「『あなたがたより先に行く』と主は言われる」

「『あなたがたより先に行く』と主は言われる」

聖書 ゼカリヤ書 13:7-9、マルコによる福音書 14:26-31

2018年 3月 11日 礼拝、小岩教会

 

それは、「わたしを裏切ろうとしている者があなた方の中にいる」と、

「最後の晩餐」と呼ばれる、あの食事の席で、

イエスさまが弟子たちに告げたばかりのことでした。

食事を終えて、オリーブ山と呼ばれる、

エルサレムの東にある山へと向かうその途中で、

イエスさまは、弟子たちに向かって口を開きます。

「あなたがたは皆わたしにつまずく」(マルコ14:27)と。

イエスさまが弟子たちに告げたことは、

彼らにとって、大きな悲しみを覚える言葉でした。

裏切り者が仲間の中にいることを知っただけでも、

彼らは動揺しました。

 

でも、悲しむべきことは、それだけではなかったのです。

イエスさまを裏切る者がいるばかりか、

弟子たち全員がイエスさまにつまずいてしまう。

イエスさま自身が、弟子たちを信仰へと導くどころか、

彼らをつまずかせて、倒れさせる原因となってしまう、というのです。

確かに、イエスさまはこれまで、

多くの人々の病を癒し、教えを語ることを通して、

イスラエルの人々の間に神への賛美を呼び起こしました。

でも、思い返してみると、それと同時に、

多くの人々がイエスさまの言葉を聞いたり、

その行動を見て、つまずいてきました。

ある人は、「あなたが私に勧めるようには、私は生きられない」と、

悲しんでイエスさまの前を去って行きました。

またある人は、「あいつは悪霊の力を用いている」と疑い、

イエスさまを危険視しました。

そして、イエスさまの故郷の人々は、

「この人は、大工ではないか」などと口々に語り、

幼い頃から知っているイエスさまが語る言葉を

簡単に受け入れることは出来ませんでした。

このように、イエスさまの家族や故郷の人たち、

律法学者たち、そしてファリサイ派の人たちが、

イエスさまにつまずく姿を、

弟子たちはイエスさまと一緒にこれまで何度も見てきました。

ですから、イエスさまの弟子である自分たちもまた、

イエスさまにつまずく可能性があることは否定できません。

でも、自分だけは決してイエスさまにつまずかないと、

弟子たちは思っていました。

ペトロは弟子たちを代表して言います。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、

あなたのことを知らないなどとは

決して申しません」(マルコ14:31)と。

そうです、これまでイエスさまに心から従ってきたのですから、

イエスさまにつまずく自分たちの姿など、考えられないのです。

だから、ペトロはこのように大胆な告白をすることが出来ましたし、

その場にいた弟子たちも、ペトロの言葉にうなずきながら、

イエスさまの前で同じ様に語ったのです。

でも、福音書の物語が進んでいくとき、

私たちは弟子たちが簡単につまずく姿を目撃します。

イエスさまが逮捕されたとき、

弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げ出しました。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、

あなたのことを知らないなどとは決して申しません」

とまで言ったにもかかわらず、

ペトロは、翌朝にはイエスさまと自分の関係を否定してしまいます。

イエスさまが十字架にかかり、死んだとき、

マルコの記述を見ると、

12人の弟子たちの姿はどこにも見当たりません。

彼らはイエスさまが十字架の死へと向かう姿を見て、

イエスさまにつまずいてしまったのです。

このようにイエスさまにつまずき、

イエスさまを見捨てることになる、

弟子たちの姿をイエスさまはよくご存知でした。

だから、イエスさまは、ゼカリヤ書から

「わたしは羊飼いを打つ。

すると、羊は散ってしまう」と引用して、

ご自分が死を迎えるとき、弟子たちはつまずき、

イエスさまを中心にした交わりが散っていき、

失われてしまうことを語ったのです。

しかし、それですべてが終わりではありませんでした。

イエスさまにつまずくことになる弟子たちに向かって、

イエスさまはひとつの約束を与えられたのです。

 

しかし、わたしは復活した後、

あなたがたより先にガリラヤへ行く。(マルコ14:28)

 

