「天の国の鍵」

「天の国の鍵」

聖書 イザヤ書 22:20-23、マタイによる福音書 16:13-20

2018年 4月 8日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

ある時、イエスさまは弟子たちにこのように問いかけました。

 

人々は、人の子のことを何者だと言っているか。(マタイ16:13)

 

「人の子」とは、イエスさまが自分のことを指す場合に、

好んで用いられた表現です。

つまり、イエスさまは、「周りのみんなが、

私のことをどのように言ってるのか知ってますか?」と、

弟子たちに尋ねられたのです。

たしかに、イエスさまについての噂は、

多くの人たちのもとに広がり、

ガリラヤやその周辺で暮らす人たちをはじめ、

ユダヤの国の中で話題となっていたため、

人々はイエスさまについて色々と話していたことでしょう。

イエスさまの語った教えを聞いたある人は、

イエスさまのことを律法を教える教師だと思いました。

またある人は、イエスさまのことを、

癒やしの奇跡を行う人だと考えました。

疑い深い人たちは、イエスさまについて、

悪霊の力を用いて、悪霊を追い払う危険人物だと考えていました。

イエスさまの故郷であるナザレの人たちは、

彼は大工の息子なんだと話しつつ、

そんな彼がなぜこのような活動をしているのか

全く理解できないとぼやきます。

人々がイエスさまについて話すこのような声は、

当然、弟子たちの耳に入ってきたことだと思います。

イエスさまについて、良い反応や評価を聞くこともあれば、

中には悪い反応や評価もありました。

そのように人々の間で色々な反応がある中で、

弟子たちは、イエスさまに対する人々の期待が伝わる言葉を選び、

イエスさまに伝えました。

「イエスさま、ある人たちは、あなたのことを見て、

洗礼者ヨハネがよみがえって活動していると考えています。

またある人は、預言者エリヤやエレミヤの再来と考え、

あなたがこれからなそうとしている働きに期待をしています」と。

このとき、イエスさまは、世間の自分に対する評価が気になったから、

自分が人々からどのような人間として見られているのかを

弟子たちに尋ねたわけではありません。

イエスさまは、弟子たちにこのように言われたのです。

「確かに、あなた方の周りの人々は、

私についてこのように語っている。

それでは、あなた方は、わたしを誰だと言うのか?

そうだ、私があなた方に尋ねたいのは、

彼らが私ことをどう思い、評価しているかではない。

あなた方が、あなた方一人ひとりが、

私のことをどのように考えているのかだ」。

 

