「私たちの望みか?神のみ心か?」

「私たちの望みか?神のみ心か?」

聖書 エレミヤ書 15:15-21、マタイによる福音 16:21-28

2018年 4月 15日 礼拝、小岩教会

 

「ペトロ、あなたは神のことを思わず、

人間のことを思っている」。

まさか自分がこのようなことを

イエスさまから言われることになるとは、

ペトロ自身考えていなかったと思います。

ペトロは、その直前にイエスさまが語ったことが

どうしても受け入れられませんでした。

「イエスさまがエルサレムで、

長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて

殺されることになるなんて!

ありえない!

そのようなこと、信じられない!」

神の子であり、救い主メシアであるイエスさまに、

そのようなことが起こるなど、

ペトロにとって、あってはならないことだったのです。

ですから、ペトロは、

イエスさまのことを考えて、語ったつもりでした。

「主よ、とんでもないことです。

そんなことがあってはなりません」(マタイ16:22)と。

「とんでもないことです」と訳されている言葉は、

ギリシア語から直訳すると、

「あなたに憐れみがあるように」と訳すことができます。

ご自分の苦難や死について語りだすイエスさまを心配し、

イエスさまの悩みや悲しみを真剣に受け止めて、

ペトロはイエスさまに語ったつもりでした。

「神があなたを憐れんでくださり、そのような事が

あなたに起こらないようにしてくださいますように!」と。

しかし、イエスさまの言葉を借りるならば、

どうやらペトロは、神の思いに心を向けず、

人間的な思いや事柄に心を向けていたようです。

「ペトロよ、あなたは人間の事柄に心を向けてしまっている。

私は、神の計画に従って、

これから十字架の苦難に向かって歩もうとしている。

神の子であるメシアが苦しみ、命を落とすこと。

それが神の計画なのだ。

神の事柄に目を向けなさい」と、

イエスさまはペトロに語られたのです。

このとき、イエスさまがペトロに語った言葉は、

私たち一人ひとりにも深く関係のある言葉だと思います。

きょうの物語を通して、神は私たちに問いかけているのです。

「あなたは日々、神の事柄に目を向けて生きているのか?

それとも、人間の事柄にのみ目を向けていないだろうか?」と。

 

そのように問いかけられると、

私たちは日々、人間的な事柄に

目を向けてばかりいることに気付かされます。

日々の忙しさに追われるとき、

私たちはどうしても、日常の中で、

私たちを導く神の御業に目を向けられません。

怒りや苛立ちを覚えるとき、

主イエスによって示された罪の赦しなど、

自分には関係のないことのように思えてきます。

イエスさまが復活された事実を知りながらも、

いざ、自分が死に直面するとき、

私たちは、今の悲しみや苦しみにばかり目を奪われ、

復活の望みさえも忘れてしまうのです。

そうです、「あなたは神のことを思わず、

人間のことを思っている」と

イエスさまから指摘されているのは、

何もペトロだけではないはずです。

でも、そのように思いつつ、私たちは思うのです。

「一体、何が神の事柄で、何が人間の事柄なのだろうか?」と。

イエスさまがペトロに語った言葉は、

私たちが抱くそのような疑問への回答だと思います。

イエスさまはこう言いました。

 

わたしについて来たい者は、自分を捨て、

自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ16:24)

 

「自分を捨てなさい」と、イエスさまは、私たちに勧めています。

自己否定の歩みをイエスさまは私たちに求めているのでしょうか?

親や目上の人間、国家や権力者たちが命じるならば、

たとえ私たちが納得できないようなものであったとしても、

たとえ私たちが快く思わないことであったとしても、

それが神の思いであると受け止めて、

自分を捨て去って、従うべきだということなのでしょうか?

