「仕える者になりなさい」

「仕える者になりなさい」

聖書 エレミヤ書 25:15-17、マタイによる福音書 20:17-28

2018年 7月 1日 礼拝、小岩教会

 

イエスさまが弟子たちと共にエルサレムへと向かう途中のことです。

ゼベダイの子たちの母親がイエスさまにお願いをしようと

近づいて来て、ひれ伏しました。

彼女の願いは、自分の息子たちが、

将来イエスさまが座るであろう王座の右と左に座ることでした。

つまり、イエスさまによってもたらされる天の国において、

息子たちが大きな地位を持つことでした。

ゼベダイの子たちとは、

イエスさまの弟子であるヤコブとヨハネのことです。

どうやら、彼らは弟子たちの中でも、

イエスさまが特別に信頼を置く弟子であったようです。

というのも、イエスさまが逮捕される直前に

ゲツセマネの園で祈る際、

イエスさまがご自分のそばにいることを許したのが、

ペトロ、ヤコブ、ヨハネでした。

また、高い山で、イエスさまの姿が変わり、

イエスさまがモーセとエリヤと一緒に語り合う姿を

見ることが許されたのも、この3人でした。

このようにイエスさまから大きな信頼を受け、

これからもイエスさまに従って生きようとしている自分の息子たちが、

天の国において確かな地位を得ることが出来るようにと、

ヤコブとヨハネの母親は願ったのです。

でも、これは母親が自分勝手に願ったことではありませんでした。

ヤコブもヨハネも、心から望んでいたことでした。

だから、彼らは自分の母親を止めることはしません。

その上、「このわたしが飲もうとしている杯を

あなたがたは飲むことができるか」という問いかけに、

母親ではなく、ヤコブとヨハネの二人が

「できます」と答えているのです。

ヤコブも、ヨハネも、将来イエスさまが治める天の国において、

名誉と権威のある、大きな地位を持ちたい。

重要な人物になりたいと、彼らは心から願ってやまなかったのです。

でも、やはり母親も、そしてヤコブとヨハネも、

イエスさまが言うように、

自分が何を願っているか、分かっていませんでした。

イエスさまは、そのことを教えるために、

「杯」という言葉を用いて、彼らに尋ねました。

「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と。

この「杯」という言葉は、

旧約聖書から影響を受けている言葉です。

さきほど一緒に朗読していただいた、

旧約聖書のエレミヤ書において、

この「杯」という言葉が、とても印象的に用いられています。

預言者エレミヤを通して、神はこのように語られました。

 

わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。彼らは飲んでよろめき、わたしが彼らの中に剣を送るとき、恐怖にもだえる。(エレミヤ25:15-16)

 

エレミヤ書で用いられているように、

神が与える試練や苦しみを意味するものとして、

イエスさまは「杯」という言葉を理解し、用いています。

ですから、「このわたしが飲もうとしている杯を

あなた方は飲むことができるか」と問いかけるとき、

イエスさまは、ご自分が受けることになる、

試練や苦しみ、そして死について、触れているのです。

「あなた方は、私と同じ試練を受け、同じ苦しみを味わい、

共に死ぬことが出来るというのか?」と。

ヤコブとヨハネは、たった一言、

自信を持って「できます」と答えるだけでした。

もちろん、ヤコブとヨハネは、

イエスさまが意味すること全てを理解して、

イエスさまにこのように答えたわけではないでしょう。

イエスさまは、ご自分がこれから経験することについて、

人々から侮辱され、鞭を打たれ、

十字架につけられると言っています。

でも、ヤコブもヨハネも、

イエスさまが経験する苦しみや死を

自分たちも経験することを覚悟して、

「できます」と言ったわけではありませんでした。

あくまでも、彼らが求めたのは、自らが望む「栄光」でした。

「イエスさま、将来、それを得ることが出来るというならば、

私たちは命さえも投げ出すことが出来ます。

苦しみなど、自分たちが将来、受け取れるものに比べれば、

取るに足りないものなのでしょう?」

それが彼らの心の内でした。

そのように考える彼らに向かって、

イエスさまは言いました。

「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」。

将来、彼らが、神を信じるゆえに、

またイエスさまに従うゆえに、

この杯を飲むことになる現実について、

イエスさまは語っています。

でも、彼らが求めることが、神の御心ではありませんでした。

ですから、イエスさまはヤコブとヨハネにこう言いました。

 

しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。(マタイ20:23)

 

誰が自分の右と左に座ることができるのか。

イエスさまは、それを選ぶ権利は自分にはないと言います。

「神によって定められた人こそが、

自分の左右に座るのだ」と。

つまり、自分たちよりも

ふさわしい人がいるかもしれないため、

その謙虚さを忘れてはいけないと、

イエスさまは教えていると言えるでしょう。

いや、そもそも、イエスさまは、

彼らとの会話の中で、「杯」について触れているので、

ご自分が十字架にかけられるときを考えているのかもしれません。

「十字架にかけられる自分の、

その両脇に十字架にかけられる人たちは、

神によって定めらるのだ」と。

たとえイエスさまがご自分の死について語られた直後だったとしても、

弟子たちは、このとき、

イエスさまの言葉が意味することを理解できませんでした。

ですから他の弟子たちは、ヤコブとヨハネに腹を立てました。

他の弟子たちもヤコブやヨハネと同じように、

上に立つことを求めていたのです。

でも、それはイエスさまが願ったことではありませんでした。

誰かの上に立ち、誰かを自分に従わせることは、

イエスさまが語る「天の国」ではありません。

弟子たちは、この世界のものの考え方を基準にして、

天の国を思い描いてしまっていたため、

天の国において、誰かの上に立ちたいと願い、

権力や名誉、そして支配を求めたのだと思います。

弟子たちのそのような姿を見て、イエスさまはこう言われました。

 

しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20:26-28)

 

イエスさまは、ご自分が来た理由は、

「仕えられるためではない」と明言されました。

ヤコブやヨハネ、また他の弟子たちは、

イエスさまのことを、人々に仕えられるために来た、

救い主であり、真の王である、メシアなのだと考えていました。

イエスさまこそが、近い将来、メシアとして栄光の王座につくのだ、と。

イスラエルの王となられるのだ、と。

でも、イエスさまは彼らが思い描いていた通りの方ではありませんでした。

イエスさまは、仕えられるためではなく、

仕えるために来てくださいました。

それは、十字架にかかり、ご自分の命をささげるためにです。

イエスさまが十字架にかかった理由は、

私たちを支配する様々なものから、私たちを解放するためでした。

罪の奴隷である状態、そして罪の結果として最終的に訪れる死。

これらの支配から、私たちを解放するために、

イエスさまは十字架にかかり、私たちに罪の赦しを与え、

3日目によみがえることを通して、復活の希望を与えてくださいました。

また、神以外の様々なものがこの世界を

そして私たち人間を支配している現実を覆すために、

神はイエスさまを十字架にかけることを許されました。

イエスさまの十字架を通して、神の救いは実現したのです。

このような神の計画が実現するため、

イエスさまは、神の忠実なしもべとして歩まれました。

しかし、弟子たちが求めいてたことは、

神が覆そうと願っていた、この世界のやり方でした。

だから、イエスさまは弟子たちに、

「あなたがたの間では、そうであってはならない」と勧めたのです。

「神がすべてを支配されるのだから、

支配者が過ぎ去った後に、

あなたがその代わりの支配者となる必要はないのだ」と。

そして、天の国に生きる私たちに相応しい生き方を

イエスさまは示してくださいました。

「皆に仕える者になり、皆の僕になりなさい」と。

この言葉は、もともとの言葉を確認してみると、

「あなたがたの給仕役になり、

あなたがたのしもべになりなさい」という言い方をしています。

つまり、イエスさまは「すべての人のしもべ」

というような言い方はしていないのです。

具体的に、今、目の前にいる人たちを指さして、

あなたがたは、あなたがたのしもべになりなさい、

とイエスさまは招いているのです。

つまり、誰かの上に立とうとして争い合うのではなく、

お互いに仕え合って生きていくこと。

それこそが、天の国に相応しい生き方なのです。