「主よ、憐れんでください」

「主よ、憐れんでください」

聖書 イザヤ書 35:1-6、マタイによる福音書 20:29-34

2018年 7月 8日 礼拝、小岩教会

 

イエスさまが生きた時代、

パレスティナという地域において、

気候や衛生面の理由から目を患い、

失明をする人が多くいたそうです。

目が見えなくなってしまったとき、

家族や友人たちの助けがあれば良いのですが、

頼るあてもない人たちは、道端に座りこみ、

物乞いをして生活をしていたようです。

彼らは人通りの多い、町の入り口付近で、

一日中通り掛かる人々に叫び続けていました。

「どうか助けてください。

苦しむこの私を憐れんでください」と。

目が見えなくなってしまったために、

大変な毎日を送っている自分たちを憐れんで、助けて欲しい

というのが、彼らの日常的な叫びでした。

きょうの物語に登場する、目の見えない二人にとっても、

エリコの町の入り口付近を通りかかる人々に向かって、

助けを求めて叫び続けることは日常的なことでした。

イエスさまが彼らの前を通りかかったとき、

彼らはイエスさまに向って叫び続けました。

 

主よ、ダビデの子よ、

わたしたちを憐れんでください。(マタイ20:30)

 

彼らの言葉は、周りの人々には、

いつも聞こえてくる雑音のように聞こえたことでしょう。

でも、実際のところ、彼らの叫び声はいつもとは違っていました。

彼らはイエスさまに向かって「ダビデの子よ」と呼びかけています。

ユダヤの人々にとって、「ダビデの子」とは、

真の王であり、救い主メシアを意味する言葉でした。

つまり、彼らはイエスさまのことを

そのような人物として受け止めていたのです。

ですから、彼らは、自分たちの前を通り過ぎていく人々に

いつも求めているものを、イエスさまの前では願いませんでした。

たしかに、お金や食べ物は必要です。

でも、そのような施しを受けたとしても、

数日を何とか生き抜くためのものであって、

根本的な問題の解決にはなりませんでした。

そう、いわば「その場しのぎ」にしかなりませんでした。

でも、「ダビデの子であるイエスさまが

わたしたちを憐れんでくださるならば、

自分たちの問題は解決されるに違いない!」

彼らはそのような期待を抱いて、

イエスさまに向かって叫んだのです。

「主よ、ダビデの子よ、

わたしたちを憐れんでください」と。

風の噂で、イエスさまの語った言葉や

イエスさまの行った様々な奇跡について聞いた彼らは、

ダビデの子である方、つまり、真の王である方に

求めるべきものが何であるのかを知っていたようです。

そのため、彼らはイエスさまから

「何をして欲しいのか?」と尋ねられたとき、

「目を開けてほしい」と答えたのです。

彼らのこの願いは、私たちが思う以上に、

彼らが抱える問題に、根本的な解決を求めるものでした。

というのは、ユダヤの人々は、

目は人間の心と結びついていると考えていました。

憎しみや妬みといった心で抱く思いが、

その眼差しに表れるのです。

そして、神を受け入れるか、受け入れないかは、

心の状態だけでなく、心と深く結びついている、

目に関係があると考えられていました。

そのため、目が見えない彼らは、

「自分たちは神に受け入れられていないのではないか?」

と考え、苦しんでいたと思います。

それと同時に、周囲の人たちから、

そのような目でも見られていたことでしょう。

ですから、彼らはメシアと噂される

イエスさまが近づいて来たと知った時、

イエスさまの憐れみを求めて叫んだのです。

そんな彼らの声を聞いたイエスさまは、立ち止まり、

彼らに呼びかけ、彼らを深く憐れみました。

そして、その憐れみの行いによって、彼らの目は癒やされたのです。

まさに、「神の憐れみがなければ、目は開かれない」

ということを、この物語は私たちに示していると思うのです。

目が見えるかどうか。

それは、実際に、目の前にあるものが

見えているか、見えていないか、

ということだけが問題とは言えないでしょう。

というのも、目は見えていても、

物事の本質が見えないことがしばしばあるからです。

この目が見えていても、

神の思いがわからないことだってあります。

まさに、このとき、イエスさまを取り巻いていた群衆は、

イエスさまがどのような方なのかを見えていませんでした。

イエスさまが「ダビデの子」であることが、

どのようなことを意味するか、まったく理解できていませんでした。

ですから、この群衆は、

叫び声を上げるこの二人の人を黙らせようとしました。

「イエスさまは、あなたたちの相手をしている暇などないんだ。

これから、ダビデの子であるイエスさまは、

エルサレムへと向かって行くのだ。

私たちの聖なる都、エルサレムで、

メシアとして、まことの王として受け止められるために、

私たちは、イエスさまを早くエルサレムへとお連れしたいのだ」。

そのような思いを抱きながら、

彼らは二人の目の見えない人たちを黙らせようとします。

でも、彼らの求めるメシアとは、一体何者なのでしょうか?