もちろん、イエスさまは、そのような意味を込めて、

「自分を捨てなさい」と言ったわけではありません。

イエスさまは、「自分を捨てなさい」と語ることを通して、

私たちが本来、誰のものであるのかを

思い出すようにと招いているのです。

そう、私たち人間は、神によって造られました。

ですから、私たちは本来、神のものです。

しかし、単なる所有物というわけではありません。

神は、私たちを「愛する子ども」と呼んでくださっているのです。

私たちが、神のものとされ、神に愛されている神の子だから、

イエスさまは、私たち一人ひとりにこう言われるのです。

「自分を中心にして生活をすることをやめなさい。

そして、あなたの心の王座から、あなた自身を引き下ろし、

その代わりに、神をあなたの心の王座に迎えなさい」と。

そうです、自分を中心にして、

自分を心の王座に据えて生きるとき、

私たちは、神の事柄に目を向けて歩むことは出来ません。

そうではなく、神を心の王座に迎えるときにこそ、

私たちは神の事柄に目を向けて歩むことが出来るのです。

ですから、私たちが神の子どもとして歩み出すことを通して、

神の言葉を聞き、神の思いを知り、神と共に歩むことを通して、

私たちは、何が神の事柄であるのかを知ることが出来るのです。

ところで、「自分の十字架を背負いなさい」と、

イエスさまは続けて語っています。

どうやら、イエスさまが招く道には、

困難や苦しみが伴うようです。

イエスさまがこのように語ったのは、

ご自分がこれから経験することになる、

十字架の死へと向かう道について、

苦しみや拒絶、暴力や死について語った後のことでした。

もちろん、苦しみや困難を経験することが、

イエスさまの弟子となるための条件というわけではありません。

もしも、苦しみや困難を経験することが、

イエスさまの弟子であるための条件であるならば、

誰も信仰を抱いて歩もうとはしないでしょう。

イエスさまがここで意味している順序は、その逆です。

私たちが、イエスさまを信じ、イエスさまに従い、

イエスさまの弟子として生きるならば、

どのような道を歩むことになるのかを

イエスさまは示しているのです。

イエスさまは言います。

「あなたが私に従うのならば、

あなたは十字架を背負うことになる」と。

つまり、それは、「イエスさまの苦しみを

私たちもイエスさまと共に担うことになる」ということです。

私たちの手元に与えられている聖書は、

失敗や挫折も含めて、過去の信仰者たちの歩みを数多く証言しています。

すべての信仰者たちは、神の言葉を聞いて、神の思いを知ったとき、

自分自身の望みと神の思いの間に挟まれ、葛藤しながら、

それでも、神に従って歩んで行こうと決断し、

何度も失敗を重ねながらも、神の子として、自分の十字架を背負い、

イエスさまの苦しみを共に担うことを選び続ける歩みをしました。

たとえば、預言者エレミヤは、神からの警告と裁きの言葉を

イスラエルの民に向けて語るようにと命じられました。

そのような言葉を語るならば、

仲間たちから拒絶され、罵りを受けるのは、当然のことでした。

彼は、苦しみ、葛藤し、自分に対する呪いの言葉を吐きながら、

それでも、神が語られる言葉に励ましを受け、この職務を全うしました。

神を愛し、イスラエルの民を愛するからこそ、

イスラエルの民が神に喜ばれる歩みをして欲しいと願っているからこそ、

たとえ自分が傷つく必要があったとしても、

神に委ねられた言葉を語らなければならなかったのです。

このように、預言者エレミヤをはじめ、

聖書に登場する信仰者たちの姿を思い起こしてみるならば、

神の言葉を聞いて、神の思いを知り、神に従って歩むことは、

まさに十字架を背負うことであると思えてきます。

そして、命を自ら投げ出し、

命を失うような歩みに見えてきます。

それなのに、なぜ、多くの信仰者たちは、

イエスさまに従って歩むことを

喜びをもって、選び取り続けて来たのでしょうか。

それは、その時、その瞬間は、

命をすり減らし、命を自ら失うような歩みに見えるけれども、

実際のところは、命を得る歩みなのだと

強く確信していたからだと思います。

イエスさまは、こう言われるのです。

 

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、

わたしのために命を失う者は、それを得る。(マタイ16:25)

 

イエスさまが約束してくださった「命」とは、

明らかに、「永遠の命」のことです。

私たちが死を迎えた後、神の恵みと憐れみによって、

私たちは新しい命を受け取るという約束が与えられているのです。

このような確信が与えられたペトロは、後になって、

イエスさまに従って歩むために、苦しみにあう人々に向けて、

このように語りました。

 

キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。

それは、キリストの栄光が現れるときにも、

喜びに満ちあふれるためです。(Ⅰペトロ4:13)

 

十字架を背負って歩むこと、

つまり、キリストのゆえに苦しむことは、

ペトロにとってふたつの意味で喜びがありました。

ひとつは、その苦しみが、

イエスさまがこの地上で成し遂げたいと願っておられることを

自分も共に行っていることの証しであること。

そして、もうひとつは、

この苦しみに勝る栄光が、将来、約束されていることです。

特に、重要なこととしてペトロが語るのは、

将来、神から与えられると約束されているものを通して、

今、自分たちが経験している苦しみを見つめることでした。

愛する皆さん、

確かに、私たちがイエスさまに従って生きようとすればするほど、

私たちは、イエスさまと共に苦しむことになります。

もし、私たちが今の苦しみばかり見つめて、すべてを判断するならば、

落胆し、悲しむばかりです。

しかし、どうか、ペトロが私たちに勧めるように、

将来、神に約束されている栄光の時、喜びの約束を望み見て、

日々、歩み続けることが出来ますように。

そして、あなた方が神のみ心に従って歩むその先に、

あなた方が出会う苦しみや困難をはるかに越えた栄光を、

神が現してくださり、

あなた方をますます喜びで包み込んでくださいますように。

今、私たちが出会う苦しみや困難は喜ぶことが出来ないかもしれません。

しかし、今、経験する悲しみや苦しみ、流す涙や沈み込む心を越えて、

神は私たちを憐れんでくださる方です。

そして、神が定められた時が来るならば、そのとき、

私たちは知ることになるのでしょう。

私たちの望みと、神のみ心。

どちらがこの地上で実現されることが、

私たちにとっての幸いであるのかを。

どうか、神のみ心が、天において行われるように、

私たちの望みではなく、神のみ心こそが、

この地上においても、行われますように。

そして、祈り求めることができますように。

「どうか、あなたのみ心が行われるために、

共にその十字架を担わせてください。

私たちを用いてください」と。