「それでも聖なる民とされた」

「それでも聖なる民とされた」

聖書 出エジプト記 19:3-6、マタイによる福音書 15:1-20

2018年 1月 28日 礼拝、小岩教会

 

イエスさまがさまざまな奇跡を行ったことや、

権威をもって律法を人々に語り教えたこと、

そして、イエスさまに従ってついて行く人々がたくさんいたということは、

ユダヤの人々の間で噂になっていました。

その噂を聞きつけて、エルサレムからファリサイ派の人々と

律法学者たちがやって来たと、マタイは報告しています。

エルサレムといえば、神殿が建てられている、ユダヤの国の中心地です。

そのような場所から、わざわざイエスさまのもとに、

宗教的指導者であるファリサイ派の人々や律法学者たちが来たのです。

おそらく、イエスさまが噂通りの人物かを確認しに来たのでしょう。

イエスという男はどのような教えを語り、

彼に従う人々はどのような人たちなのかを、

実際にその目で見て確認するために、

ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、

エルサレムからイエスさまのもとにやって来たのです。

実際にイエスさまと出会い、イエスさまの言葉を聞き、

イエスさまの行いを見た彼らでしたが、

イエスさまのそばにいる弟子たちを見たとき、

ひとつ気になることが心に浮かんできました。

そのため、彼らはイエスさまにこのような質問をしたのです。

 

なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。

彼らは食事の前に手を洗いません。(マタイ15:2)

 

もちろん、「汚れたままの手で食べ物を食べたら、健康に悪いよ。

だから、しっかり手を洗ってね」というような指摘を、

彼らはイエスさまにしたのではありません。

この当時、食事の前に手を洗うことは、

神に神殿でささげものをする祭司たちが、

神の前にささげられたものを食べるときに、

自分の汚れた身をきよめる目的で行っていました。

ですから、食事の前に手を洗って身を清めることは、

一般のユダヤ人の間では一般的なことではなかったようです。

しかしその一方で、信仰深い、敬虔な一部の人たちは、

毎日の食事を食べる前に手を洗っていたようです。

きっと、エルサレムから来たファリサイ派の人たちや律法学者たちも、

信仰的な行いとして、食事の前に手を洗っていたのでしょう。

そのため、彼らはイエスさまの弟子たちが食事の前に

手を洗わない光景を見たとき、疑問を抱き、イエスさまに指摘したのです。

「あなたの弟子たちも、あなたのように信仰深いことでしょう。

それなのに、なぜ彼らはこの私たちと同じように、

食事の前に手を洗って、汚れたその手を清めないのでしょうか?

神の前に信仰深く生きようとするならば、

私たちの先祖たちの言い伝えに従って、手を洗うのは、

当然のことだと思うのですが……?」という具合に。

でも、ファリサイ派の人々や律法学者たちから、

このような言葉を投げかけられたとき、

イエスさまは彼らにこのように言われました。

 

なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、

神の掟を破っているのか。(マタイ15:3)

 

