「気前の良い神」

「気前の良い神」

聖書 出エジプト記 16:2-5、マタイによる福音書 19:27-20:16

2018年 6月 24日 礼拝、小岩教会

 

何だかこれって、不公平だと思わないでしょうか?

私たちが望んでいるのは、すべての人に公平である神の姿です。

そして、神がすべての人を平等に取り扱うことです。

でも、イエスさまが語るこのたとえ話は、

不公平が語られているように思えるのです。

イエスさまが語るこのたとえ話において、

たった一時間だけぶどう園で働いた人たちは、

「ふさわしい賃金を払おう」と、

ぶどう園の主人から約束されていました。

ほんの僅かな時間しか働けないのだから、

1時間分の給料をもらえればそれで十分だと思っていたでしょう。

しかし、彼らの手に渡されたのは1デナリオン。

つまり、一日分の労働賃金でした。

彼らは、驚くほど多くの報酬を与えられたことに喜びを隠せません。

そんな彼らの喜ぶ姿を見ていた人たちは期待し始めます。

特に、朝早くから働き始めた人たちならば尚更です。

「あの主人は、なんて気前が良いんだ!

1時間しか働いていない彼らが1デナリオンももらえるなんて!

ということは、朝早くから苦労して働き続けてきた自分たちは、

きっと、より多くの報酬を受け取れるはずだ!」

そのようなことを考え、期待に心を弾ませながら、

彼らは自分の順番を待っていました。

そして、いよいよ自分たちの順番が回ってきました。

手渡された金額はいくらだったでしょうか……?

 

1デナリオンでした。

残念ながら、それは、期待していたよりも少ない金額でした。

「もっともらえると思っていたのに……!」

そう感じた彼らは、主人に訴え出ます。

「私たちは丸一日、暑い中、辛抱して働きました。

それなのに、後からやって来て、

たった1時間しか働いていないあの人たちと

同じ扱いにするなんて、あんまりではないですか?

これは不公平です!」と。

このような抗議に対して、主人は何と答えたでしょうか?

主人は、朝早くから働いていた人との間に交わした

1デナリオンの約束について触れます。

「あなたたちと約束したとおりに、

私はそれぞれに1デナリオンの賃金を支払ったのだ」と。

そして主人は、早朝から働いていた労働者たちと同じように、

他の労働者たちにも1デナリオンの報酬を与えた理由を告げます。

「わたしはこの最後の者にも、

あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(マタイ20:14)。

まさに、この主人は気前が良すぎるのです。

この主人の対応があまりにも気前が良すぎるため、

早朝から働いていた人たちは、

自分たちの働きの評価が下がっているように感じてしまったのです。

他の人たちが優遇されている姿を見て、

自分たちが不当に扱われているように感じたのです。

確かに、そのような目でこの物語を読むならば、

早朝から働いていた人たちをとても気の毒に感じることだと思います。

このたとえ話が、「天の国のたとえ」として語られていることに

違和感さえ抱いてしまうでしょう。

「イエスさま、私たちが望んでいるのは、

私たちの神が、すべての人に対して公平であることです。

でも、それなのに、このたとえ話で語られている天の国は、

すべての人に公平とは言えないと思うのです」。

そんな風に、私たちも、早朝から働いていた人たちと一緒に

神に向かって抗議してしまいたくなるのです。

でも、そもそも、私たちは

この列のどのあたりに立っているのでしょうか?

他の人より、少しは善い生き方をしようと心がけているから、

真ん中より少し前の方でしょうか?

いや、自信をもって、

前から10%くらいの位置にはいるはずと答えますか?

それとも、最後尾のグループでしょうか?

