「境界線の向こうへ」

「境界線の向こうへ」

聖書 ヨナ書 1:1-3、マタイによる福音書 15:21-28

2018年 2月 4日 礼拝、小岩教会

 

私たちは、人との間に色々な形で線引きをします。

性別の違い、国籍の違い、学校やクラブといった所属する団体の違い、

年齢の違い、文化や言葉の違い、考え方の違いといったように、

自分たちの間に存在する違いを意識して、私たちは境界線を引きます。

その境界線を用いて、お互いの違いを区別しつつも、

その違いを心から喜べる間は良いのですが、

時々、私たちは間違いを犯してしまいます。

いつの間にかその境界線を用いて、人を差別したり、

その境界線の上に、簡単には越えられない壁を作り出して、

自分たちとはモノの考え方や、見た目の違う人たちを

拒絶したり、差別してしまったりするのです。

そのような境界線の用い方は、

ある特定の民族や文化に敵意が向けたれたり、

女性だから、黒人だからといった理由で差別を受けたりするなどして、

人類の歴史の中で、何度も何度も繰り返されてきました。

そしてこの問題は、残念ながら、

私たちの日常にも潜んでいる問題だと思います。

きょうの物語では、ひとつの大きな境界線が登場します。

それは、「イスラエル人」と「異邦人」という境界線です。

イスラエルとは、神に選ばれ、神から約束を与えられ、

神の言葉である律法を与えられた神の民のことです。

そして、この「イスラエル」と呼ばれる人々以外のことを指して、

聖書では、「異邦人」という言葉が用いられています。

イスラエルの民は、異邦人のことを

「神を知らない汚れた人々」として見ていました。

ですから、イスラエルと異邦人との間にある境界線は、

イスラエルの民が、異邦人と自分たちの違いを意識して引いた境界線です。

この物語は、イエスさまが、地理的な境界線を越えることから始まりました。

イスラエルの民が暮らすガリラヤから西へ短い旅をして、

イエスさまは、異邦人の住む、ティルスとシドンの地方へと行きました。

そのとき、イエスさまは一人の女性と出会ったのです。

マタイはこの女性のことを、「カナンの女」と説明しているので、

彼女は明らかに、異邦人の女性でした。

彼女は、イエスさまに向かって叫びました。

 

主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。

娘が悪霊にひどく苦しめられています。(マタイ15:22)

 

神の民、イスラエル人ではない、異邦人の女性から、

助けを求める叫び声が聞こえてくる。

そう、つまり、このとき、境界線の外側から、

イエスさまに向かって救いを求める声が聞こえてきたのです。

でも、一体どうしたことでしょうか?

この時、助けを求めて叫び続けている彼女を前に、

イエスさまは黙り続けていました。

そのため、この女性は、イエスさまに助けを求め、

「助けてください」と叫び続けながら、

イエスさまと弟子たちの後をつけて行きました。

そんな彼女の姿を見た弟子たちは、しびれを切らして、

沈黙を守るイエスさまに彼女を去らせるようにとお願いし始めました。

イエスさまにうるさく付きまとう異邦人の女性を、

弟子たちは早く追い返してしまいたかったのでしょう。

このような弟子たちの反応を見て、

ようやくイエスさまは彼女と会話を始めました。

しかし、助けを求めて近づいてきたこの女性に対するイエスさまの答えは、

私たちが期待する通りのものではありませんでした。

この女性に対するイエスさまの態度は、

彼女を無視して黙っていたときと、

何も変わっていないかのように感じます。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか

遣わされていない」(マタイ15:24)と語るイエスさまは、

目の前にいるこの異邦人の女性を相手にしようとしません。

病を抱えた人を癒やし、悪霊を追い払ってきた、

憐れみ深いあのイエスさまが、

一体、なぜこのような態度を取られたのでしょうか?

他のイスラエルの民と同じように、

カナンの女性は、「異邦人だから」「汚れているから」という理由で、

イエスさまもまた、彼女を差別していたのでしょうか?

それとも、異邦人だから、彼女が救われるはずないと決めつけて、

イエスさまは近づいてくる彼女を疎ましく思ったのでしょうか?

