「新しい世界で生きる」

「新しい世界で生きる」

聖書 出エジプト記 20:12-17 、マタイによる福音書 19:13-30

2018年 6月 17日 礼拝、小岩教会

 

イエスさまが、子どもたちをご自分のもとに招き、

「天の国はこのような者たちのものである」と語った物語の直後に、

マタイは、ある一人の青年が登場する話を記しています。

この青年は、イエスさまにこのように尋ねました。

 

永遠の命を得るには、

どんな善いことをすればよいのでしょうか。(マタイ19:16)

 

「永遠の命」とは、この地上での命が永遠のものであり、

死ぬことはない、というような意味のものではありません。

それは、神から与えられる命であり、

生き生きとした命にあふれる、

神との永遠の関係を意味する言葉です。

どうやらこの青年は、純粋に、心から、

永遠の命を得る者となりたいという願いをもって、

イエスさまのもとに来たようです。

そんな彼の質問に対して、イエスさまは、

「善い方はおひとりである」(マタイ19:17)と答えて、

神だけが善い方であることを伝えています。

その上で、私たちを命へと導きたいと願っておられる、

神の御心が、神が良しとされることが、

律法に記されているのだから、

律法を守るようにと促すのです。

「もし命を得たいのなら、

掟を守りなさい」と(マタイ19:17)。

でも、「掟を守れ」と言われても、

具体的にはどのようなことかはわかりません。

ですから、この青年は「どの掟ですか?」と

イエスさまに尋ねたのです。

 

すると、モーセに与えられた、あの有名な十の戒めの後半を

イエスさまは語り始めました。

 

殺すな、姦淫するな、

盗むな、偽証するな、

父母を敬え(マタイ19:18-19)

 

そして、それに加えて、

「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ18:19)と

イエスさまはこの青年に勧めます。

正直、当たり前のことを言われた気がしました。

昔から何度も何度も教えられてきたことを

イエスさまが繰り返しているように感じました。

ですから、イエスさまの言葉を聞いたとき、

彼は、このように答えたのです。

「そういうことはみな守ってきました。

まだ何か欠けているでしょうか」(マタイ19:20)と。

諦めにも似た言葉です。

「あなたも他の人と同じことを言うのですか。

律法を守れなど、耳にタコが出来るほど聞いています。

ですから、これまで私は律法を十分守ってきました。

人に迷惑をかけたり、多大な損害を与えることはしませんでした。

父母を敬いました。

貧しい人たちに施しだってしています。

もちろん、これからもそうするつもりです。

でも、そのような私ですが、

自分が永遠の命を得ることが出来るのかわかりません。

だから、私は、各地で “天の国は近づいた” と語る

あなたのもとに来て、今、このようにしてあなたに尋ねているのです。

イエスさま、どうかお願いです。

永遠の命を得るための方法を教えてください。

神の国に入るために、私は何が出来るのでしょうか?

律法を守る以外に何かあるのでしょうか?

私には、まだ何か欠けているでしょうか?」

「まだ何か欠けているでしょうか……」。

この言葉に、この青年が抱えていた悩みが

表されていると思います。

彼は、神が願うことを行っているつもりでいます。

正しいことを行っていると自負してます。

それこそが、永遠の命に至る道だと

これまで教えられてきました。

でも、そんな自分だけれども、

「何か欠けている」と、この青年は感じていたのです。

「一体、それは何なのだろう?

もっと善を行うことなのだろうか?

永遠の命を得るために、

自分に足りないことは何なのだろうか?

一体、何が欠けているのだろうか……?」

このような悩みを抱えているこの青年と

ゆっくりと対話をすることを通して、

イエスさまは、彼の抱える悩みを引き出されました。

「まだ何か欠けているでしょうか」と悩むこの青年に、

イエスさまは、このように答えられました。

 

もし完全になりたいのなら、

行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。

そうすれば、天に富を積むことになる。

それから、わたしに従いなさい。(マタイ19:21)

 

イエスさまは、この青年に、

持っている財産を一度手放すことを勧めています。

「あなたが持つその財産を用いて、

貧しい人々に手を伸ばしなさい。

そのようにして、自分を愛するように

あなたの隣人を愛しなさい」と。

でも、彼は、自分の手元にある富を

手放すことが出来ませんでした。

彼は、イエスさまの言葉を聞いて、

悲しみを覚えて立ち去って行きました。

なぜ彼はイエスさまの教えを

聞くことが出来なかったのでしょうか。

イエスさまは、金持ちが天の国に入ることの難しさについて、

「金持ちが神の国に入るよりも、

らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と表現し、

彼が悲しみながら立ち去って行った理由を語ります。

でも、あの青年が覚えた悲しみや失望は、

弟子たちも感じたものでした。

「あれほど神の前で正しく、

神の御心を行おうと願っているあの青年が、

永遠の命を得ることが出来ないなんて!

確かに、彼は財産を手放すことに抵抗を感じ、

悲しみながら去って行った。

けれども、それは、誰もが出来ることではないじゃないか?

