「神が与えた道しるべ」

「神が与えた道しるべ」

聖書 創世記 2:18-24、マタイによる福音書 19:1-12

2018年 6月 10日 礼拝、小岩教会

 

きっと誰もが心のどこかで「理想」を抱いていると思います。

理想の自分、理想の生き方、

理想の社会、理想の家庭、

そして、理想の教会という具合に。

もしもすべての物事が、私たちの抱く理想通りになるならば、

どれほど喜ばしいことでしょうか。

でも、私たちは理想を掲げた後、

自分たちの置かれている状況を見るたびに、

その現実を見つめるたびに、失望し、落胆します。

理想通りにはいかない。

理想とはかけ離れている。

いや、もしかしたら、

日に日に理想から遠ざかっているかもしれないからです。

その意味で、私たちは、

理想と現実の狭間で生きているといえるでしょう。

でも、そもそも、私たちの理想の歩みとは、

一体どのような歩みなのでしょうか?

言い換えるならば、一体、何が神に喜ばれ、

何が善いことなのでしょうか……?(ローマ12:2参照)

きょう開かれた福音書の物語において、

イエスさまはファリサイ派の人々と出会い、

彼らと律法の解釈をめぐる論争を行っています。

律法とは、ヘブライ語で「トーラー」といって、

教えや導きを意味します。

つまり、何が神に喜ばれ、何が善であるかを

人々に教え、人々を導くのが律法の役割なのです。

そのような律法の解釈をめぐって、

ファリサイ派の人々はイエスさまにこのように尋ねました。

 

何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、

律法に適っているでしょうか。(マタイ19:3)

 

彼らがイエスさまに尋ねているのは、

おそらく、旧約聖書の申命記24章に記されている、

離婚に関する規定についてです。

そこには、このように記されています。

 

人が妻をめとり、その夫となってから、

妻に何か恥ずべきことを見いだし、

気に入らなくなったときは、

離縁状を書いて彼女の手に渡し、

家を去らせる。(申命記 24:1)

 

「妻に何か恥ずべきことを見いだし、

気に入らなくなったときは」という、

申命記に記されているこの言葉は、

かなり広く解釈される可能性のある、曖昧な表現でした。

夫がいながら、他の男性と関係をもつ。

身体的、また精神的な暴力を振るう。

そのような理由から離婚を求めるのならば、

現代の社会でも起こっている問題ですから、

離婚の正当な理由として理解することは出来るでしょう。

でも、残念ながら、「何か恥ずべきこと」

「気に入らなくなったとき」という言葉は、

もっと広く受け取られる可能性もありました。

たとえば、妻が調理に失敗した場合。

町で他の男性に話しかけた場合。

隣の家まで聞こえるような大声で話した場合。

このようなことも「恥ずべきこと」や

「気に入らなくなったとき」に含まれ、

離婚を正当化する理由となると、考える人たちがいました。

その上、ここでは、離婚に関して、

女性の側の権利が何も語られていません。

その意味で、離婚についての律法は、

解釈上の大きな問題を抱えていたのです。

そのため、この律法の解釈をめぐり、

人々の間で意見が交換されるのは当然起こるべきことでした。

しかし、ファリサイ派の人々は、

この言葉のふさわしい解釈は何であるかを、一緒に考えるために、

イエスさまに意見交換を求めたわけではありませんでした。

マタイは、イエスさまを「試そうとして」、

ファリサイ派の人々が近寄って来たと記しています。

そして、彼らはここで、

イエスさまにこのように尋ねているのです。

「何か理由があれば、

離婚は律法に適っていると言えるのでしょうか?

ある人が、自分の意のままに、

自分の方から、好き勝手な理由をつけて、

妻と離婚することが出来るのでしょうか?」と。

ファリサイ派の人たちは、

イエスさまが、自分たちのこの質問に対して、

「自分勝手な理由から、離婚をしてはいけない」と

答えることを想定して、このように質問をしています。

ユダヤの男性たちの多くは、

役に立たない妻と離婚することは、

自分たちに与えられている当然の権利だと考えていたそうです。

ですから、もしも彼らの狙い通りに、

イエスさまが安易な離婚に反対をするならば、

ユダヤの多くの男性たちの心に、

イエスさまに対する敵対心を植え付けることが出来たでしょう。

しかし、イエスさまは、離婚の問題を直接取り扱いませんでした。

イエスさまは、彼らの質問にこのように答えます。

 

あなたたちは読んだことがないのか。

創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。(マタイ19:4)

 

イエスさまは、離婚の良し悪しについて語る前に、

そもそも神がその初めに定めた結婚という制度が、

どのような意味、どのような目的、

そしてどのような祝福があるかを示されました。

イエスさまは続けて語ります。

 

 

それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、

二人は一体となる。

だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。

従って、神が結び合わせてくださったものを、

人は離してはならない。(マタイ19:5-6)

 

「別々の人生を歩んできたにもかかわらず、

考え方や好みも違うにもかかわらず、

神のわざによって一つとされる。

人間的な思いで結び合わされるのではなく、

神が一人の人と、一人の人を結び合わせてくださる。

神が、結婚するふたりの間にある、

様々な違いを乗り越えさせてくださる。

夫婦という関係の中に、神が働いて、

神が祝福を与え、神が時間をかけてふたりを一体としてくださる。

だから、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。

いいや、本人たちでさえ、引き離すべきではない。

これこそが、神が夫婦に与えた、道しるべだ」と、

イエスさまは語られたのです。

イエスさまはこのように語ることを通して、

離婚の制度を完全に否定したわけではありません。

「あなた方に、何よりも目を向けてほしいのは、

結婚を通して、神があなた方を祝福し、

そこに神の愛の業が明らかにされるということなんだ」と、

イエスさまは力強く、その場にいる人たちに伝えたのです。

このように結婚について語った上で、イエスさまは、

離婚の制度が律法に記されている理由を語り始めました。

イエスさまは言います。

 