いいえ、イエスさまはそのような方ではありません。

イエスさまは、この時、「まだその時ではない」と考えていました。

彼女をはじめ、異邦人たちが救われる時は、

今ではないと、イエスさまは考えていました。

異邦人のもとに救いが来るためには、

何よりもまず初めに、イスラエルの人々が

神のもとに立ち帰らなければならないと、

イエスさまは考えていたのです。

だから、必要以上に彼女に期待させないため、

イエスさまは彼女に冷たくも思える態度を取り、

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか

遣わされていない」(24節)と彼女に言われたのです。

しかし、そのように考えていたイエスさまに対して、

異邦人の女性が、諦めずに娘の助けを求め続けてきました。

この時、何かがイエスさまの中で変わりました。

イエスさまは気づきました。

神は既に、異邦人にも救いの手を伸ばされていたのです。

そして、まさにイエスさまご自身を通して、

救いの手を伸ばそうとされていたのです。

彼女の信仰に触れたこの時、

神が自分に与えている目的は、自分がそれまで考えていたものより

大きなものであることに、イエスさまは気付かされたのです。

そもそも、ガリラヤの西に位置するティルスとシドンの地方に

イエスさまが来たのは、恐らく、休むためでした。

喜ばしいことではあったが、イエスさまのことを

群衆が絶えず追いかけて来て、イエスさまを囲み、

イエスさまに癒やしや悪霊払いを求め、教えを聞いてました。

そして、エルサレムから律法学者たちまでやって来て、

律法の解釈をめぐる論争まで始まってしまったのです。

正直、身体も心もくたくたでした。

いつまで経っても休むことが出来ないので、

イエスさまはこの時、異邦人が暮らす場所へとやって来たのです。

しかし、宣教の業を一度休めるためにやってきた場所で、

まさに、思いがけない場所、思いがけないタイミングで、

異邦人の女性が、諦めずにイエスさまに娘の助けを求め続けました。

そう、神が彼女に信仰を与えている現実を

イエスさまは目の当たりにしたのです。

だから、神がこれから起こされる業に期待しながら、

イエスさまは、目の前にいる異邦人の女性に手を差し出し、言われたのです。

 

婦人よ、あなたの信仰は立派だ。

あなたの願いどおりになるように。(マタイ15:28)

 

この物語の背景にもなっている、

自分と誰かとの間に境界線を引き、

目に見えない壁を作り出すことは、

私たちも日頃くり返し行っていることです。

でも、私たちはしっかりと目を開く必要があると思うのです。

この物語のように、私たちが自分の都合で引く境界線の向こう側で、

神は何かをしたいと願っておられるからです。

ですから、私たちが普段引いている境界線の向こう側に、

何があるのかをしっかりと見つめましょう。

そこにも、神の救いの手が伸ばされているのですから。

そして、神があなたに「行け」と言うならば、

その境界線の向こう側へと、その足を進めて行くことができますように。

ところで、この問題は、教会の外だけの問題なのでしょうか?

イスラエルと異邦人。

これは明らかに、古代のキリスト教会が抱えていた問題でした。

たとえキリストを信じる者同士であったとしても、

イスラエルの民であるユダヤ人と、異邦人との間には、

人間の力では越えられない大きな壁がありました。

彼らの間に引かれた境界線は、

日に日に溝が深まっていくように感じられました。

そのような問題を抱えていた当時の教会に、

この物語は、あるべき交わりの姿を教える道しるべとなりました。

目には見えないけれども、確かに、境界線はあります。

確かに、私たち人間は簡単に壁を作ってしまいます。

でも、神は境界線の向こうでも、救いの手を伸ばされました。

神は、イスラエルの民だけでなく、

異邦人に対しても救いの手を伸ばされました。

そして、イエスさまご自身も、境界線の向こうへ行って、

人々を憐れみ、愛の業を行われたのです。

だから、教会はいつも、目の前にある境界線や

壁の向こう側へと行くようにと招かれているのです。

目の前にいる人と自分の違いは、

お互いに数え切れないほどあります。

けれども、私たちは主キリストにあってひとつです。

だから、私たちはお互いに違いを感じる度に引いてしまう、

あの境界線を乗り越えて、

お互いに愛し合い、赦し合う交わりを築いていくことが出来るのです。

教会とは、そのような交わりが許されている場所なのです。

そして、同時に、神が境界線を打ち消し、

お互いを隔てる壁を打ち壊してくださるという希望が、

私たちには与えられています。

私たちは相変わらず、お互いに違いを感じるとき、

簡単に人を否定したり、拒絶してしまいます。

誰かを批判したり、遠ざけたりするのは、私たちの得意技です。

しかし、神が隔ての壁を壊してくださいます。

神が、私たちに不必要な境界線を打ち消してくださいます。

だから私たちは、神が望まれる交わりを築いていきたい。

壁や境界線を作る努力ではなく、

それを打ち壊す努力をすることを通して、

私たちはお互いに愛し合う交わりを、神に喜ばれる交わりを、

与えられたこの場所で築き続けていこうではありませんか。