「憐れんでください」と叫び求める人たちを黙らせるのが、

救い主の姿なのでしょうか?

群衆のこの態度は、

イエスさまに対する誤解から来ていたと思います。

イエスさまは決して、自分が王であることを高らかに宣言し、

すべての人を従えるために、

私たちのもとに来てくださったわけではありません。

イエスさまは、こう言われたではありませんか。

「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、

また、多くの人の身代金として

自分の命を献げるために来た」(マタイ20:28)と。

「身代金」とは、囚われている人を

解放するために支払われるものです。

イエスさまは、罪の奴隷となっているすべての人を解放し、

神の子どもとするために、ご自分の命を差し出されました。

つまり、すべての人をその罪から解放するために、

自分がボロボロになって、

最終的に十字架にかけられて殺されたのが、

イエス・キリストという方でした。

そのような救い主、メシアの姿は、

群衆が考えていた救い主の姿とは、正反対の姿でした。

イエスさまは、これまで何度も、

そのようなご自分の使命について語ってきました。

しかし、それにも関わらず、人々は

自分の求める救い主の姿を

イエスさまに押し付けようとしています。

イエスさまを取り巻く人々こそ、

イエスさまに対して目が開かれていなかったのです。

でも、このような人々を、私たちは笑うことは出来ません。

イエスさまを正しく理解できない群衆たちの姿は、

私たち自身の姿でもあるからです。

そもそも、私たちは毎日の歩みの中で、

神の働きを見つめるのが苦手です。

人の弱さや痛みに鈍感になってしまうこともしばしばあります。

偏見をもって、相手を見てしまいます。

自分の掲げる正義や正しさのために、

誰かを黙らせようとしてしまうことだってあるのです。

わたしたちのこの目が、この心が、

神の働きを歪めて見てしまっているのかもしれないのです。

この物語が私たちに教える通り、

神の憐れみがなければ、私たちのこのような目は、

正しく開かれることはないのでしょう。

神が憐れんでくださなければ、

私たちの心は、神に向かっていかないのでしょう。

だからこそ、わたしたちは、神の前で、

切実に祈り求める必要があるのではないでしょうか?

「主よ、憐れんでください。

私のこの目を開かせてください」と。

ところで、聖書が私たちに語る意味で、

「目が開かれる」とは、一体どのような状態なのでしょうか。

それは、イエスさまが「天の国は来た」と語られたように、

私たちは、天の国に生きるようにと、

神から招かれていると知ることです。

天の国とは、神がこの世界のすべてのものを

支配されていることを意味する言葉です。

神が支配し、愛を注ぎ、いつも憐れんで、

救いの手を差し伸ばそうとしている世界で、

私たちは生かされているのです。

でも、私たちは、生きる上で、

この世界に天の国を見ることが出来ているのでしょうか?

神がこの世界を治めておられることを

見つめることが出来ているのでしょうか?

生きる限り、私たちが直面する物事を

いつも正しく見極めることができるように、

私たちは目を開いていただきたいものです。

だからこそ、私たちは祈るのです。

「主よ、私を憐れんでください」と。

そして、同時に、私たちは、このように感じることがあります。

「イエスさまを通して、

すべての人が罪の奴隷から解放されているにも関わらず、

この世界には罪が溢れ、人間の悪が蔓延しているではないか?」と。

確かに、そのとおりです。

すべての人が罪の奴隷から解放されているにも関わらず、

私たちは、自ら罪の奴隷のように振る舞ってしまいがちです。

だからこそ、私たちはいつも、

神に祈り求める必要があるのではないでしょうか。

「主よ、このような私たちを憐れんでください。

人間が人間らしく生きることを否定する力が働く、

このような世界を憐れんでください。

貧困や暴力があります。

いじめや差別があります。

対立や争いも絶えません。

そのような、私たちがこの目で見つめる、

ありとあらゆるものを憐れんでください。

私たちが出会うあらゆる人を、

私たちが足を運ぶあらゆる場所を憐れんでください」と。

「主よ、憐れんでください」。

これこそ、わたしたちに与えられている祈りなのです。