イエスさまの逮捕や十字架上での死によって、

すべてが終わるように、弟子たちの目には見えました。

しかし、それで終わりではなく、

死の先に、希望があることをイエスさまは示されたのです。

「神が、私を復活させてくださる。

そして、復活した後、私はガリラヤへ先に行って、

あなた方を待っているから、そこで再び会おう」と、

イエスさまは約束してくださったのです。

弟子たちがガリラヤでイエスさまと出会ったとき、

そこから再び、イエスさまとの交わりが始まるのです。

そして、イエスさまを中心にした

弟子たちの交わりもそこからまた再び始まるのです。

復活という出来事は、神が起こしてくださった奇跡の業です。

ですから、死ぬことさえも恐れることなく、

イエスさまに従うことが出来ると語る、

弟子たちの持っている信仰によって、

イエスさまとの交わりが保たれたわけではないのです。

彼らは逃げ出したばかりか、

イエスの死を前にしたとき、

与えられた約束さえ忘れてしまっていました。

だから、神はこの約束の言葉は、イエスさまが復活したとき、

天の使いを通して、女性たちに語られ、弟子たちに伝えられたのです。

ただ神からの一方的な憐れみによって、

弟子たちは約束の言葉を再び受け取ることが出来たのです。

このように、弟子たちが

イエスさまと再び出会うことが出来たのは、

神がイエスさまを復活させてくださるからです。

神の恵みによってのみ、交わりは新たに始まるのです。

再び新しく始まったこの交わりは、

イエスさまの十字架の死の後に始まったものです。

十字架の死によって実現した罪の赦しと、復活が、

この交わりを支える土台です。

イエスさまはそれを実現するために、

弟子たちの先に立って、十字架への苦難の道を歩まれたのです。

十字架と復活が土台となって始まった新しい交わりを

私たちは教会と呼びます。

イエスさまは、今も、私たちに先立って歩んでくださっています。

ガリラヤへ行き、弟子たちと再会した後、

イエスさまは天に昇りました。

そうすることによって、イエスさまは、

私たちが帰るべき場所が何処であるのかを示し、

天の御国へと至る道を私たちに先立って、歩まれたのです。

そして、私たちに天の御国を示すだけでなく、

イエスさまは私たちの羊飼いとして、

私たちの生涯を導き続けてくださっています。

十字架の死が目の前に迫っても、

人間の罪や悪に苦しめられても、

ご自分の羊である私たちを愛し抜き、

天の御国へと導いてくださるのが、

私たちの羊飼いであるイエスさまなのです。

だから私たちは、天の御国へと向かう旅路において、

このように歌い続けるのです。

「主は羊飼い、

わたしは何も欠けることがない」(詩編23:1)。

「主は御名にふさわしく

わたしを正しい道に導かれる。

死の陰の谷を行くときも

わたしは災いを恐れない。

あなたがわたしと共にいてくださる。

あなたの鞭、あなたの杖

それがわたしを力づける」(詩編23:3-4)と。

天の御国へと向かって旅をするとき、

私たちの前に災いも、危険も、苦しみも、悩みもない

というわけではありません。

詩編23篇で歌われているように、

「死の陰の谷を行く」ような経験だってあるのです。

そのようなとき、私たちは、

弟子たちのようにつまずきを覚えます。

何度も、何度もつまずきます。

しかし、そのような私たちをイエスさまは、

決して見捨てることなく、待っていてくださいます。

先立って歩んでくださいます。

そして、私たちの歩みのために祈ってくださるのです。

だから、私たちは信仰を抱いて、

日々、歩んで行くことが出来るのです。

つまずいてしまう弱いこの私だけれども、

そのような弱い私を見捨てず、

天の御国までイエスさまは導こうとしてくださいます。

私たちは、勘違いをしてはいけません。

神を信じている自分自身に信頼を置くのではありません。

そうではなく、私たちが何度つまずいても、決して見捨てず、

何度も、何度も、手を差し伸べてくださる

恵みと愛に溢れた神に、私たちは信頼をするのです。

ですから、「あなた方より先に行く」と約束してくださった、

私たちの主であるイエス・キリストを

いつも見つめ続けて、これからも歩んで行きましょう。