「主イエスを通して、天を見上げるならば」

「主イエスを通して、天を見上げるならば」

聖書 出エジプト記 17:1-7、マタイによる福音書 21:23-27

2018年 8月 5日 礼拝、小岩教会

 

イエスさまの教えを聞き、その立ち振る舞いを見て、

イエスさまに対して疑問や敵対心を抱く人々がいました。

きょうの物語に登場する、

「祭司長」と「長老」という、このふたつのグループこそ、

イエスさまに対して敵意を持ち続けた人たちです。

彼らは、ユダヤの議会を構成する人々でした。

つまり、ユダヤの国において大きな権限を持つ、

ふたつのグループに属する人々が、

この時、エルサレム神殿の敷地内で、

人々に教えを語るイエスさまに近づいて来たのです。

彼らは、イエスさまにこのように尋ねました。

 

何の権威でこのようなことをしているのか。

だれがその権威を与えたのか。(マタイ21:23)

 

彼らは決して、純粋な気持ちから、

イエスさまにこのような質問をしたわけではありません。

この質問は、イエスさまが持つ権威に対する疑問や

イエスさまに対する敵意から出てきたものでした。

そのため、この質問に答えることは、とても難しいことでした。

というのも、もしもイエスさまが問題と思えるような発言をするなら、

ユダヤ議会のメンバーである彼らが持つ権限によって、

彼らはイエスさまを裁くことだって出来たからです。

ところで、なぜ祭司長たちや長老たちは、

イエスさまの権威に疑問をもち、

イエスさまに対して敵意を抱いていたのでしょうか。

 

それは、イエスさまの行動の方に原因がありました。

イエスさまはエルサレムに到着するとすぐに、エルサレム神殿へ行き、

神殿の敷地内から両替人や鳩を売り買いする人々を追い出しました。

この時のイエスさまの行動は、

神殿での礼拝が終わりを迎えることを意味する、

象徴的な行いとして人々から受け止められたと思います。

その上、イエスさまは人々の間で、

預言者やダビデの子と噂されていたため、

イエスさまの行動や教えはとても目立つものでした。

そして、噂を聞いて、祭司長たちや長老たちが、

イエスという男について調べ始めると、

とんでもないことが次々と判明してくるのです。

「イエスはガリラヤで活動していたらしいが、

彼は、罪人や徴税人たちと一緒に食事をしているらしい。

大切な、安息日の掟を守らない。

守らないどころか、安息日に癒やしの業を行い、

安息日を挑発的に破っている。

病人を癒やしたり、悪霊を追い出すイエスは、

『悪霊の頭なのではないか?』という声も聞こえてくる。

そして、彼が教える律法の解釈は、

自分たちの教えと対立することがある。」

まさに、彼らにとって、イエスさまは危険人物でした。

本物の救い主メシアであるならば大歓迎ですが、

多くの人々の心をつかむ一方で、

律法の教えを歪め、神殿や安息日さえも否定しているとも取れる、

イエスさまの姿に、彼らは危機感を覚えたのです。

そのため、彼らは危険人物である、

イエスさまの権威を疑問視して、

イエスさまに質問をしたのです。

 

何の権威でこのようなことをしているのか。

だれがその権威を与えたのか。(マタイ21:23)

 

もしもイエスさまが、自分の持つ権威は

「神から与えられている」と言うならば、

彼らは直ちにイエスさまを逮捕するつもりでいたかもしれません。

そのような彼らの企みに気づいたからでしょうか。

イエスさまは彼らから受けた質問に対して、

質問によって返答します。

 

では、わたしも一つ尋ねる。

それに答えるなら、わたしも、

何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。

ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。

天からのものか、それとも、人からのものか。

(マタイ21:24-25)

 