その上、彼のように、律法を守り、神の前を誠実に歩み、

永遠の命を純粋に求めるような青年が、

一体どれほどいるだろうか……?

そんな彼が永遠の命を得ることについて、

失望しながら去って行くことになるなんて……!」

「それでは、だれが救われるのだろうか!」(マタイ19:25)

弟子たちは、悲しみながら去って行ったあの青年に共感しながら、

イエスさまにこのように語ったのだと思います。

確かにそうです。

弟子たちの言うとおりです。

誰も自分の努力で、自分を救うことは出来ません。

誰も、自分の力で、永遠の命を獲得することは出来ません。

自分の力で、神の喜びの道を歩み抜くことなど誰にも出来ません。

それこそ、まさに、イエスさまが伝えようとしたことだと思います。

つまり、「自分を愛するように

あなたの隣人を愛しなさい」という律法を

誰も徹底的に守ることは出来ないことに気づかせるために、

イエスさまは彼にとても難しい言葉を語ったのだと思います。

それでは、一体、どうすれば、

私たちは神の国に入れるのでしょうか?

私たちは何をすれば、

永遠の命を受け継ぐことが出来るのでしょうか?

イエスさまは語ります。

「子どものようになりなさい」と。

神が私たちに与える天の国とは、

この世界の常識が覆る世界です。

それは、私たちにとって、全く新しい世界といえるでしょう。

持っている財産がすべてではない世界。

能力や学歴、社会的な立場が

人の価値を決めるわけではない世界。

年齢や性別、肌の色や髪の色、好みや関心などによって、

誰かを過度に傷つけたり、

差別や攻撃の対象としてしまうようなことのない世界。

争いや分断、搾取や飢え乾きのない世界。

キリストにあって、すべての人が愛し合い、

手を取り合うことが出来る世界。

それこそが、まさに「神が恵みのうちに私たちに与えてくださる」と

イエスさまを通して約束された、天の国です。

この天の国を、神によって訪れる新しい世界を、

拒むことなく、心から受け止めることが出来るようになるために、

子どものようになりなさい」と、

イエスさまは私たちを招いておられるのです。

でも、子どもになることは、

私たちにとって、とても難しいことです。

おそらく多くの人が認めることだと思いますが、

いつの時代も、若ければ若いほど変わりやすいものです。

そして、反対に、歳を取れば取るほど、

変わるのが難しくなってくるものです。

きょうの物語に登場するこの青年は、

「青年」と訳されているギリシア語から、

おそらく20代だと考えられるので、まだまだ若いといえます。

でも、彼は、神が望む姿へと

自分を変えられなくなっていました。

その意味で、「子どものようになれるかどうか」は、

年齢だけの問題ではないと言えます。

時には、彼にとってそうであったように、

富が子どものようになることを邪魔します。

時には、自分の能力や才能が

神の望む生き方へと変わる邪魔をします。

時には、今与えられている立場や状況が

天の国が広がっていくことを邪魔します。

そして時には、私たちが子どものように

神の恵みを受け入れることを

私たち自身がこれまで信じてきたことが邪魔をするのです。

ですから、その意味で、

私たちは、自分の力では、

決して、天の国を得ることは出来ません。

自分の力では、決して、永遠の命を得ることなど出来ないのです。

それでは、どうすれば、子どものようになれるのでしょうか?

イエスさまは、弟子たちを見つめてこう言われました。

 

それは人間にできることではないが、

神は何でもできる。(マタイ19:26)

 

きょうも、イエスさまは変わらずに、

あなたを見つめて同じように語りかけてくださっています。

「子どものようになりなさい。

もちろん、あなたの力で子どものようになることなど不可能だ。

でも、神には出来るのだ」と。

私たちの力では子どもになることができないにも関わらず、

神の力によって私たちは子どもとされ、

天の国に招かれ、永遠の命を与えられています。

まさに、これは、私たちに与えられている神の恵みなのです。

私たちの側に理由は一切ありません。

神の側にのみ、理由があります。

神が私たちを憐れみ、私たちを愛してくださった。

だから、神はこの恵みを私たちに与えてくださったのです。

このような神の一方的な恵みを与えられた今、

私たちは、天の国と呼ばれる、新しい世界で生きています。

神の恵みは、律法の意味を逆転させます。

いや、本来意図した目的にかなった方法で、

私たちが律法を用いることが出来るように、

神の恵みが、律法を用いる私たちの歩みを方向づけるのです。

私たちは、律法に記されている善いことを行うから、

救われるのではありません。

また、私たちが神の思いにかなった生き方をしているから、

永遠の命を得るわけでもありません。

そうではなく、神の恵みによって救われ、永遠の命を与えられたから、

私たちは神の御心を行おうとするのです。

神の恵みこそが、私たちの歩みを突き動かす原動力なのです。

愛する皆さん、どうか忘れないでください。

天の国は、新しい世界は、私たちのもとに既に訪れています。

ですから、神の恵みを知り、神の恵みを受け取って、

いつもこの恵みに動かされて、日々歩み続けることが出来ますように。

それこそが、永遠の命を与えられ、天の国に招かれている、

あなた方にふさわしい最も生き方なのです。