「言い伝え」と訳されている言葉は、

「伝承」や「伝統」とも訳すことが出来ます。

ユダヤの人々にとって、律法をはじめ、旧約聖書を通して、

神から与えられた言葉をどのように読み、どのように理解するかは、

とても重要なことでした。

そのため、何百年もかけて律法を読み、

それを解釈してきたイスラエルの先祖たちの「言い伝え」を

彼らはとても大切に受け取ってきました。

しかし、彼らの大切にしているその「言い伝え」が、

神の言葉を意味のないものにしてしまっていると、

イエスさまはファリサイ派の人たちや律法学者たちに指摘されたのです。

もちろん、これまでの律法の読み方や、解釈の伝統のすべてを

イエスさまは否定しているわけではありません。

「あなた方は、神の言葉以上に、

言い伝えの方を大切にし過ぎしてしまっている」と、

イエスさまは彼らを批判したのです。

イエスさまは「あなたの父母を敬え」(出エジ20:12)という言葉を

例に挙げて、この問題について説明されました。

「あなたの父母を敬え」(出エジ20:12)。

とても有名な聖書の言葉です。

でも、この言葉は、「父母を敬え」と書いてあるのだから、

「さぁ、子どもたちよ、親であるこの私を敬いなさい」というように、

親が子どもたちに命じるような意味で語られた言葉ではありません。

この言葉は、幼い子どもたちに向けられている言葉ではなく、

経済的にも、精神的にも親から自立し、

大人になった人々に向けられている言葉です。

「年を経るごとに弱っていく両親を敬い、彼らに必要な助けをしなさい」

というのが、この言葉が意味していることです。

しかし、ファイリサイ派の人々や律法学者たちが大切にする、

「先祖たちの言い伝え」、つまり律法の解釈の伝統によれば、

両親を敬わなくても良いとみなされる場合がありました。

それは、自分の財産を神に捧げると誓った場合です。

「お父さん、お母さん、私の財産はすべて神に捧げると、私は神に誓いました。

律法には、神に誓ったことは、誓ったとおりに、

実行しなければならないとあります(民数30:3参照)。

だから、あなたたちを養うために、

私があなたたちに与えることのできるものは何一つありません」と言って、

年老いて、弱り果て、助けが必要な両親を助けることを、

断ることが出来ると、「先祖たちの言い伝え」は教えていたのです。

しかし、どうでしょうか?

実際のところ、「先祖たちの言い伝え」によって、

「あなたの父母を敬え」という神の言葉が

無意味なものにされてしまっているのです。

何百年もかけて積み重ねてきた、「先祖たちの言い伝え」は、

どのように神の言葉である律法を読めば良いのかについて教え、

人々を助ける役割があったため、

ファリサイ派の人々や律法学者たちによって大切にされてきました。

しかし、彼らは時に、神の言葉以上に、

「言い伝え」を重要視し過ぎてしまったのです。

このように、言い伝えや伝統を守るがために、

神の言葉を無意味なものにしてしまうことは、

律法学者たちやファリサイ派の人々だけの問題ではありません。

私たちの間でも、それはいつでも起こりうることだと思います。

「これまでこうやってきたから」という理由で、

私たちは自分たちの行いを批判することなく続けてしまうことがあります。

「このように親や学校の先生、牧師から教えられたから、

こうあるべきなんだ」といって、いつのまにか神の言葉よりも、

教えられた教えや「言い伝え」を人生の土台としてしまうのが、

私たち人間の弱さというものでしょう。

私たちが神から与えられている信仰は、血の通った温かなものです。

「これが伝統だから、これで良いんだ」と、

ロボットのように、コンピューターのプログラムのように、

与えられた命令だけを守るような、冷え切ったものを信仰とは呼びません。

神から語りかけられた言葉と真剣に向き合い、

時に喜び、時に涙し、また時には疑問や謎に悩みながら、

神に応答していくことこそが信仰なのではないでしょうか。

ファリサイ派の人々が大切にした「言い伝え」は、

時に、そのような信仰のあり方さえも否定してしまいかねなかったのです。

このように、神の言葉を無意味なものにしてしまう危険があった、

「言い伝え」の問題を取り扱った上で、

イエスさまは、最初に尋ねられた質問に答えはじめました。

「手を洗って、手を清めなければ、

けがれた手で食べ物を食べることになり、

自分をけがすことになってしまう」というのが、

ファリサイ派や律法学者たちの主張でしょう。

しかし、イエスさまは言いました。

「口に入るものは人を汚さず、

口から出て来るものが人を汚すのである」と(マタイ15:11)。

一体どういうことなのでしょうか。

イエスさまは、このように解説されました。

 

口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。(マタイ15:18-20)

 

旧約聖書において、神はイスラエルに向かって、何度も何度も、

「あなたたちは聖なる者となりなさい。

あなたたちの神、主であるわたしは

聖なる者である」と言われました(レビ19:2など)。

「清くあれ」と神はいつも願っておられるのです。

神が求めておられるように、清くあるため、

ユダヤの人々は努力をし続けてきました。

その努力のひとつとして、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、

食事の際に手を洗いました。

それは、彼らにとって、確かに信仰的な行為だったのです。

しかし、イエスさまは私たちの信仰の行いに、

さまざまな多様性があることを伝えているのです。

イエスさまは言います。

「汚れはそもそも、外から人間に入り込むのではなく、

人間の心から汚れは来る」と。

そう、だから、手を洗わないということもまた、信仰的な選択だったのです。

その意味で、イエスさまは、

言い伝えそのものが悪いといったわけではありません。

また、ファリサイ派の人々や律法学者たちの要求そのものを

否定したわけでもないのでしょう。

寧ろ、彼らが「言い伝え」に固執し、神の言葉を忘れ、

言い伝えのみに基づいて、弟子たちを批判している姿を見て、

イエスさまは悲しまれたのだと思います。

だからイエスさまは、

手を洗うべきか、洗う必要はないかという問題を用いて、

「私たちの心から出て、この口から出てくる言葉こそ、

私たちを汚すのだ」と言われたのです。

「ちょっと待ってほしい。

あなた方は、目の前にいる誰かを、

不必要に傷つける言葉を吐いてはいないだろうか?

