「都が揺れ動く時」

「都が揺れ動く時」

聖書 列王記 上 1:32-40、マタイによる福音書 21:1-11

2018年 7月 15日 礼拝、小岩教会

 

ホサナ、ホサナ。

「主よ、救ってください」という意味の「ホサナ」という言葉を叫びながら、

ロバに乗った一人の男を取り囲む集団がエルサレムの町に入場しました。

ロバに乗る男に従う多くの人々は、

自分の着ていた服や、木の枝を敷いて、彼が進む道を整えました。

彼が多くの人々に重要な人物として受け止められ、

エルサレムにやって来たことは、誰の目から見ても明らかでした。

この集団は、徐々に徐々にエルサレムの町に近づいてきます。

彼らがエルサレムの町に入場した頃には、

彼らが叫ぶ声もエルサレムの人々にはっきりと聞こえてきました。

 

ダビデの子にホサナ。

主の名によって来られる方に、祝福があるように。

いと高きところにホサナ。(マタイ21:9)

 

ダビデの子?

どうやらこの群衆にとって、ロバに乗るあの男はダビデの子のようです。

ダビデの子とは、ユダヤの人々にとって、

自分たちの民族を異教徒の支配から救い出し、

まことの王として民を導く、救い主を示す称号でした。

ユダヤの人々は、ダビデの子である、救い主メシアが

神によって自分たちのもとに送られてくると、信じていました。

メシアが来ることは、聖書を通して与えられている希望でしたし、

ユダヤの人々が心から待ち望んでいたことでした。

ですから、ダビデの子と噂される人がいたならば、

その人に注目し、騒ぎ出すのはユダヤ人であるならば当然のことでした。

そのため、群衆からダビデの子と呼ばれ、

ロバに乗ってエルサレムにやって来たイエスという人を見た

エルサレムの人々の反応は、とても自然なものだったと思います。

「いったい、これはどういう人だ」。

エルサレムの町の人々は、メシアと噂されているイエスさまが、

どういう人なのか知りたいと騒ぎ出したのです。

「彼こそが、待ち望んでいたメシアだろうか?」と、

口々に語り、期待しつつも、動揺を覚えて、都は騒ぎ出したのです。

マタイは、この時のエルサレムの町の様子を

たった一言で表現しています。

「騒いだ」と。

実は、この言葉は「地震で揺れ動く」ことを意味する動詞です。

地震で大地が揺れ動くほどに、イエスさまとの出会いに、

エルサレムの町が動揺を覚えたということなのでしょうか?

それとも、メシアがついに来たという喜びで、

エルサレム中が騒ぎ出した様子を地震のようにたとえて、

マタイは「都中が揺れ動いた」と言っているのでしょうか?

マタイは一体どのような意味で、この言葉を用いたのでしょう?

このことに関して、さきほど一緒に朗読された「列王記」の物語が、

きっと、私たちの理解を助けてくれるでしょう。

ここに記されているのは、

ダビデの実の息子であり、王位継承者であるソロモンが、

イスラエルの王となった日の出来事です。

ソロモンが王となったその日、

民の喜びの声で、地は裂けたと記されています。

ダビデの後継者である、新しい王さまの誕生に対して、

イスラエルの人々が抱いた喜びの大きさを、

この「地は裂けた」という表現から知ることができます。

しかし、旧約聖書に記されている、イスラエルの国の歴史を知る時、

「地は裂けた」という言葉の奥に、別の意味が見えてくると思うのです。

国中の人々から喜ばれたソロモン王の誕生ですが、

彼の死後、イスラエルの国は南北に引き裂かれました。

ソロモンの時代に人々が感じた不満や怒りが、

ソロモンの死後に噴き出て、国はふたつに裂けてしまったのです。

そのような歴史を踏まえて「地は裂けた」という言葉を聞くならば、

イスラエルという国が、北と南に引き裂かれることを予期する言葉として、

列王記の著者は「地は裂けた」と記していることがわかるでしょう。

これと同じように、イエスさまがエルサレムに入場した出来事も、

イエスさまを通して、これから起こることを予期するものとして、

マタイによって意図的に描かれているのです。

「都中が揺れ動いた」と。

もちろん、イエスさまはソロモンのように、

エルサレムを引き裂く原因となったわけではありません。

しかし、イエスさまは、エルサレムの都中を

大きな地震のように揺れ動かしたと、マタイは語るのです。

一体、これからエルサレムで何が起こったのでしょうか?

