「しかし、み心のままに」

「しかし、み心のままに」

聖書 イザヤ書 50:4−9、マルコによる福音書 14:32−42

2018年 3月 18日 礼拝、小岩教会

 

こんなにもひどく恐れ、もだえ苦しむイエスさまの姿を

弟子たちは初めて見ました。

イエスさまは、その心に抱える苦しみや悲しみに

今にも押し潰されそうになりながら、

「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコ14:34)と語り、

弟子たちの前で自らの弱さをさらけ出しました。

そして、弟子たちから少し離れたところで、

地にひれ伏して、イエスさまは祈り始めました。

ゲツセマネと呼ばれる園で、イエスさまはなぜ、

こんなにも苦しみや悲しみを抱えながら、祈られたのでしょうか。

 

イエスさまの苦しみや悲しみの原因は、

これまでイエスさま自身が弟子たちに、

何度か語ってきたことに関係がありました。

マルコによれば、イエスさまは、これまで何度も、

弟子たちの前で、ご自分の死について語っていました。

「人の子は人々の手に引き渡され、殺される」と(マルコ9:31)。

イエスさまはこの時、真夜中のゲツセマネにおいて、

自分が死を迎える時が、いよいよ迫って来たことを

神との交わりの中で知らされたのです。

神が定められたその時は、刻一刻と迫っていて、

逃げることは許されません。

確実に、死は自分のもとにやって来ます。

もちろん、自分の死が何を意味するのかについて、

イエスさまはわかっていました。

十字架の死に向かう、この苦難の道が、

すべての人を救いへと導くためになされる、

神の計画だということも、十分理解していました。

しかし、たとえ神の計画だとわかっていたとしても、

悲しみや苦しみがなくなるわけがなかったのです。

イエスさまは、人となられた神の独り子です。

ですから、神でありながらも、

私たちと同じように、一人の人間として、

目の前に用意されている死に対して、苦しみや悲しみを覚えたのです。

死は、私たちを愛する人から永遠に引き離す力をもっています。

イエスさまはそのことを十分よくわかっていました。

だから、愛する弟子たちと引き離されることに、

イエスさまは悲しみました。

また、旧約聖書によれば、十字架の上にかけられることは、

神に呪われた者であることの証しです。

そのため、十字架の上で死んだ者は、

同胞のユダヤ人たちから、「あの男は、神に呪われ、

神から見離された」と見なされることになります。

事実、イエスさまは、

私たち、すべての人間の罪を背負って十字架にかかったため、

十字架の上で、神から完全に見捨てられる経験をしました。

悲しみ、苦しみ、呪い、恥、拒絶、暴力、そして死。

そのすべてが死を迎えようとしているイエスさまに

これから襲いかかろうとしているのです。

たとえ、すべての人に罪の赦しを与え、救いへと導く、

神の計画のためであるとわかっていたとしても、

これから味わうすべてのことは、

イエスさまにとって、苦しみと悲しみを与えるものだったのです。

ですから、イエスさまは、ひどく恐れ、もだえ苦しみながら、

真夜中のゲツセマネで神に向かって祈り求めたのです。

アッバ、父よ、

あなたは何でもおできになります。

この杯をわたしから取りのけてください。

しかし、わたしが願うことではなく、

御心に適うことが行われますように。(マルコ14:36)