おそらく、列のどの位置に立っているかによって、

この物語の聞こえ方は違ってくるはずです。

もしもこの物語を聞いて不公平だと感じるならば、

それは、自分が列の前の方にいると

私たちが思っているからなのかもしれません。

実際、このたとえ話を聞いた弟子たちは、

自分が列の前の方にいると思い込んでいました。

だから、「何もかも捨ててあなたに従って来た私たちは、

何をいただけるのでしょうか」とイエスさまに尋ねたとき、

弟子たちは、イエスさまの答えを聞いて喜んだのです。

「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、

あなたがたも、わたしに従って来たのだから、

十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と、

イエスさまが驚くほどの約束を与えてくださったからです。

でも、イエスさまの言葉を聞き続けたとき、

彼らは徐々に喜びを失っていったと思います。

「イエスさまに従う人たちは、誰もが大きな報いを神から受け、

永遠の命を受け継ぐことになる」とイエスさまは言うのです。

その上、このたとえ話を通して示されたように、

「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」というのです。

弟子たちは悲しくなってきました。

「自分たちは、多くの報酬を受け取れる先の者だと思っていた。

でも、イエスさまの言葉通りになるならば、

自分たちは後の者とされてしまうではないか……!」と。

確かに、自分が神からどれほどの恵みを受けているのかについて、

私たちが他人と自分の比較から知ろうとするならば、

私たちは、列のどの位置にいるのかが気になって仕方ありません。

それに、他の人が自分よりも多くの恵みを受けていると知ったら、

時には、不公平だとさえ感じてしまうのです。

でも、神が不公平であるという結論へと導くために、

イエスさまはこのたとえ話を語ったわけではありません。

このたとえ話において、何よりも重要なのは、

いつからぶどう園で働き始めたか、ではないのです。

思い出してみると、先に働き出した人たちでさえ、

本来、自分では仕事を見つけることが出来ませんでした。

もちろん、怠けていたわけではありません。

朝早くから働くことが出来た人たちも、

遅くから働き出した人たちも、仕事が見つからずにいたのです。

でも、そのような時、ぶどう園の主人が声をかけてくれた。

ぶどう園の主人に声をかけられ、選ばれたから、

早朝から働いていた人たちにも、昼頃から働き始めた人たちにも、

また、夕方になってから働き始めた人たちにも、

ぶどう園に居場所が与えられたのです。

その意味で、後から働き始めた人も、最初から働いていた人も、

ぶどう園の主人の前では、全く同じ立場なのです。

でも、もしも、主人が声をかけてくれなかったら、

どうなっていたでしょうか?

彼らは一日中、広場で立ち続けることになっていたかもしれません。

ですから、ぶどう園で働いたすべての労働者たちに手渡された報酬は、

本来ならば、彼らが受け取ることさえ出来なかったものなのです。

手渡された報酬は、誰もが1デナリオンでした。

早朝から働いた人たちにとって、この金額は、約束の通りの金額です。

しかし、働く時間が短ければ短いほど、

この1デナリオンを受け取ることは、恵みです。

イエスさまは、このたとえ話を通して、報酬の価値を下げています。

そして、何よりも、神から私たちに今与えられ、

将来、与えられると約束されているものは、

完全に、神の恵みによって与えられるものであることに

目を向けるようにと、イエスさまは私たちを招いておられるのです。

確かに、この世界の基準で物事を考えるならば、

働く時間が長ければ長いほど、報酬を得ることができるでしょう。

貢献すればするほど、時間を捧げれば捧げるほど、

それに伴う対価を得ることを要求する権利が与えられるでしょう。

でも、神の恵みは、後の者を先にしてしまいます。

私たちの努力や善い行いの対価として、

神が私たちに永遠の命を与えてくださる、というわけではないからです。

後から働き出した人たちが、

早朝から働き出した人たちと同じように、

1デナリオンを与えられたように、

すべては、神の恵み、神の気前の良さにかかっているのです。

それが、神が私たちに報酬を与える時の方法なのです。

きっと、列の後ろの方にいればいるほど、

この恵みに驚きを覚えるのでしょう。

いえ、そもそも「本来、受け取ることが出来るものではなかった」

という事実に私たちが気づくならば、列のどの場所にいようとも、

天の国は、神の恵みなのではないでしょうか。

将来、実際に、神の前で列が作られるかどうかはわかりませんが、

神の前で並ぶその列は、「後の者が先になり、先の者が後になる」という、

神の恵みによって支配されている列です。

決して、どんな功績をあげたかだとか、

どれほど努力し、どれほど時間や財産を捧げたかで

序列や報酬の大きさが決まるような列ではありません。

正直に言えば、私たちは、この世界のやり方に慣れすぎています。

このたとえ話で明らかにされているように、

神の恵みに支配された方法が、

私たちの親しんでいる方法とあまりにも違うため、

神の恵みが、私たちの目に、不公平に映ることだってあるのです。

だからこそ、私たちは神から受け取る恵みの大きさに、

神の恵みがこの世界を支配する方法に、

将来、驚きの声を上げることになるのでしょう。

ところで、私たちが将来、神から受け取るものが、

私たちの行いや努力、捧げた時間や財産に基づかないというのならば、

私たちの行いは、神の前で、無意味だということなのでしょうか?

決してそのようなことはありません。

イエスさまが語ったたとえ話において、

主人は、早朝から働いている人たちに、1日分の賃金を与えて、

彼らの行いを正当に評価しているではありませんか。

そして、働いた時間に関係なく、

すべての労働者に1デナリオンを与えることを通して、

この主人は、ぶどう園でなされたすべての働きが、

尊いものだったと喜んでいるのです。

ですから、私たち自身が取るに足りない、

些細なものと判断するような働きでさえも、

私たちの行いや努力、捧げた時間や財産は、

神の前で尊く、偉大な働きと受け止められ、神に喜ばれるのでしょう。

私たちにとって、ぶどう園とは、この世界のあらゆる場所です。

つまり、私たちが足を運ぶすべての場所が、

神に働きを委ねられているぶどう園なのです。

イエスさまは「ぶどう園での労働」を

「天の国のたとえ」として語りました。

ですから、あなた方が生きる限り行うすべてのことが、

天の国のためになされていく働きなのです。

たとえ取るに足りないと思えても、

些細なことだと他人から思われていても、

無意味なことと疑ったり、不完全な働きだと思うことがあっても、

ぶどう園のためになされる働きは、神の前で喜ばれる働きなのです。

そして、何よりも、あなた方を通して、

神はぶどう園に神の恵みを行き届けたいと願っておられるのです。

「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と、

きょう、神は語りかけておられます。

ですから、神の恵みを携えて、ぶどう園へと出て行きましょう。

主イエスの恵みと平和が、あなた方と共にありますように。