「神の支配こそが訪れますように」

「神の支配こそが訪れますように」

聖書 マラキ書 3:8-12、マタイによる福音書 17:24-27

2018年 5月 13日 礼拝、小岩教会

 

お金。

それは、私たちの日常的な問題です。

私たちが生きるこの社会において、

生きていくための環境や食べ物を得るためには、

お金はなくてはならないものです。

命を保つためだけでなく、

ひとつの命が生まれるときにも、

また死を迎えるときでさえも、私たちはお金の必要に迫られます。

その意味で、お金とは、生涯、私たちの頭を悩ませる問題といえます。

きょうの物語において、イエスさまはお金の問題について、

ご自分の思いを私たちに示されました。

このときに問題となったのは、神殿税を納めることについてでした。

実はこの当時、ユダヤの社会において、

エルサレム神殿で行われる礼拝のために、神殿税が集められました。

ユダヤ人の成人した男性たちは、毎年、

日雇い労働2日分の賃金に相当する額を納めていたようです。

それは、神殿で神を礼拝するすべてのユダヤ人にとって、

必要なものだったため、義務として集められていました。

どうやら、出エジプト記30章に記されている、

「登録が済んだ者はすべて、聖所のシェケルで

銀半シェケルを主への献納物として支払う」(出エジ 30:13)

という言葉が根拠となり、神の名の下でこのお金は集められたようです。

しかし、イエスさまは、この神殿税を問題視しました。

それは、「神殿税」という名称からもわかるように、

神の名の下で、ユダヤの人々の義務として集められていました。

その意味で、地上の王たちから義務として徴収され、

国のためにのみ用いられる税金と何の違いもないと、

「神殿税」はユダヤの人々から考えられていたのです。

マタイ福音書の物語において、

ペトロは、神殿税をイエスさまが納めるのかどうかについて、

税を集める人々から問いかけられました。

そのような問いかけをペトロが受けたことを知ったイエスさまは、

ペトロにこのように語りました。

 

シモン、あなたはどう思うか。

地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。

自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。

(マタイ17:25)

 

イエスさまは、王は自分の子どもたちからは

税を取らない、ということをペトロに伝えています。

つまり、神の国において、神は、

ご自分の子とし、神の国の市民権を与えた信仰者たちに、

そのような義務を与えることはないと、

イエスさまは宣言しているのです。

ただ、もちろん、イエスさまは、

課税することそのものを否定したわけではありません。

人間が政治を行う際、税はどうしても必要なものだからです。

このとき、イエスさまが反対したことは、

「神の名の下で人々に課税すること」でした。

神の支配において、信仰者たちは、

税を納める義務からは解放されているはずです。

しかし、それにもかかわらず、

神がこの世界を治めておられることをこの世界に宣言する、

エルサレム神殿へ税金を納めることを通して、

神が与えておられる現実を否定してしまっている。

何よりも、神殿税は、貧困が考慮されていませんでした。

そのため、神殿税は、権力者や宗教的指導者たちが

貧しい人々から搾取することを助けるシステムになっていました。

その意味で、エルサレムの神殿で重要な役割をもつ権力者や祭司たちが、

神殿の維持・運営に用いるお金を、義務として徴収するのは、

地上の国々と何も変わらなかったのです。

天の国という、神の支配の現実を表すどころか、

それを真っ向から否定してしまうのが、神殿税の問題だったのです。

ところで、もしもこの当時の神殿税の問題を、

献金の問題と結びつけることがゆるされるならば、

「神殿への捧げ物は、信仰者たちの義務である」などとは、

イエスさまは、決して考えなかったことを、

私たちは心に留めなければなりません。

残念ながら、時として、私たちは、その誤りを犯してしまいます。

「義務」と考えるほうが、自分にとっても、

また誰かにそれらを要求する場合にも、楽だからです。

しかし、私たちは今一度、確認するべきだと思います。

キリスト者の献金は、決して、宗教税のようなものではありません。

確かに、教会に集い、礼拝を守る上で、私たちはお金を必要とします。

この会堂を維持し、毎週の説教者を立て、この地域への宣教を行う上で、

お金はどうしても必要なものです。

しかし、義務として、税金のようなものとして、

私たちは献金をするべきではありません。

義務と言い出すとき、そこに搾取の現実が生じます。

それは、イエスさまが約束された神の国の現実とは、正反対のものです。

義務と言い出すとき、それは単なる会費へと成り下がり、

神への感謝も、愛も失われていきます。

だから、使徒パウロは、コリントの教会に送った第二の手紙の中で、

コリント教会の人々に献金を勧める際、

献金は義務であると誤解される危険を避けるために、

かなり注意深く言葉を選んで、

8章から9章において、つまり、2つもの章を割いて、

教会に向かって語っています。

ここでパウロが繰り返しているのは、こういうことです。

献金とは、神の名の下で命令されている

義務や税金のようなものなのだろうか……?

いいや、そのようなことは決してない!