この祈りの中で、

イエスさまは、できることならこの苦しみの時が、

自分から過ぎ去って欲しいと神に願っています。

しかし、イエスさまは神の意志に従うことを選びます。

自分の願いが実現するよりも、

神の計画や神の意志こそが実現されることを願い、

イエスさまは「御心に適うことが行われますように」と祈りました。

このように祈りながらも、

イエスさまの心の中は、葛藤で溢れていたと思います。

自分の願いが実現して欲しいという思いと、

神のみ心こそが実現して欲しいという思い。

このふたつの思いを抱え、葛藤し続けたから、

イエスさまは、同じように、三度も祈ったのでしょう。

私は、イエスさまがこのとき、

三度も同じ祈りをしたことに大きな慰めを覚えます。

もしも、イエスさまがこのとき、

ただ一度だけ祈って、神の思いに従ったのならば、

イエスさまは同じ人間としてこの地上を歩まれたけれど、

私たちの現実とはかけ離れた方なのだな、と思ったことでしょう。

そうです、私たちは、簡単には神のみ心に従うことは出来ません。

私たちにとっては、自分の思いや願いこそが大切だからです。

もしも、自分の将来の希望や願いを保証するものとして、

神の言葉が語られ、神の意志が示されるならば、

私たちは大歓迎です。

しかし、神のみ心は、私たちの将来に

安全や保証を与えるために示されるものではありません。

神が私たちを用いて、この地上で成し遂げたいことがあるから、

神は、私たちにみ心を示されるのです。

その意味で、私たちの思いと神のみ心が対立することがあるのは、

当然のことなのです。

私たちは聖書を通して神の思いを知るとき、

そんなに簡単には、神のみ心に従うことを選べない現実に悩みます。

それはイエスさまも同じでした。

もしも神のみ心の通りに事が進むならば、

十字架の上にかけられ、神に見捨てられ、命を落とし、

愛する弟子たちとの交わりは失われてしまうのです。

出来るならば、違う方法で、

神の計画が行われることを願ったことでしょう。

しかし、神のみ心は、イエスさまの思いとは違っていました。

だから、苦しみもだえながら、

神との祈りの交わりの中で、

神のみ心に自分の思いを重ね合わせたいと願ったのです。

神のみ心に対立する願いを持っている自分が、

神の計画に従って歩む者へと変えられていくようにと願ったのです。

そのようにして、イエスさまは、

最終的に、神のみ心に自分の思いを重ねました。

そのような時を迎えるまでに、

イエスさまは、三度も祈りを必要としたのですから、

私たちが、神のみ心に思いを重ねるためには、

もっともっと多くの時間が必要なのかもしれません。

その意味で、神のみ心が示されたとき、

私たちは「すぐに」と急かされているのではありません。

ゆっくりと、神の思いに心を合わせていく時間が与えられています。

そこに、私たちは神の慰めや配慮を見出すことが出来るでしょう。

ところで、神のみ心が示され、それに従うイエスさまに、

大きな苦難が訪れた事実に、私たちは目を背けることは出来ません。

なぜイエスさまは苦しみに遭うことがわかっていながら、

神のみ心に従うことが出来たのでしょうか。

なぜイエスさまは、自分を捕まえ、死へと明け渡す人々が来た時、

逃げ出すことも、抵抗することもしないで、

静かにご自分の死が来るその時を待つことが出来たのでしょうか。

それは、神のみ心が行われことによって、

最も幸いな道を神が用意してくださるという、

確かな信頼に、イエスさまが立っていたからでしょう。

イエスさまにとって、

これから訪れる出来事が、なぜ幸いなのでしょうか。

それは、すべての人に救いへの道が開かれるからです。

イエスさまが経験する十字架上での死は、

その死の事実だけを見つめるならば、

暴力であり、拒絶であり、恥であり、そして呪いでした。

しかし、この十字架の死を通して、

すべての人に罪の赦しが与えられました。

罪人である私たちが神に受け入れられ、

神との交わりが許されました。

そして、神は、イエスさまを復活させ、

イエスさまを信じる者に、

神の国と永遠の命への希望を与えてくださいました。

実に、神の計画は、

