「招待状はあなたの手に!」

「招待状はあなたの手に!」

聖書 出エジプト記 32:1-14、マタイによる福音書 22:1-14

2018年 9月 2日 礼拝、小岩教会

 

イエスさまが語った、このたとえ話の興味深いところは、

王の息子の婚宴に招待された人々が、その招きを拒否した一方で、

本来その婚宴に招待されていない人々のもとに、

王からの招待状が届いたことです。

驚くべきことに、婚宴への出席を拒否されたとき、

この王は、自分の息子の婚宴へと招く人々を制限しませんでした。

王は家来たちに「町の大通りに出て、

見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じて、

善い人々も、悪い人々も婚宴へ招き始めました。

そうです、すべての人々が、神に招かれているという現実を

イエスさまはこのたとえ話を通して、

このたとえを聞くすべての人々に語っているのです。

でも、このように、すべての人々を快く招いているのにも関わらず、

この王は、婚礼のための礼服を着ていない者を

婚宴の席で見つけると、自分の側近の者たちに命じて、

その人を縛り、婚礼の会場から追い出したというのです。

正直、なぜ王がこのような行動を取るのか理解できません。

というのも、婚宴の会場から追い出されたこの人は、

そもそもこの婚宴に招待されていたわけではありません。

町の大通りにいたら、突然、何の前触れもなく、

この人は婚宴の席に招かれたのです。

ですから、婚宴の席に相応しい服装を準備する時間などなく、

この場所へとやって来たのでしょう。

それなのに、婚礼に相応しくない服装であることを指摘され、

挙句の果てに、手足を縛られて、外に追い出されることになるなど、

正直、納得がいきません。

理不尽とさえ思います。

考えれば考える程、王に対する不信感が

沸き起こってくるかもしれません。

でも、この物語は実際に起こった出来事ではなく、

イエスさまが語ったたとえ話であることを

思い起こす必要があると思います。

 

つまり、イエスさまはこのたとえの物語全体を通して、

聞いているすべての人に天の国を指し示そうとしているのです。

婚礼に相応しい服装とは、一体何を意味するのでしょうか。

この物語は、天の国のたとえですから、

婚礼に相応しい服装とは、

天の国に相応しい姿を意味するのでしょう。

天の国にふさわしい姿とは、もちろん、服装ではありません。

それは、生き方です。

イエスさまの教えを聞いて、喜ぶだけではなく、

イエスさまの教えに心から従う生き方が出来ているかどうか。

天の国に相応しい振る舞いが出来ているかどうか。

神の招きを受けるとき、その招きにふさわしく生きているかどうか。

つまり、心から神を愛し、

共に生きる人々と平和のうちに歩めているかどうか。

憎しみや妬みに支配されるのではなく、

愛や憐れみに基づいて生きることが出来ているかどうか。

ここで問題となっているのは、そのようなことです。

見なりのことではなく、生き方こそが問題なのです。

私たちの発する言葉や行いこそが問題なのです。

ある意味、服装だけならばどうにでもなると思います。

それっぽい服を着るだけなのですから。

しかし、神は私たちの上辺の姿を見ているのではなく、

私たちの心の奥底をご覧になっているのです。

必死に上辺を取り繕った結果ではなく、

心から神の招きに応える生き方が

出来ているかどうかが問われているのです。

でも、それは誰にとっても難しいことだと思います。

真剣にイエスさまの教えに従い、

神と人を心から愛する歩みをしたいと願えば願うほど、

私たちは自分自身に失望します。

私たちのこのような現実をよくわかっておられるから、

イエスさまはこのたとえ話をこのように結びました。

 

招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。(マタイ 22:14)

 