イエスさまが弟子たちに尋ねたかったことは、まさにこのことです。

これまで、たくさんの教えを伝え、

多くの時間を共有してきたご自分の弟子たちが、

自分のことを正しく理解しているのかを

イエスさまは確認しようと思われたのです。

イエスさまが弟子たちに問いかけてから、

一体どれだけの沈黙があったのでしょうか。

弟子たちは、相応しい答えが見つからず、

口をすぐに開くことは出来ず、

その場に長い沈黙が訪れたかもしれません。

そんな中、イエスさまのこの質問に対して、ペトロが答えました。

「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と。

メシアとは、ヘブライ語で「神に油を注がれた者」を意味する言葉です。

ギリシア語では「キリスト」です。

旧約聖書の時代、神に立てられた王や預言者、そして祭司が、

油を注がれてその職務に就きました。

イエスさまの生きた時代、イスラエルの人々は、

真の王であり、真の預言者、そして真の祭司である、

メシアが来る、キリストが来ると信じ、待ち望んでいました。

イエスさまと一緒に過ごし、イエスさまの語る言葉を聞き、

イエスさまの行いを見て、イエスさまの人柄に触れる中で、

ペトロは確信を抱くようになったのでしょう。

「この方こそ、イエスさまこそ、

私たちが待ち望んでいたメシア、キリストなのだ。

そして、そればかりでなく、イエスさまは生ける神の子なのだ」と。

ところで、このとき、彼らがいた場所は、

「フィリポ・カイサリア」という名前の地域でした。

フィリポとは、ガリラヤ湖の北東部を治めていた

ヘロデ・フィリポという王さまのことです。

フィリポが、ローマ皇帝に捧げた都であったため、

フィリポ・カイサリアという名で呼ばれていました。

このような場所で、イエスさまをメシアと告白するのは、

とても象徴的な出来事のように思います。

ペトロは、ローマ皇帝に捧げられた、ヘロデ王が建てた町で、

イエスさまをメシア、キリストと告白しているのですから、

それは、「ヘロデ王や、ローマ皇帝がまことの王ではなく、

イエスさまこそが、待ち望んでいたまことの王、救い主です」と、

告白していることと同じことなのです。

さて、ペトロはこれまで、イエスさまから、

「イエスさまはどのような方なのか」について問われ、

それに答えていました。

興味深いことに、今度は、

ペトロがどのような存在なのかについて、

イエスさまはペトロに伝え始めるのです。

「シモン・バルヨナ」と、イエスさまはペトロに語りかけます。

これは、「ヨナの息子、シモン」という意味です。

ヨナとは、「ヨハネ」という名前を省略した呼び方で、

彼の父親のことを指しています。

ですので、シモン・バルヨナという名前は、

ペトロにとって、生まれながらの呼び名でした。

そんな彼に、「ペトロ」というあだ名を付けたのは、イエスさまでした。

「岩」という意味のあだ名がなぜペトロに付けられたのかについて、

イエスさまはこのとき、彼に明らかされたのです。

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。

陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16:18)と。

「あなたは岩だ。

教会を建て上げ、その基礎となるほどの岩だ。

すべての者が死ぬとき、陰府はすべての者をのみこむ。

しかし、そのような陰府の力も、

岩であるあなたを通して建てられる教会の前には対抗できない」と、

イエスさまは言われるのです。

なんと力強い言葉をイエスさまはペトロに語るのでしょうか。

でも、新約聖書に記されているペトロの歩みを思い返してみると、

ペトロという人は、実際のところ、

岩のように堅く、揺るがない信仰を

もっているわけではなかったことがわかります。

イエスさまが逮捕された後、

ペトロがイエスさまと自分の関係を3度も否定したという話は、

すべての福音書に記されているほど有名な話でした。

イエスさまの弟子でありながら、

イエスさまと自分の関係を否定し、

しまいにはイエスさまのことを呪ってしまった。

そんな彼のどこが「岩」なのでしょうか?

イエスさまの前で、

「あなたは生ける神の子、キリスト」と告白することも、

教会を建て上げる働きをすることも、

本来、彼には無理なことでした。

しかし、それなのに、彼はペトロ、「岩」と呼ばれ、

イエスさまをメシアと告白し、キリスト教会の初期の歩みを支える

重要な働きをしました。

彼自身は、堅く、揺るがない岩というよりは、

あまりにも脆く、風が吹けば簡単に吹き飛ばされ、

その時々の状況で形を変えていく、砂のような存在でした。

しかし、イエスさまが「あなたにこのことを現したのは、

人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と語るように、

ただ、神の御業によって、彼は岩とされたのです。

そして、驚くべきことに、ペトロは岩とされただけでなく、

彼には、「天の国の鍵」が与えられました。

イエスさまは彼に与えた天の国の鍵について、

このように説明しています。

 

あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。

あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(マタイ16:19)

 

「つなぐ」そして「解く」という言葉は、

「ラビ」と呼ばれる、律法を教える教師たちがよく用いた言葉でした。

律法によれば、ゆるされているのか、

それとも禁じられているのかについて、ラビたちが宣言する際に、

「つなぐ」「解く」という言葉が用いられたようです。

つまり、何が神の願い、神の望まれていることであるのかを人々に伝え、

それに基づいて、ラビたちは、つなぎ、そして解いたのです。

ペトロが与えられた、天の国の鍵とは、まさに、

何が神の望みであり、何が神の望みであるのかを紐解くための鍵なのです。

つまり、人々の前に、天の国の門を閉ざすための鍵ではなく、

天の国を開くための鍵がペトロには与えられたのです。

しかし、天の国をすべての人の前に開くことは、

イエスさまがこの地上に来たことによって実現されたことです。

イエスさまが、十字架にかかり、罪の赦しをすべての人に与え、

死者の中からよみがえり、体の復活と新しい命の約束を

信じるすべての者たちに与えることを通して、

天の国はすべての人の前に開かれ、救いが実現したのです。

それなのに、なぜイエスさまは、

ペトロに天の国の鍵を与える必要があったのでしょうか。

それは、イエスさまを通して訪れた天の国、

そしてすべての人を救いへと導く出来事について、

それを語り、伝える人がいなければ、

誰も知ることが出来ないからでしょう。

それでは、この天の国の鍵は、

ペトロや彼の後継者たちだけに与えられた特別なものなのでしょうか?

いいえ、そのようなことはありません。

天の国の鍵は、私たちにも与えられています。

というのも、イエスさまはマタイ福音書18章において、

このように語っているからです。

 

あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、

あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(マタイ18:18)

 

ですから、ペトロだけではなく、

キリストに従うすべての者に、そしてすべての時代の教会に、

そこに集う私たち一人ひとりに、天の国の鍵が与えられているのです。

もちろん、天の国のそのすべてを知ることは、

私たちにはまだ許されてはいません。

しかし、それでも、私たちは天の国について、

聖書を通して、そして教会の交わりを通して教えられ、

主イエスにあって、天の国へと招かれています。

そのようにして、天の国の喜びに触れた私たちを通して、

神は天の国をこの地に、この世界に広げようとしているのです。

その意味で、私たちもまた、天の国の鍵を与えられているのです。

もちろんそれは、誰の目にも見えるような鍵というわけではありません。

しかし、天の国は、私たちを通して、

私たちの言葉や生き方を通して、この世界に明らかにされます。

あなたがたが開くところで、天の国は開かれます。

あなたが主キリストにある罪の赦しと和解を語ることによって、

罪の赦しと和解がこの世界に広まります。

あなたが復活の希望に生きることによって、

主イエスの復活がこの世界に宣言されるのです。

主イエスがすべての人に仕えたように、

私たちも弱さを覚える人、

悲しみや苦しみを抱える人に仕えようとするとき、

そこに、天の国は開かれるのです。

ですから、愛する皆さん。

天の国の鍵をもって、出て行きなさい。

主イエス・キリストにある恵みと平和が、

あなたがたと共にありますように。