎ去るまで、いや、過ぎ去った後も、

私があなたのその苦しみを共に担う」と、

イエスさまは彼らに優しく語り掛けられたのです。

イエスさまがそのように語りかけてくださるから、

私たちは時には、ペトロのように、

大胆な一歩を踏み出すことさえ出来るのです。

一見、不可能に思えることさえも、

いや、常識的には出来ないと思えることさえも、

イエスさまが共にいてくださることによって、可能となることもあるのです。

しかし、そのような一歩を踏み出すことが出来た時、

イエスさまを見ることを忘れ、

恐怖や困難に心を奪われ、神を信頼することが出来なくなり、

溺れそうになってしまうことだってあります。

私たちは、そうやって何度も何度も失敗を繰り返してきましたし、

これからも、あの時のペトロのように、

神を信頼できずに、過ちを繰り返してしまうのでしょう。

そして、その失敗や挫折、困難に直面する度に、

私たちは「主よ、助けてください」と必死で祈るのです。

そんなとき、イエスさまは、「お前の信仰が薄かったから、

このようなことになったのではないか?」と、

私たちを強く叱りつけるのでしょうか。

そして、私たちが神の前で、深く反省し、自分の行いに後悔したときに、

イエスさまは救いの手を伸ばされるのでしょうか。

いいえ、私たちの救い主である、イエスさまはそのような方ではありません。

イエスさまを信頼しきれず、怖くなって、溺れてしまったペトロに、

イエスさまは「すぐに手を伸ばして、彼を捕まえた」と、

マタイは書いているではありませんか。

そう、「なぜあなたは、私のことを疑ったのか?」と問い掛ける前に、

イエスさまはペトロに救いの手を伸ばしてくださったのです。

どれほど私たちの側に過ちがあったとしても、

イエスさまは、ペトロに対してそうだったように、

私たちの存在のありのままを愛し、

何の条件もなく、私たちに救いの手を伸ばしてくださっているのです。

だから、私たちはこの方に信頼し続けることが出来るのです。

そして、詩編40篇を通して、先ほど一緒に声を合わせて祈ったように、

神を心から信頼して、神に救いを求めて祈ることが出来るのです。

「あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。

わたしの神よ、速やかに来てください」(詩編 40:18)と。

弟子たちは、この経験を通して知りました。

たとえ、イエスさまがそばにいないと思える時でも、

神の子であるイエスさまは、私たちに救いの手を差し伸べるために、

すみやかに来てくださる、ということを。

そして、逆風や大波という困難の中であっても、危険を顧みず、

イエスさまは歩み寄ってくださることを、

弟子たちは知ることが出来たのです。

愛する皆さん、私たち信仰者の生涯は、

このときの弟子たちが経験した船旅のようなものです。

さまざまな困難や苦しみが、逆風や波のように何度も襲いかかり、

疲れを覚えることがあります。

不安定な足場のために、

つまずいたり、倒れたりしてしまうことだってあります。

時には行き先がはっきりと見えないことも、

暗闇の中を漕ぎ続けている感覚に陥ることもあります。

しかし、この困難に思える船旅において、

私たちは決して失望も、落胆もしません。

弟子たちが助けを呼び求めるよりも先に、

イエスさまが弟子たちのもとに危険を顧みずに、

歩み寄ってくださったように、

イエスさまは私たちのもとに来てくださるからです。

そして、苦しみや悩みに耐えられなくなり、

「主よ、助けてください」と叫ぶしか出来ないときに、

イエスさまは私たちに「すぐに」救いの手を差し伸べ、

私たちを助けてくださると、約束してくださっています。

だから、私たちは、このように信仰を告白し続けるのです。

「あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。

わたしの神よ、速やかに来てください」(詩編 40:18)と。

ところで、私たちの船旅は一体、何処へ向かっていくのでしょうか。

その時々に、辿り着く場所は、

たどり着いてみないとわからないこともあります。

しかし、最終的に私たちが目指す場所は、明らかにされています。

私たち信仰者にとって、天の御国こそが、目指すべき場所です。

そこは、神が私たちのために用意され、喜びと平安とに満ちた都です。

ですから、天の御国へと辿り着く日を心待ちにしつつ、

私たちはきょうも、そしてこれからも、

この船旅を続けて行こうではありませんか。