当然、マタイはエルサレムで起こった出来事を知った上で

この福音書を書いています。

イエスさまがロバに乗ってエルサレムに入場した後、

エルサレムの町で、イエスさまの身にこれから起こることとは、

何だったでしょうか?

マタイはこの福音書を通して、私たちにはっきりと告げます。

「それは、イエスが逮捕されることだ。

愛する弟子たちから見捨てられることだ。

裁判にかけられ、死刑判決を受けることだ。

鞭打たれ、十字架にかけられ、殺されることだ」と。

しかし、それだけでは、

エルサレムの都は揺れ動くことなどありませんでした。

所詮、自分をメシアと偽る人が裁かれ、

神からも、人からも見捨てられて

殺されたに過ぎないと受け止められたでしょう。

しかし、それにも関わらず、エルサレムの都中は

イエスさまのことで揺れ動き、騒ぎ立ちました。

それは、イエスさまが死者の中からよみがえったからです。

確かにイエスさまは十字架の上で息を引き取り、墓に葬られました。

それにも関わらず、女性たちは復活したイエスさまに会ったと、

喜んで語り出したのです。

そして、何人もの弟子たちがイエスさまと出会い、

イエスさまの話がエルサレムの都中に広がっていったのです。

死者がよみがえる。

それはまさに、あり得ないことでした。

イエスさまは十字架にかけられ、神に見捨てられ、

確かに息を引き取りました。

十字架の上で、イエスさまは死にました。

しかし、神はイエスさまを憐れみ、神が彼を復活させたというのです。

まさに、イエスさまの受難と復活の出来事を聞いたことを通して、

エルサレムの都中は揺れ動いたのです。

「メシアが死ぬなんて、あり得ない。

でも、確かに十字架の上で死んだあのイエスという男を

神が復活させたらしい。

わけがわからない!!」

エルサレムの都は、イエスさまを通して、大きく揺さぶられたのです。

メシアが十字架にかけられて殺されるなど、

あり得ないことでした。

まして、神の子が殺されるなど、前代未聞です。

だから、イエスの出来事に対して、

エルサレムの人々は動揺し、混乱したのです。

でも、感謝すべきことに、救い主メシアであり、

神の子であるイエスさまが苦しみを受け、十字架につけられ、

死んで葬られ、復活したことの意味は、

イエスさまを通して予め語られていました。

すべての人の罪を赦すために、イエスさまは十字架で命を落としたのです。

復活の命への希望を与えるために、イエスさまは復活されたのです。

そして、私たちのこの世界に、天の国をもたらすために、

イエスさまは私たちのもとに来てくださったのです。

この出来事の意味がイエスさまを信じる人々の間で明らかにされた時、

エルサレムだけでなく、世界中が揺れ動きました。

神の子が自分の命を捨てるほどに、神はあなたを愛している。

このメッセージを受け取った時、想像もつかない神の愛に触れて、

これまで多くの人々が神によって揺れ動かされたのです。

私も、そしてあなた方も、神の愛に触れ、

イエスさまを通して起こった出来事に揺り動かされているのです。

でも、私たちは、何度も、何度も聞いているにも関わらず、

私たちを揺り動かす神の愛を

いつまで経っても理解しきることが出来ません。

そして、私もまた、神の愛の現れである、

イエスさまの十字架も、復活もまた、語り尽くすことが出来ません。

教会は2000年経った今も、様々な言葉で、

様々な仕方で神の愛を表現しています。

このように、神はイエスさまとの出会いを通して、

私たちを揺り動かしています。

でも、確かに言えるのは、

揺れ動くことのない天の国を私たちに与えるために、

イエスさまは十字架にかかり、死者の中からよみがえり、

私たちに愛を示してくださったのです。

私たちを動揺させ、揺り動かすほどの愛を注ぐことを通して、

神は私たちに決して揺るがないものを与えようとしてくださるのです。