あなたたちの心が頑固なので、

モーセは妻を離縁することを許したのであって、

初めからそうだったわけではない。(マタイ19:8)

 

彼ら、ファリサイ派の人々が解釈を求めたのは、

結婚関係の破綻という、現実に起こりうる出来事を

どのように取り扱うべきかという問題でした。

それに対して、ここでイエスさまが問題としているのは、

理想と現実の問題です。

イエスさまは「何が神の喜びであるのか」を示した上で、

つまり、神が結婚という制度において、

私たち人間に与えた道しるべを示した上で、

離婚制度について触れています。

「現実だけを見て議論するのは、信仰者のあるべき姿ではない。

神が与える祝福の光に照らして、

神が示された将来の希望を通して、

現実の問題を考えなければならない」と。

つまり、「あなた方が離縁状に記す、

妻の恥ずべきことや気に入らなくなったこととは、

二人は一体となるという、神が与えた祝福を

無意味なものにしてしまうほど、深刻なものなのか?」と、

イエスさまはその場にいた人々に問いかけられたのです。

このように、律法の解釈を巡るこのときの論争が、

信仰者の理想と現実の問題であるのならば、

それは何も、結婚だけの問題ではないことに気付かされます。

この世界のあらゆる事柄に、私たちは理想と現実を見ます。

子育て。

仕事。

学問。

人付き合い。

私たちは、あらゆることにおいて、

自分の掲げる理想と現実の狭間に生きています。

その狭間で、もがき苦しんでいます。

私たちが、理想と現実の間でもがき苦しむ理由は、

人間の罪や弱さ、そしてこの世界の悪によるのでしょう。

子どもたちを心から愛したいのに、

自分のことばかり愛してしまう。

倫理的には間違えているとわかっていながら、

あやまちを犯すこともある。

出来る限りすべての人と平和でありたいと願いながらも、

対立や争いを引き起こしてしまうこともある。

そのような、理想と現実のギャップに、

私たちは苦しんでいます。

でも、そのような私たちに、イエスは語りかけてくださるのです。

「はじめからそうであったわけではない」と。

そうです、私たちが何よりも思い起こすべきなのは、

現在の苦しみや難しさではなく、創造の秩序です。

神がこの世界を、そこで生きる私たちを

どのようなものとして造ってくださったのか。

そして、神がこの世界をどれほど善きもの、美しいものとして

創造してくださったのか、ということです。

それは、現実と神の創造の業のギャップを思い起こして、

失望するためではありません。

神の創造の善き業、美しき業が、

神の愛によって、回復されていく。

その様子が、聖書を通して、

神が掲げる理想として語られていることに

私たちは目を向けるべきなのではないでしょうか。

もしも私たちが現実しか見ないのであれば、

私たちは、弟子たちと同じような不満の声しか上げられないでしょう。

 

夫婦の間柄がそんなものなら、

妻を迎えない方がましです。(マタイ19:10)

 

でも、私たちは、今、この時の現状だけを見て、

すべてを判断するような、

刹那的な生き方をするようには招かれていません。

様々な夢や幻、将来の希望を、

神は私たちに与えてくださっています。

それは、実現不可能な空想物語ではありません。

もちろん、すぐには到達できるものでもありません。

しかし、「天の国において必ず完成する」という理想を、

将来の希望として、神は私たちに示してくださっているのです。

「結婚において、様々な違いを抱えているふたりだけれども、

将来に向かって、ひとつとなっていく」と。

だから、私たちは神によって示された理想を

道しるべとして歩んで行くことが出来るのです。

ところで、このとき、イエスさまは、

「理想はただひとつだけ」などとは言いませんでした。

結婚の問題について、イエスはこのように語っています。

 

結婚できないように生まれついた者、

人から結婚できないようにされた者もいるが、

天の国のために結婚しない者もいる。

これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。

(マタイ19:12)

 

結婚の祝福は語るけれども、

イエスさまは、それを人間に絶対必要なものとは語っていません。

天の国がこの世界に広がっていくために、

結婚を選ばない道だってあると、イエスさまは語るのです。

多様性が認められているのです。

その意味で、神が私たちに与える理想にも、

様々な道があるといえるでしょう。

だからこそ、私たちは、

時には、一度立ち止まってみる必要もあるのかもしれません。

「私たちが掲げる理想は、果たして、

神から受け取っているものなのだろうか?

神に喜ばれる、神が良しとされるものなのだろうか?」と、

神に尋ねる必要だってあるでしょう。

きょうも、私たち一人ひとりに、神は語りかけてくださっています。

神は、私たちに語りかけることを通して、

私たちに理想を与えてくださいます。

夢や幻、将来の希望を与えてくださいます。

時には、私たちが自分勝手に掲げる理想が、

神の語りかける言葉によって修正されることだってあるでしょう。

そのようにして、神は、私たちの人生に理想を与え、

私たちの今この時の歩みを、聖霊によって導いてくださるのです。

どうか、神が与えてくださる将来の光によって、

今というこの瞬間を照らし出されながら、

日々、神と共に、その一歩一歩を歩んで行くことが出来ますように。