献金は、信仰者一人ひとりの自発性によってはじまるものだ。

だから、一人ひとり、いやいやながらでなく、強制されてでもなく、

こうしようとあなたが心に決めたとおりにしなさい。

喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(Ⅱコリ9:7参照)。

そうだ、献金とは、愛の問題なのだ、と。

ところで、一体、献金のどのような部分が愛の問題なのでしょうか。

それは、パウロによれば、

貧しい人々への富を分配する意味で、愛に溢れた行いでした。

パウロは言います。

 

あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、

いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、

こうして釣り合いがとれるのです。(Ⅱコリ8:14)

 

そのように考えると、神殿税が、

貧しい人々の状況を考えず、

搾取を正当化するシステムになっていたことが、

どれほど神のみ心から離れていたことかがわかるでしょう。

そして何よりも、私たちは日々、神から多くの恵みを与えられています。

そのすべての恵みに対する感謝や神への愛を、

私たちは献金を通して、神の前で表すことが出来ます。

しかし、私たちに与えられているのは、お金だけではありません。

命も、能力も、時間も、友人関係も、住む場所も、

ありとあらゆるものすべてが、神から与えられた物です。

ですから、大前提として、私たちは神に与えられているすべてのものを

神に返し切ることなど、決して出来ないのです。

だから、神は、そのような私たちに、

与えられたものの10分の1を捧げるという指針を示されたのです。

預言者マラキを通して、神は私たちにこのように語り掛けられました。

 

十分の一の献げ物をすべて倉に運び

わたしの家に食物があるようにせよ。

これによって、わたしを試してみよと

万軍の主は言われる。

必ず、わたしはあなたたちのために

天の窓を開き

祝福を限りなく注ぐであろう。(マラキ3:10)

 

私たちに与えられているものは、お金だけではありません。

その意味で、ここで示されている「十分の一」を

お金のみで捧げることなど決してできません。

だから、私たちは、最終的には、この指針を前にするとき、

神の前で祈りながら、考えなければいけません。

自分で捧げ物の額を決めなければいけません。

実は、これは、とても難しいことだと思います。

最初から決まった額を義務として示される方が、正直言うと、楽です。

しかし、神はそれを喜ばれません。

あなたが与えられた分にふさわしく捧げるようにと、

神はあなたを招いているのです。

思考停止するのではなく、その時、その時の状況を顧みながら、

神に祈り求め、神に信頼しながら、捧げる。

それが、神が私たちに求めている信仰のあり方です。

このような悩みや葛藤のただ中に置かれる

私たちに対して、神は言います。

「わたしを試してみよ」と。

驚くべきことに、この言葉は、神からの挑戦状のようなものです。

神を試みてはならないと、聖書では命じられているにも関わらず、

お金の問題において、財産の問題において、

与えられているものを神に捧げるという、

とても難しく、また真剣で、私たちの生活がかかっている問題について、

「わたしを試してみよ」と、神は、私たちに言われるのです。

そうすれば、「必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き

祝福を限りなく注ぐであろう」と。

この世界を造り、今もこの世界を治めておられる方が、

私たちにこのように約束されているのです。

だから、私たちは神に捧げることを通して、

神への信頼を表明することが出来るのです。

正直に言うと、私はきょう、

語るべきことをうまく整理できずに語っています。

それは、私にとっても、また皆さんにとっても、

お金の問題は、生きる限り、頭を悩ませる問題だからです。

しかし、そのようなときこそ、

私たちはイエスさまの言葉をいつも思い起こしたいと思うのです。

イエスさまは、このように語られました。

 

あなたがたは

神と富とに仕えることはできません。(マタイ6:24)

 

あなたの宝のあるところ、

そこにあなたの心もある(マタイ6:21)

 

富にとらわれて、お金にとらわれて生きてしまいやすい、

私たちの現実を、イエスさまはよく理解しておられるから、

イエスさまはこのように語られたのです。

献金を通して、神にお金を捧げるとき、

私たちは自分の所有するものの一部を手放します。

実際問題、私たちには日々の生活があるため、

一部しか、ほんの僅かしか、手放せません。

しかし、神は、私たちに「献金」という手段を与えることを通して、

私たちが手元にあるお金を、財産の一部を手放し、

生活のすべてを神に委ねる道を与えてくださいました。

手放すのは、与えられたうちの僅かかもしれません。

しかし、私たちは、富に囚われて生きることから

解放される道が与えられているのです。

そのとき、はじめて、私たちは、

心からこう祈ることが出来るのではないのでしょうか。

「私の手元に残されたものを正しく用いることが出来ますように」と。

私たちの手元にあるもの。

それは、お金だけではありません。

私たちは、そのことを常に思い起こす必要があるでしょう。

そうであるならば、私たちは様々なものを通して、

神に捧げ物をすることが出来るはずです。

時間を注ぐことを通して。

与えられた能力や才能を通して。

あなた自身の存在を通して、あなたは捧げ物をすることが出来るのです。

神が、私たちに求めておられるのは、

お金を捧げきることではありません。

そうではなく、神が私たちに求めておられるのは、

私たち自身を神のために用いていただく器として捧げることです。

そして、私たちの行う捧げ物は、ある一つの祈りに集約されます。

それは、「あなたの御国が、天の国が来ますように」です。

私たちが何かを捧げるとき、私たちが神の前に携えた捧げ物は、

御国がこの世界に広がっていくために用いられていきます。

神の支配がこの世界に訪れるために、用いられていきます。

貧しい人々に手が差し伸べられることを。

神の支配が訪れることを。

そして、すべての人々に、差別のない世界が来ることを。

敵を憎むのではなく、敵対する人々を愛する道が開かれることを。

神が支配される場所において、神の約束が実現されていくために、

神は私たちの捧げ物を、そして私たち自身を用いてくださるのです。

ですから、私たちは、神に信頼し、神に期待をしながら、

義務ではなく、心から神への捧げ物を続けていこうではありませんか。

「主よ、この捧げ物を通して、神の御国を建て上げてください」と。

そして、どうか、あなた方が神に捧げる捧げ物が、

喜びと感謝に溢れたものであり続けますように。

喜びと感謝に溢れた捧げ物を神が受け取られるとき、

神が預言者マラキを通して約束されたように、

そのとき、天の窓はあなた方のために開かれるのです。