「私たちは何度赦されたのだろうか?」

「私たちは何度赦されたのだろうか?」

聖書 創世記 4:23-24、マタイによる福音書 18:21-35

2018年 6月 3日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

主よ、何回赦すべきでしょうか?(マタイ18:21)

 

何と切実な問いかけでしょうか。

そうです、私たちにとって、

誰かを赦し、誰かから赦されることは、生涯の課題です。

私たちは、誰もが赦しを必要としています。

気づかぬうちに、誰かを傷つけているかもしれません。

何気なく口にした言葉が、

共に生きる仲間たちに深い傷を与えることがあります。

良かれと思って行動した結果、誤解を与えたり、

誰かの怒りを買ったりすることだってあります。

でも、誰かを傷つけることを恐れて生きることは、

とても息苦しいことです。

ですから、私たちは些細な傷であれば、お互いに目をつぶり、

「全く、しょうがないな」と言って、

赦し合いながら、毎日の生活を送っています。

もしも、私たちがお互いに赦し合うことに失敗するならば、

関係が壊れてしまいます。

いいえ、どちらか一方が相手を赦すことを拒絶するならば、

関係が悪化するばかりです。

ですから、私たちは、いつも誰かを赦す備えが必要です。

そして、自分自身も赦される必要があります。

私たち人間を造られた神は、

私たちがたった一人で生きていくことが出来るようには、

私たちのことを造りませんでした。

誰かと共に生き、共に生きるその誰かとの関係性を喜ぶ存在として、

神は私たち人間を創造されたのです。

ですから、私たちは誰かと共に生きることが必要です。

家族や仲間たちと一緒に生きることが必要です。

でも、残念ながら、共に生きていく上で、

関係を損ねてしまうことが時としてあります。

口喧嘩したり、

誤解してしまったり、

対立してしまったり、

理解し合えなかったり、

お互いに背を向け合うことがあるのです。

ですから、私たちには赦しが必要なのです。

この私が、目の前にいるあの人を赦す準備が必要なのです。

そして、この私が、頭に思い描いているあの人から、

赦される必要があるのです。

だから、私たちは、神に祈り求めます。

「主よ、私たちには赦しが必要です」と。

ペトロも、誰かから赦され、誰かを赦すことの必要性、

そしてその難しさをよく知っていました。

だから、彼はイエスさまに尋ねました。

 

主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、

何回赦すべきでしょうか。

七回までですか。(マタイ18:21)

 

ユダヤの律法を教える教師たちは、

最大4回赦せば十分と考えていたそうです。

ですから、「7回までですか」と語るペトロは、この時、

自分が受けてきた教えを越えて人を赦したいと願っているといえます。

その上で、「私が人を赦すことが出来る限界は7回までだと思いますが、

イエスさま、果たしてそれで十分なのでしょうか?」と、

ペトロはイエスさまに尋ねたのです。

ペトロのこの質問に、イエスさまは何と答えたでしょうか?

イエスさまの答えは、ペトロの予想を遥かに越えたものでした。

 

七回どころか

七の七十倍までも赦しなさい。(マタイ18:22)

 

さきほど朗読された、旧約聖書の創世記において、

レメクという名前の男が登場しました。

彼は「カインのための復讐が七倍なら

レメクのためには七十七倍」と語り、

復讐に走る決意を表明しています。

イエスさまは、レメクのこの言葉に応答する形で、

赦しについて語っています。

「復讐に走るのではなく、徹底的に赦し続けなさい」と。

でも、このようなイエスさまの答えを聞いた

ペトロや弟子たちの反応をマタイは記していません。

彼らはどんな思いでイエスさまの言葉を聞いたのでしょうか。

ペトロが考えるよりも遥かに多く、

何度も、何度も赦し続けるようにとイエスさまは語ります。

それを聞いた弟子たちは、

頭に数人の人の顔を思い浮かべたことでしょう。

「あの人たちをいつまでも赦し続けることが出来るだろうか?」と。

想像すればするほど、難しさを感じてきます。

「イエスさま、一体、いつまで赦し続ければ良いのでしょうか?

私はもう限界です!