最終的に救われる者と、救われない者の比率を予想して、

「救われる者は少ないんだ」と、

イエスさまは嘆いているわけではありません。

イエスさまは、神によって招かれた人々が、

その招きに相応しい生活を送るようにと願って、

このように語ったのです。

「招かれる人々は多いけれど、

その招きに相応しく生きようとする人々は少ない。

でも、どうかあなた方は、天の国に相応しく生きてくれ」と

イエスさまはこのたとえを通して、

私たち一人ひとりに語りかけておられるのです。

このような願いが込められているイエスのこのたとえ話を通して、

私は、旧約聖書に記されているあるひとつの物語を思い起こしました。

それは、さきほど読んでいただいた、

出エジプト記に記されている物語です。

そこで語られているのは、

イスラエルの民が、金の雄牛の像を作ったという事件です。

この事件が起こる前、

神は、悪い者も善い者も関係なく、

エジプトで奴隷にされていたイスラエルの民を救い出しました。

そして、神はモーセを通して、

イスラエルの民の荒れ野での旅を導き続けました。

事件が起きたのは、神が山の上でモーセと語り合い、

彼に十戒を授けていた、その時でした。

イスラエルの民は、金の雄牛の像を作り、

神が望まないことを行なっていたのです。

神の招きを受けたけれども、

神の招きに相応しく生きることが出来ない、

イスラエルの民の姿がここで映し出されています。

しかし、そのようなイスラエルの民のために、

モーセは神の前に立って祈りました。

 

主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。

あなたが大いなる御力と強い御手をもって

エジプトの国から導き出された民ではありませんか。

……どうか、燃える怒りをやめ、

御自分の民にくだす災いを思い直してください。

(出エジ 32:11-12)

 

イスラエルの民に対するモーセのこの姿は、

「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と語った

イエスさまの姿に重なるように思うのです。

いつまで経っても、天の国に相応しくなれないまま生きているのが、

私たちの現実です。

でも、イスラエルの民のためにモーセが祈ったように、

主イエスが私たちのために祈ってくださる。

誰一人として、婚宴から追い出されることがないようにと願って、

イエスさまは私たちのために祈っておられるのです。

ところで、私たちは、神が招かれる婚宴の席に

どのような立場で招かれているかご存知でしょうか?

このたとえ話だけを読むならば、

招かれた客の一人だと感じることでしょう。

しかし、聖書全体を通して示されていることは、

もっともっと驚くべきことです。

私たちが与えられている立場は、

婚宴に招かれている客の一人のような脇役ではありません。

主役です。

驚くべきことに、神が招かれる婚宴において、

教会は花嫁とされているのです。

花婿であるイエスさまと花嫁である教会の婚礼は、

ヨハネの黙示録において、「子羊の婚礼」と呼ばれ、

このように描かれています。

 

わたしたちは喜び、大いに喜び、

神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、

花嫁は用意を整えた。

花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。

この麻の衣とは、

聖なる者たちの正しい行いである。(黙示録 19:7-8)

 

驚くべきことに、主イエスが再び来られる日、花嫁である教会は、

「輝く清い麻の衣を着せられ」ると約束されています。

つまり、私たちは、お互いに醜く争い合い、傷つけ合ったために、

神の前で傷だらけであるにも関わらず、

その傷を神が覆い、輝く、清い者と変えてくださるのです。

その意味で、神が招かれる子羊の婚宴は、

まさに喜びの時です。

この喜びの時に、神はあなたを招いている。

いや、驚くべきことに、この婚宴の席で、

花嫁として立つようにと、あなた方は招かれているのです。

感謝すべきことに、招待状は、

あなた方の手にすでに渡されています。

ですから、どうか神の招きにふさわしく歩むことが出来ますように。

私たちはきっとこれからも、

何度も何度も過ちを犯すことでしょう。

何度も何度も神に背を向けてしまうでしょう。

でも、イエスさまはあなたのために祈り続けてくださいます。

ですから、そのことに気づくたびに、

神を見つめることが出来ますように。

そしてその度に、神の招きに相応しく歩もうと思い直し、

将来招かれる、子羊の婚宴を喜びをもって見つめて、

歩んでいくことが出来ますように。