「十字架と復活こそ、希望のしるし」

「十字架と復活こそ、希望のしるし」

聖書 ヨナ書 2:1-11、マタイによる福音書 16:1-12

2018年 4月 1日 礼拝、小岩教会

 

「天からのしるしを見せてください」。

そう言って、イエスさまに近づいてきた人々がいました。

彼らは、「ファリサイ派」と「サドカイ派」の人々であったと

マタイは記しています。

イエスさまの生きた時代、ユダヤの国には、

いくつかのグループが存在していました。

その中でも代表的で、人々の間で影響力のあったグループが、

ファリサイ派とサドカイ派と呼ばれる人々でした。

しかし、ファリサイ派とサドカイ派の間には、

共通点よりも、違う考えの方が多かったようです。

たとえば、ファリサイ派は死者の復活を信じている一方で、

サドカイ派は死者の復活はないと信じていました。

特に、ファリサイ派の人々は、「口伝律法」と呼ばれる、

長い時間をかけて積み重ねてきた律法の解釈や議論を大切にしました。

一方で、サドカイ派はそのような「口伝律法」を認めていませんでした。

そのため、ファリサイ派とサドカイ派の間には、

常に対立があったようです。

でも、それなのに、きょう開かれた物語では、

ファリサイ派とサドカイ派の人々が一緒に、

イエスさまのもとに近づいて来て、

「天からのしるしを見せてください」と質問しているのです。

対立関係があるにも関わらず、

彼らが手を取り合って、イエスさまのもとに来た理由は、

明らかに、イエスさまに対する敵意を彼らが持っていたからでしょう。

イエスさまのことを陥れるためであれば、

たとえ対立関係にある人々であっても、

彼らは一緒に手を取り合うことが出来たのです。

それでは、この時に、彼らがイエスさまに求めた、

「天からのしるし」とは一体、何を意味するのでしょうか?

 

天からのしるしとは、神が与えてくださったしるしのことです。

神が与えてくださったしるしを持つということは、

その人が、神から遣わされた者であることを意味します。

つまり、ファリサイ派とサドカイ派の人々は、

「あなたは、本当に神によって遣わされた者なのか?

あなたは、救い主メシアなのか?

もしもそうであるならば、

そのことを確信出来るようなしるしを見せてほしい」と、

イエスさまに尋ねたのです。

彼らは、イエスさまにそのように尋ねつつも、

イエスさまは「天からのしるし」を持っていないと

考えていたと思います。

というのも、これまでイエスさまが病人を癒やし、

悪霊を追い払い、さまざまな奇跡を行ったことを見ても、

彼らは、イエスさまの行いを

「悪霊の力を用いている」と結論付けていたからです。

ですから、どのようなしるしを見せたとしても、

また、見せなかったとしても、

イエスさまは彼らに訴えられ、攻撃を受けることになったと思います。

「あの男は、天からのしるしを持たないのに、

メシアを自称している危険人物だ」と。

そのため、イエスさまは、しるしを見せることもしませんし、

見せられないとも言いません。

イエスさまは、空を指さしながら、彼らにこう言われました。

 

「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、

朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。

このように空模様を見分けることは知っているのに、

時代のしるしは見ることができないのか。(マタイ16:2-3)

 

「天」との関連で、空模様について、イエスさまは語り始めました。

「あなた方は、空模様からしるしを知ることができる。

でも、それなのに、なぜ時代のしるしを把握できないのですか」と。

ここで「時代」と訳されている言葉は、

ギリシア語で「カイロス」という単語が用いられています。

カイロスという単語は、

時間をある一定の期間を示す「線」のようなものではなく、

「点」のようなものとして、捉えている言葉です。

つまり、この時、この瞬間を表すのがカイロスという言葉です。

聖書において、このカイロスという言葉は、

神が定めた正しい時、神が良しとされた時として用いられています。

つまり、イエスさまは、ファリサイ派とサドカイ派の人々に、

このように語っているのです。

「天の様子、つまり空の様子を見て、

あなた方は天候を知ることが出来る。

でも、それなのに、神の時が来たというしるしを

あなた方はなぜ見ることが出来ないのですか?」と。

彼らが求める「天のしるし」は、神が示されるものですから、

神の時が訪れたならば、すべての人々に示されるものです。

しかし、神の時は、既に訪れています。

イエスさまが地上に来たことによって、イエスさまご自身によって、

既に、天のしるしは表されていたのです。

イエスさまが彼らの目の前に立ち、教えを語り、人々の病を癒し、

彼らと交わりを持っていたことを通して、

既に、彼らは天のしるしをイエスさまを通して示されていたのです。

しかし、ファリサイ派やサドカイ派の人々は、

それを見ようともしなかったのです。

そのため、そのような現実にイエスさまは嘆き、

続けてこのように語られたのです。

 

よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、

ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。(マタイ16:4)

 

イエスさまはこの時、彼らの現実に嘆きながらも、

聖書を神の言葉として何よりも大切にする、

彼らの立場に寄り添い、聖書に記されている物語を通して、

「天のしるし」が既に与えられていることを示されました。

「預言者ヨナによって、しるしは与えられている」と。

では、一体「ヨナのしるし」とは、何のことなのでしょうか?

旧約聖書に登場する、預言者ヨナの物語を思い出してみましょう。

ヨナは、神からニネベという町に行くように命じられた人でした。

しかし、彼は神の命令を拒絶し、

船に乗って、ニネベとは反対方向へ逃げ出しましたが、

そのようなヨナを呼び戻すために、神は激しい嵐を起こされました。

その嵐によって船が沈むのを防ぐために、

ヨナは、同じ船に乗っていた人々に、

自分の身を海に投げ込ませることによって、その嵐を鎮めました。

この時、海に投げ込まれたヨナは、命を落としませんでした。

というのも、神に用意された魚に飲み込まれたからです。

三日三晩、彼は魚の腹の中で時を過ごし、

その後、陸地へ吐き出され、命を助けられました。

イエスさまは恐らく、ヨナが魚のお腹の中で三日三晩過ごした、

この出来事のことを「ヨナのしるし」と呼んでいるのでしょう。

それは、死に等しい状態でした。

実際、海に投げ込まれた時、彼は死を覚悟したことでしょう。

ですから、彼が命を助けられ、

再び、陸地に戻って来ることが出来たのは、

神の救いの手が彼に伸ばされたからに他なりません。

神がヨナを憐れんでくださらなければ、彼は命を失っていたのです。

その意味で、神が用意された魚から吐き出された時、

彼は神から新しい命を与えられたのです。

イエスさまは、ヨナが「死と新しい命」を経験したこの出来事が、

「天からのしるし」を示していると言われたのです。

事実、この出来事は、イエスさまがこれから経験する

十字架上での死と復活を予め示すものでした。

イエスさまは、すべての人の罪を背負って十字架にかかり、

すべての人に罪の赦しを与えてくださいました。

そして、死んで、墓に葬られてから、

3日目に、神は、イエスさまをよみがえらせたのです。

イエスさまの復活という出来事を通して、

神は、死への勝利を確かなものとされたのです。

そして、復活を通して、主イエスを信じるすべての者に、

神は、永遠の命と、神の国への希望を与えられました。

つまり、ヨナのしるしは、神が私たちのために計画され、

イエスさまによって成し遂げられた、救いの御業を示していたのです。

だから、イエスさまは、天のしるしを求められたとき、

ヨナのしるしについて語ったのだと思います。

でも、この時は、十字架と復活の前でしたから、

ファリサイ派とサドカイ派の人々も、イエスさまの弟子たちも、

イエスさまの言葉を理解することが出来なかったと思います。

そのため、イエスさまは、十字架と復活という、神の時が訪れる日に、

この謎が彼らの中で明らかになることを期待しながら、

彼らの前を去って行かれたのです。

ところで、ファリサイ派とサドカイ派の人々のもとを立ち去った後、

イエスさまは弟子たちと共に、ガリラヤ湖の向こう岸へ行ったそうです。

そのとき、パンを忘れたことに気づき、

心配そうにしている弟子たちを見て、イエスさまはこう言われました。

 

「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に

よく注意しなさい」(マタイ16:6)

 