もうあの人を赦せません!」

そのように叫び、イエスさまが願うようには人を赦せない、

そのような自分自身に失望する未来が、

人を赦すことに諦めてしまう明日が、

簡単に想像できたことでしょう。

「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。

もしも、イエスさまの言葉が、この言葉だけで終わるならば、

私たちは自分自身に失望して終わることになるでしょう。

さきほど一緒に交読した、詩編103篇において、詩人が

「主はわたしたちを

どのように造るべきか知っておられた。

わたしたちが塵にすぎないことを

御心に留めておられる」(詩編 103:14)と歌うように、

私たちは塵に過ぎない、儚い存在です。

しかし、感謝すべきことに、

そのような塵に過ぎない私たちが、自分自身から

人を心から赦すことがどれほど難しいことであるかを

イエスさまもよく知っておられました。

だから、イエスさまは、「七回どころか

七の七十倍までも赦しなさい」と語ったその直後に、

ひとつのたとえを語り始めたのです。

このたとえに登場するのは、

1万タラントンの借金を抱えている人です。

1タラントンは、6000デナリオンです。

当時の一日の労働賃金は、1デナリオンでしたので、

1タラントンは6000日分の賃金、

つまり15年以上休みなく働いて、

ようやく手にすることの出来る金額でした。

1万タラントンは、その1万倍ですから、

どれほど莫大な金額かがわかるでしょう。

15万年休みなく働いてもまだ返せないほどの負債を、

彼は抱えていたようです。

そのような金額は、一人の人が一生かけても返せるはずありません。

ですので、この人は、恐る恐る、王のもとへ出て行き、

1万タラントンを用意することが

出来なかったことを伝えたことでしょう。

すると、王は、自分の家来である彼に、

「あなたの身を売って、借金を返済しなさい」と伝えます。

自分の身を売るだけでなく、愛する家族も、持ち物もすべて売り払って、

借金を返すようにと王は彼に迫るのです。

それを聞いて、この人は、王に懇願します。

「どうか待ってください!きっと全部お返しします!」と。

ありえない提案です。

15万年以上も、人は待てません。

1万タラントンもの大金をすぐに稼げるはずがないのです。

そんなの幻想です。

しかし、彼の言葉を聞いたこの王は、突然、態度を変えます。

彼の抱える莫大な負債をすべて帳消しにするというのです。

あり得ません。

あり得ないことが起こりました。

彼は心に抱えていた大きな重荷を下ろすことが出来、

喜びながら王のもとを去ったことでしょう。

ところが、その直後に、彼は自分に

100デナリオンの借金をしている仲間と出会います。

100デナリオンとは、3ヶ月ほど働けば稼げる金額です。

彼が免除された負債の60万分の1ほどの金額です。

あれほど莫大な金額の借金を完全に赦されたのに、

彼は自分の仲間を見つけるとすぐに、

仲間を捕まえて、首を絞めながら、「借金を返せ」と

自分の権利を主張するのです。

彼に借金をしている仲間は、彼に懇願して言います。

『どうか待ってくれ。返すから』。

もともとの言葉では、1万タラントンの借金をしたこの人が

王に懇願したときに語った言葉と

まったく同じ言葉がここでが使われています。

「どうか待ってください。

きっと全部お返しします」と。

でも、仲間の願いを彼は聞かず、

その仲間を引っぱって行き、借金を返すまで牢に入れてしまったのです。

この人が行ったことは、すぐさま王の耳に入りました。

王は彼を呼び出して言います。

「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を

憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ18:33)。

そう言って、王が彼を投獄したところで、このたとえ話は幕を閉じます。

なぜイエスさまは、このようなたとえ話を語ったのでしょうか?

勘違いをしてはいけないのは、「人を赦さなければ、

私たちは神からの赦しを得られない」ということを、

イエスさまは伝えようとしたわけではない、ということです。

このたとえで語られていることの中心は、

王さまの驚くほど寛大な行いです。

なぜ、この王は、自分の家来が抱える

1万タラントンの借金を帳消しにしたのでしょうか?

それは、彼と関係を取り戻したかったからだと思います。

この借金を帳消しにしなければ、

彼は、王の家来という立場を失い、身を売られることになります。

しかし、莫大な借金が帳消しにされたことによって、

彼の前に未来が拓けました。

王の家来という立場も、王との関係も保たれました。

この話を通して、イエスさまは、

このたとえ話を聞く私たち一人ひとりに伝えているのです。

「あなたも、1万タラントンの借金を赦されたこの人と同じなのだ。

この人と同じように、あなたは神から赦されている。

あなたとの関係を失いたくないから、神はあなたを赦している。

神は、あなたを愛してやまないから、

いつまでも、どこまでも、あなたを愛する決断をしてくださったから、

どれほど傷つけられても、神はあなたを愛し、赦している」と。

そのようにして、イエスさまは、

何よりもまず、神の愛を思い起こすように私たちを招いているのです。

「あの人を赦さなければ、赦さなければ」と思うのではなく、

「まずは、神の愛と赦しを経験しなさい」と、

イエスさまは、このたとえ話を通して、私たちに語りかけているのです。

私たちに対する神の愛と赦しは、

イエスさまの生涯を通して明らかにされています。

イエスさまは、すべての人に罪の赦しを与え、

信じるすべての者に救いの道を開くために、

十字架にかかり、その生命を差し出されました。

神は、命を投げ出すほどに、あなたを徹底的に愛している。

あなたを愛してやまない神が、

あなたとの関係を取り戻したいから、

あなたの罪を赦してくださった。

だから、愛されたのだから、愛しなさい。

赦されたのだから、赦しなさい。

どれほどあなたが神から愛され、

神から赦されているかを思い出すならば、

あなたは、あの人を赦すことが出来る。

神があなたに働きかけてくださるから、あなたには出来る。

神は、きょうの物語を通して、

私たちにそのように語りかけておられるのです。

もちろん、私たちの現実は、大きな困難を抱えています。

簡単には、赦すことは出来ないかもしれません。

誰かを赦そうとする時、私たち自身も傷つくかもしれないからです。

心が張り裂ける思いをするからです。

でも、私たちは今、現在だけを見て、すべてを判断しません。

私たちは、将来を見つめるようにと招かれています。

そうです、イエスさまが語ったこの話は、

「天の国のたとえ」です。

そのことを思い起こすならば、私たちは将来の希望を抱きながら、

今、現在を生きることが出来ます。

確かに、今は、徹底的に赦すことは、

私たちの力では出来ないかもしれません。

私たちには、愛が欠けているかもしれません。

でも、将来、天の国は必ず私たちのもとに訪れます。

天の国が私たちのもとに訪れるならば、

私たちは赦し合うことが出来るのです。

ですから、私たちはいつも神の愛と赦しを見つめましょう。

いつも、神の愛と赦しを喜んで受け取りましょう。

そして、神から受け取った愛と赦しを携えて、

平和を祈りながら出て行きましょう。

「どうか主よ、あなたに愛され、あなたに赦されたように、

私たちも共に生きる人々を愛し、お互いに赦し合って、

平和を築いていくことができますように」と。