「小さな者と共に生きる」

「小さな者と共に生きる」

聖書 エレミヤ書 23:1-4、マタイによる福音書 18:1-14

2018年 5月 20日 礼拝、小岩教会

 

天の国に相応しいのは、「子どものような者」だ。

「心を入れ替えて子供のようにならなければ、

決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)。

何て危険なことをイエスさまは語るのでしょうか。

私たちは、子どものようになることが

どれほど危険なことであるかをよく知っています。

家庭が傷つき、大人たちの都合で、

子どもたちが危険に晒されています。

悪意をもった人々の手で、

純真な子どもたちが傷つけられています。

幼い子どもが、なぜこんなにも簡単に

命を落とさなければならないのかと、

私たちはこれまで何度思ったことでしょうか。

そうです、子どもたちは、いつの時代も弱い存在です。

子どもたちは、支配される立場にあります。

教育を受ける権利が与えられているけれども、

大人の都合、国家の都合に合わせて、

教育が提供されることがしばしばあります。

また、子どもたちは、

自分の力だけで生きていくことが出来ないため、

親や、周りの大人たちを信頼し、

彼らに依存して生きなければいけません。

それなのに、育児放棄や虐待が絶えません。

そうです、子どもであることは、とても危険ことなのです。

ですから、私たちの願いは、

イエスさまの言葉とは正反対のところにあるのかもしれません。

成熟し、自立し、他の何ものにも頼らずに

生きることの出来る大人になること。

それこそが、私たちの願いなのではないでしょうか。

歳を重ねれば、重ねるほど、

私たちは子どもからは遠ざかり、子どもには戻れません。

いいえ、心の底から、戻ろうとなど思ってはいないのです。

ただ、子どもになることを前向きに受け取れないのは、

何も、現代に生きる私たちだけではありません。

イエスさまの時代に生きた人々は、

私たち以上に、子どもになることに対して、

否定的な感情を抱きました。

子どもたちは、完全な価値を持つ個人とは

見られていなかったからです。

未完成で、理性がなく、教育が必要な存在。

それが子どもという存在でした。

だから、子どもたちは、人数を数えるときには、

その数には入れられませんでした。

そのため、「子どものような者にこそ、

天の国は開かれる」とイエスさまが語ったとき、

人々は驚きを覚えて、イエスさまの言葉を

その心に刻み込んだことでしょう。

そして、同時に、彼らは首をかしげました。

「この男が語ることは、

一体、どういう意味なのだろうか?」と。

イエスさまは一体、どのような意味を込めて、

「子どものようにならなければ」と語ったのでしょうか。

 