イエスさまはファリサイ派とサドカイ派の人々の教えに

注意しなさいという意味でこう言われたのです。

「彼らの教えは、パン種のようにどんどん膨らんでいく」と。

でも、彼らは、イエスさまがこのように自分たちに言うのは、

「パンを持って来なかったからだ」と論じ合います。

弟子たちは、忘れてしまったパンの方にばかり気を取られ、

イエスさまの言葉が耳に入りません。

イエスさまはかつて、弟子たちに、祈りを教えました。

「日々の糧を与えてください」と。

神は、毎日必要な食べ物や水、

毎日必要なもの助けや励まし、そして言葉を、

私たちが生きる上での糧として与えてくださる方です。

ですから、この世界を造られ、私たちを養ってくださる神に、

「日々の糧を与えてください」と祈るようにと、

イエスさまは弟子たちに教えられたのです。

しかし、弟子たちはこのとき、

食べるパンがないことに対する心配事で、心が支配されてしまい、

イエスさまの言葉を真剣に聞くことが出来ませんでした。

イエスさまが弟子たちに言いたかったことは、何だったのでしょうか。

それは、ファリサイ派やサドカイ派の人々のように、

自分が納得できるような、天からのしるしをくださいと、

神に求め続ける必要はないということです。

それは、根本的に、神を信頼していることとは違います。

というのも、既に、神は、

天のしるしをイエスさまを通して示されているからです。

もしも、天のしるしを既に示されている以上に求め続けるならば、

神を信頼出来ない心は、パン種のように増え広がり続けてしまうのです。

だから、注意するようにとイエスさまは言われたのです。

食べるパンのことを心配してばかりで、

神を信頼することを忘れている弟子たちの姿は、

「天のしるし」を求めるばかりで、結局のところ神を信頼出来ていない、

ファリサイ派やサドカイ派の人々と同じだと、

イエスさまの目には映ったのでしょう。

愛する皆さん、大切なことは、神を信頼することです。

神は、イエスさまを通して、

私たちに天のしるしを示してくださっています。

感謝すべきことに、イエスさまが示された天のしるしは、

すべての人々に、イエスさまがメシアであることを保証することを

第一の目的として示されたのではありません。

イエスさまを通して示された天のしるしは、

私たち一人ひとりに救いを告げるものとして示されたのです。

私たちは自分の抱える罪に苦しんでいます。

神に愛されているのに、神に背く生き方を選び、

愛すべき人たちを愛せず、妬んだり、憎んだりしてしまう。

平和を望んでいるのに、自分の安全を守るために、

自分なりの正義を振りかざして、共に生きる人たちを傷つけてしまう。

まるで、自分を中心に世界が動いているかのように錯覚しています。

このように、私たちは、自分たちが抱える罪のために、

傷付き、傷つけられ、苦しんでいます。

しかし、そのすべての罪を背負って、

イエスさまは十字架の上で死んでくださいました。

この出来事を通して、神は罪の赦しを私たちに与えてくださったのです。

私たちが、自分の罪に縛られて生きることから解放され、

神の子として歩み始めるために。

そして、十字架の上で死んで、墓に葬られたイエスさまを

神がよみがえらせたことを通して、

死が最終的な勝利者ではないことが明らかにされました。

私たちが生きる上で抱える最大の問題は、死です。

死を前にするとき、私たちは愛する人との地上での交わりを失います。

そのため、私たちは死を前にする時、涙し、悲しむことしか出来ません。

しかし、イエスさまの復活を通して、

神は、体の復活と永遠の命の望みを私たちに与えてくださいました。

私たち一人ひとりに死が訪れた後、

神は、イエスさまを死者の中からよみがえらせてくださったように、

私たち一人ひとりをよみがえらせてくださるのです。

復活という驚くべき出来事を通して、ただ恵みによって、

死によって失われたものを、神は、私たちに再び与えてくださるのです。

このように、イエスさまを通して示された天のしるしである、

十字架と復活を通して、罪の赦しと復活の希望、

そして永遠の命の望みを、神は、私たちに与えてくださいました。

ですから、十字架と復活こそ、

私たちにとって希望のしるしなのです。

神が私たちに与えてくださった、十字架と復活は、

信じるすべての者に恵みを与え、

私たちの生涯の揺るがない希望であり続けます。

どうか、この希望に立って日々歩み続けることが出来ますように。

そして、罪の赦しと復活の希望を与え、

将来、天の御国に私たちを招いてくださる神が、

いつも私たちの歩みを支え導いてくださることを

いつも思い起こし、神に信頼をして歩み続けることができますように。

十字架と復活、この希望のしるしをしっかりと握りしめて、

天の御国を目指す旅をこれからも続けて行こうではありませんか。