私たち人間の思いや願いを越えたところにあると信じて、

イエスさまはこの時、神のみ心に従って歩み出したのです。

この時、神のみ心に従うイエスさまの歩みに、苦難が伴ったように、

私たち信仰者が、神のみ心に従って歩もうとするとき、

そこに苦難が伴う可能性があることは否定できません。

いいえ、聖書に記されている信仰者たちの歩みを見る限り、

それは明らかなことだと思います。

アブラハムという男は、神に命じられて、

自分の故郷を出て、見知らぬ土地を目指して旅立ちました。

モーセは、神から遣わされて、

奴隷として苦しんでいたイスラエルの民をエジプトから解放するために、

エジプトの王ファラオの前へ出て行かなければなりませんでした。

ダビデは、イスラエルの王として神から任命されましたが、

その当時の王である、サウルに命を狙われ続け、逃亡生活を送りました。

このように、神のみ心に従って生きることには、

時には苦難が伴うものであったにも関わらず、

アブラハムやモーセ、ダビデを始めとした、歴史上の信仰者たちは、

自分の置かれた境遇に苦しみ、葛藤しながらも、

「それでも、私は神のみ心に従おう」と告白し続けてきました。

それは、神のみ心に従うとき、

苦しみにまさる喜びが将来与えられると強く確信していたからです。

それでは、今、この時代を生きる私たちは、

どうすれば良いのでしょうか?

神のみ心が示されるとき、

私たちはどのように生きれば良いのでしょうか?

もちろん、答えはわかっています。

葛藤し、苦しみを経験しながらも、

神のみ心に従って歩めたら、どれほど喜ばしいことでしょうか。

でも、もしかしたら、苦しみ、祈る自分のために祈ってほしいと

イエスさまから言われたのにも関わらず、

眠ってしまった弟子たちのように、

神のみこころを知るとき、祈り続けられない自分と出会い、

弱さを覚えるかもしれません。

「神のみ心など知るか」と、逃げ出してしまうかもしれません。

しかし感謝すべきことに、そのような私たち一人ひとりに、

神は聖霊を送ってくださいました。

使徒パウロによれば、その聖なる霊は、

「アッバ、父よ」と私たちの心で叫んでいるのです。

「アッバ、父よ」。

それは、ゲツセマネで、十字架を前にしたとき、

神のみこころを求めて、苦悩の中で祈った

イエスさまのあの祈りと同じ祈りです。

私たちも、神のみこころを求めるときに、苦しみを覚えます。

何もわからなくて、悩んでしまいます。

そのような私たちに、「アッバ、父よ」という祈りの言葉が、

イエスさまの足跡に従う祈りとして、既に与えられているのです。

それは、イエスさまのように私たちも十字架にかかり、

犠牲になるという意味ではありません。

イエスさまのように、神のみ心を求めて、

神のみ心に従うことを選び取って行くという意味です。

ただ、私たち自身の力でそれをすることは、とても難しいことです。

しかし、感謝すべきことに、

私たちには、「アッバ、父よ」と叫ぶ聖霊が与えられています。

聖霊が私たちの心で叫び、

私たちが神のみ心に従って歩むことが出来るようにと、

いつも私たちのために、とりなし祈ってくださっているのです。

だから、私たちは、神のみ心を求めて生きることが出来るのです。

そして、このように祈る聖霊が与えられているということは、

私たちが、神の子とされていることの証しです。

パウロはこのように語っています。

「子であれば、神によって立てられた

相続人でもあるのです」(ガラテヤ4:7)と。

私たちは、主キリストにあって、天の御国の相続人です。

将来、私たちが天の御国にたどり着く日、

私たちは神から、御国を受け継ぐ者とされているのです。

ですから、神のみ心を聞いて、それに従うときに、

私たちが経験する苦しみや悲しみ以上のものを

「相続人」である私たちは与えらると約束されているのです。

そうであるならば、もしも自分自身が抱く思いと対立するような形で、

神のみ心が示されたとしても、

主キリストにある、将来の喜びを見つめて、

私たちはこのように祈ろうではありませんか。

「アッバ、父よ。

しかし、わたしが願うことではなく、

御心に適うことが行われますように」と。