イエスさまはきっと、子どもたちがその生活も、心も、すべて、

親や大人たちに頼り切って生きているように、

天の父である神に私たち人間は、

完全に依存して生きるべきだという意味を込めて、

このように語ったのだと思います。

「心を入れ替えて子供のようにならなければ、

決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)と。

確かに、私たち人間を造られた主である神に、

完全に信頼して生きることは、

イエスさまがこれまで何度も語ってきたことでした。

でも、それがどれほど難しいことであるかを

弟子たちの言葉が私たちに告げています。

「イエスさま、天の国において

一番偉いのは誰なのでしょうか」と(マタイ18:1参照)。

このようにイエスさまに問いかけた弟子たちは、

イエスさまに従っている者として、

将来、天の国において、

ある程度の地位が与えられることを期待していたのでしょう。

弟子たちのように、あからさまに

地位や名誉を求めることはないかもしれませんが、

そのような思いが、私たちの心にうずまいているのは確かです。

私たちは、支配される側にいるよりは、

物事を支配し、上に立つ側にいる方を好みます。

しかし、そんな私たちに向かって、

イエスさまは「子どものようになれ」と語りかけるのです。

子どもたちは、時に、あまりにも簡単に、

私たちが当然と思っている価値観を崩します。

ですから、その意味で、子どものように生きるとは、

自分が当然と思っている価値観で生きることを

やめることと言えるでしょう。

そうであるならば、私たちに必要なのは、

自分が当然と思っている世界で生きるのではなく、

神が私たちをご自分の子どもとして扱い、愛し、

私たちをいつも養ってくださることを心から信頼出来る、

そのような世界で生きることです。

私たちが変えられないと信じ込んでいる、

この世界の価値基準で、すべてを判断することを捨て去り、

神の国の価値基準を子どものように信頼して、受け取る。

その時、私たちの前に、神の国は開かれていくのだと、

イエスさまは宣言されたのです。

ところで、イエスさまは、「子どものようになるように」と命じた後、

「子どもたち」を「小さな者」と言い換えて話を続けました。

イエスさまが語る、「小さな者たち」とは、

明らかに、保護され、守られる必要がある人たちのことです。

そして、それは、弱さを抱え、苦しみを受けている人たちのことであり、

この世界で、不当な扱いを受け、軽んじられている人たちのことです。

そのような人々に、神は目を留めてくださると

イエスさまは告げています。

100匹いる羊たちの中から1匹の羊が迷い出たとき、

残りの99匹を置き去りにしてまで、

たった1匹の羊を探し続ける羊飼いのように、

神は、小さな者たちに目を留めているのだと。

当時の社会において、

子どもたちは取るに足りない存在と見られていました。

しかし、この羊のたとえにおいて、

失われた一匹の羊は、絶対的な価値をもっています。

イエスさまによれば、「小さな者たち」も「子どもたち」も、

この羊のように、神の前で絶対的な価値を持っているのです。

だから、このような「小さな者たち」が、

信仰者の群れにあって、教会において、

決して軽んじられることがないようにと、

イエスさまはきょうの物語を通して警告しているのです。

でも、神が私たちに絶対的な価値を見出してくださるとはいえ、

正直に言えば、自分から小さな存在、子どものような存在には、

自ら進んでなりたいとは誰も思わないでしょう。

私たちは、どうしても自分のもとに降りかかってくる

不利益を考えてしまうのです。

子どものように、小さな者のように生きるときに受ける可能性のある

不当な扱いが怖いのです。

信仰をもって生きるときに出会う苦しみに怯えているのです。

また、何より、神の国が、神の支配が、

私たちのもとに訪れることを心から喜べません。

神の支配ではなく、自分の願い、自分の欲求を実現したいと

いつも追求しているからです。

自分の心地よい生き方を追い求め、それをお互いに押し付け合って、

ぶつかり合い、傷つけ合う。

そのようにして、時には、

自分より弱い立場の者をないがしろにしてしまっているのです。

それなのに、一体どのようにして、

私たちは子どものようになれるというのでしょうか?

答えは明らかです。

私たちの力では無理です。

神の霊の助けがなければ、聖霊の助けがなければ、

私たちが子どものようになることなど、決して出来ません。

しかし、神の霊が私たちのもとに風をもたらすならば、

私たちは、神の子どもに変えられるのです。

あの日、ペンテコステの日に、聖霊が与えられました。

聖霊は、私たちを造り変える、神の息吹です。

あなた方一人ひとりに吹き付ける、聖霊の息吹こそが、

あなた方を子どものようにするのです。

聖霊の働きによって、私たちは、神の子どもとされるのです。

いいえ、あなた方は既に神の子どもとされているのです。

あなた方は、神の子どもなのです。

その意味で、教会とは、神の子どもたちの群れです。

そして、イエスさまが

子どもたちを「小さな者たち」と言い換えたことを考えるならば、

教会とは、小さな者たちの群れです。

そして、ここに集う一人ひとりは、小さな者であるにも関わらず、

神の前で尊い、絶対的な価値をもつ存在です。

だからこそ、私たちはイエスさまが勧めるように、

自分を低くしなければなりません。

自分を高くして、自分よりも小さな者たちに

一方的に教え、諭すことはとても簡単なことです。

自分の価値観を押し付け、支配することも

相手が自分より小さな者であるならば、たやすいことです。

そうではなく、私たちは、自分を低くして、子どものようになり、

小さな者たちと共に、子どもたちと共に生きるように招かれています。

だから、互いに学び合う、謙虚さこそが必要なのではないでしょうか。

その謙虚さを私たちにいつも与えてくれるのが、

パウロが語る「キリストのからだ」というイメージだと思います。

私たちは、主イエスにあって、ひとつのからだです。

誰の目から見ても、小さく、弱い、

取るに足りない存在であったとしても、

キリストのからだにおいて、大きな価値があるのです。

からだには、弱い部分も、強い部分もあります。

でも、からだにとって大切なのは、

体全体として、正しく機能することです。

ですから、弱い部分も、強い部分も、

それぞれの部分がお互いに補い合い、助け合い、

お互いの良さを引き出し合って、

ひとつのからだとして、共同体を建て上げていくようにと

神から招かれているのです。

からだに必要のない部分がないように、

キリストのからだである教会にも、不必要な者は誰一人としていません。

すべての者に神は価値を見出し、あなたは私の宝だと語りかけています。

神にとってそうならば、私たち一人ひとりにとっても、

すべての人が、宝とみなされるべきです。

ですから、私は願います。

苦しみや悲しみを背負い、弱さを抱えている、小さな者たちこそが、

宝のように愛されますように。

聖霊の働きを通して、すべての者が子どものようにされなければ、

そのような共同体は築けません。

だから、このペンテコステの日に、私たちは神に祈り求めましょう。

「神の霊よ、私たちの教会に強く聖霊の風を吹きつけてください」と。