批判をしているあなた自身の心から、

悪い言葉が出て来ているのではないか?

それが、あなた自身のことも、

そして、周囲の人々のことも、汚しているのだ。

決して、食べ物が問題でも、手を洗わないという行為が問題なのでもない。

どうか、そのことに気づいて欲しい」。

そのように願いながら、

イエスさまはこの言葉を語られたのだと思います。

もちろん、私たちのこの口から、悪い言葉が出てくることは、

イエスさまからわざわざ指摘されなくても、

誰もがよくわかっていると思います。

なぜ私たちのこの口から、悪い言葉が出てきてしまうのでしょうか。

「心が問題」ということは、どういうことなのでしょうか。

教育が悪かったからですか?

親のしつけの問題ですか?

それとも、この世界に悪が溢れているからでしょうか?

聖書は私たちに向かって、「決してそうではない」と言います。

パウロは言います。

「正しい者はいない。ひとりもいない」と(ローマ3:10)。

手ではなく、この身体でもなく、

私たちのこの心にこそ、汚れがあるのです。

神が喜ばれない、神に受け入れていただけない心があるのです。

私たちは、そのような性質を生まれつき持ってしまっていると、

パウロは「正しい者はいない」と言うことによって、

私たちの罪深い現実を伝えているのです。

神に反抗し、共に生きる人々を心から愛することができない。

神を冒涜し、目の前にいる愛する人々を簡単に傷つけてしまう。

そのような心を私たちは、生まれつき持ってしまっているのです。

それが問題なのです。

イエスさまは、このような問題を抱える私たちに向かって、

一体、何と言われたでしょうか?

 

わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。(マタイ15:13)

 

最初の人間が神に背いたその初めのときから、

人は誰もが罪人として定められています。

生まれつき罪に定められています。

確かに、神は、私たち人間を造る際、

神に背き、罪を犯すことの出来る自由さえも与えた上で、

私たち人間を造られました。

でも、だからといって、私たちが罪人として造られたわけではありません。

悲しいことに、私たちの側が、神に背くことを選び取ってしまったのです。

それにも関わらず、イエスさまは私たちにこう言われるのです。

「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、

すべて抜き取られてしまう」と。

神が、私たちから、罪をすべて抜き取ってしまう日が来る。

その日が必ず来るということを、神はイエスさまを十字架にかけて、

私たちの罪を赦すことを通して宣言されました。

だから、私たちは罪人でありながら、

罪の赦しを受けた者として、神からこのように宣言されるのです。

「あなたたちは、わたしにとって、

聖なる国民である」と(出エジ19:6参照)。

相変わらず、私たちのこの口からは、

悪い言葉が出てくるかもしれません。

いや、息を吐くように、悪い言葉が何度も何度も出てきて、

神を傷つけ、愛する家族や友人たちを傷つけるのでしょう。

しかし、神は、「それでもあなたは聖なる民だ」と、

私たちに宣言してくださっているのです。

「キリストが、あなたの罪を背負って、あなたのために死んだ。

だから、あなたは聖なる民なのだ」と。

ですから、私たちは、神の恵みによって、

既に聖なる民とされているこの事実に基づいて、

これから歩んで行きましょう。

旧約聖書の時代、神は、イスラエルの民を

「聖なる民」と宣言したその後に、守るべき10の戒めを与えました。

聖なる民とされているから、

神の言葉を喜びをもって守り、神を愛し、

神と共に歩んで行くことが、私たちには出来るのです。

愛する皆さん、きょう、

あなた方は、主キリストにあって、聖なる民とされています。

あなた方は、共に生きるように招かれている人たちを、

心から愛する生活へと招かれています。

ですから、自分の考えと合わない人たちを批判したり、

お互いに争い合ったり、陰口をたたくのではなく、

主キリストにある平和を追い求めて歩ん行こうではありませんか。