ヨハネとは、荒れ野で生活をし、

ヨルダン川でユダヤの人々に、罪の悔い改めの洗礼を授けていた、

洗礼者ヨハネのことです。

イエスさまは、洗礼者ヨハネが人々に授けた洗礼は、

神によって良しとされたものだったのか。

それとも、人間の勝手な業だったのだろうかと、

祭司長たちと長老たちに尋ねました。

この質問は、祭司長たちや長老たちを悩ませるものでした。

というのも、彼らは、群衆を恐れていたからです。

たとえ、ユダヤ議会のメンバーとして、

自分たちに権威があると言えども、

群衆の反感を買ったり、暴動を起こすきっかけを作っては、

正しくその権威を用いることは出来ません。

ですから、彼らは悩みました。

ヨハネの洗礼は、「天から」と答えるならば、

それならば、なぜヨハネを預言者と認めなかったのかと

イエスさまや群衆から追及されることになります。

かと言って、ヨハネの洗礼は「人間的な事柄だ」と答えるならば、

ヨハネを神によって立てられた預言者だと考えている群衆から、

多くの批判や受け、反感を買うこととなるでしょう。

群衆のこのような反応を恐れたため、

彼らはイエスさまの質問に対して、「わからない」と答えました。

イエスさまの権威を確かめようと、近づいて来た彼らでしたが、

結果的に、自分たちの権威を問われることになってしまったのです。

「群衆を恐れる、あなた方の権威とは、一体何なのか」と。

しかし、イエスさまは祭司長や長老たちの企みを回避し、

彼らの権威を問い直すためだけに、

このような質問を彼らにしたわけではありませんでした。

イエスさまは明らかに、ヨハネのことを

神によって立てられた預言者だと受け止めていました。

また、イエスさまがヨハネのことをそのように受け止めていると

祭司長や長老たちも考えていたことでしょう。

ですから、イエスさまは彼らに問いかけることによって、

ヨハネと同じように、自分に与えられている権威は、

「天からのものである」と、暗に答えているにです。

ところで、イエスさまは何のために、

神から権威を与えられていたのでしょうか。

それは、私たちがイエスさまを通して、

天を見上げるために他なりません。

そう、イエスさまを通して、私たちが神と出会うために、

神はイエスさまに権威を与えられたのです。

虐げを受けていた罪人と呼ばれる人たち、

人々から冷たい目で見られていた徴税人たちが、

神と出会うために、イエスさまは彼らを食卓に招きました。

病を負い、悪霊につかれて苦しむ人々に、

神の愛が注がれるために、

人々を癒し、罪の赦しを宣言しました。

人々に、神が与える安息を与えるために、

安息日を破る行動を取ることもありました。

すべての人が、霊とまことの礼拝へと招かれるために、

世俗化していた神殿を批判しました。

まさに、私たちが天を見上げ、神と出会うために、

イエスさまは権威をもって行動されたのです。

そして、私たちが権威をもって行動されるイエスさまを見つめ、

イエスさまを通して天を見上げるならば、

私たちは権威をもって行動される神と出会うことになるでしょう。

それはつまり、神がこの世界のすべてを治めておられるということです。

もちろん、そのようには決して思えない現実があるのも、確かなことです。

人の尊厳が踏みにじられ、平和よりも争いがあふれ、

権力や経済が暴走しているのが、この世界に横たわる現実です。

でも、このような世界を見つめ、悲しみ、失望する時にこそ、

イエスさまに与えられている権威の意味を

私たちは、思い起こす必要があるのではないでしょうか?

使徒パウロは、コリントの教会へ書き送った手紙の中で、

このように語っています。

 

そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、

父である神に国を引き渡されます。(Ⅰコリ15:24)

 

パウロは、世の終わりの日に、

イエスさまが神に与えられた権威をもって、

この世界の様々な権威を討ち滅ぼされると、語っています。

この世界には、多くの権威があり、

それらの権威は、様々な形で私たちに襲いかかってきます。

しかし、神の目から見て、国家の権威、親の権威、

教師たちの権威、宗教指導者たちの権威、

軍事的な力、暴力、経済的な力といった、

それらの権威や力は、一時的に許されているに過ぎないものなのであり、

やがては、簡単に過ぎ去っていくものなのです。

イエスさまが権威をもって、この世界を治める日、

すべての人間に猛威を奮う、罪や死という最大の敵さえも滅ぼされます。

将来、神は、それらすべての力に対して、

イエスさまを通して、勝利を宣言されます。

その勝利が確かに訪れることは、

イエスさまが神から与えられた権威をもって

行動されたことから、明らかなのです。

権威をもって行動されるイエスさまを通して、

神は私たちに約束してくださっています。

私たちを苦しめる様々な権威や力は、必ず過ぎ去っていくのだ、と。

今、私たちが味わう嘆きや悲しみ、失望や悩み、抑圧や暴力、

そして、すべての人々に訪れる死さえも、過ぎ去っていくのです。

ですから、私たちは心から待ち望みましょう。

イエスさまが愛をもって、権威を用い、

この世界のすべてを治める日が来ることを。