「私たちに刻まれているもの」

「私たちに刻まれているもの」

聖書 創世記 1:26-28、マタイによる福音書 22:15-22

2018年 9月 9日 礼拝、小岩教会

 

きょうの物語において、あるふたつのグループが手を取り合い、

悪意をもって、イエスさまに質問を投げかけています。

第一のグループは、ファリサイ派という人々です。

彼らはユダヤの人々の間で尊敬され、とても影響力のある人々であり、

律法を通して神が語ることを忠実に守ろうと務めていた人々でした。

また、律法を忠実に守りたいと願っていたため、

彼らは、ユダヤの国がローマ帝国の支配下にあることを

快く思っていませんでした。

しかし、ローマが自分たちの信仰に介入してこない限り、

彼らは、ローマ帝国の支配を受け入れていたようです。

この時、そのようなファリサイ派の人々と手を組んだのが、

ヘロデ派の人々です。

実は、この人たちについては、

あまり詳しいことはわかっていません。

ただ、「ヘロデ派」という名前から、

ユダヤの国の王であるヘロデの権力を

支持していた人々だと推測できるでしょう。

この当時のユダヤの国は、ローマ帝国の支配下にあったため、

ローマの承認を得て、ヘロデ王はユダヤの国を治めていまして。

そのため、ヘロデも、ヘロデを支持する人々も、

ローマ帝国の支配を受け入れていました。

つまり、ファリサイ派とヘロデ派という、

このふたつのグループのローマに対して抱いている思いは、真逆です。

それなのに彼らは手を組み、

ローマに納める税金についてイエスさまに質問をしたのです。

何のためにでしょう?

 

それは純粋な動機からではなく、イエスさまを貶めるためでした。

イエスさまを貶めるための目的ならば、

考えの合わない人々とも彼らは手を組んだのです。

そして、自分たちの企みをイエスさまに隠すことなく、

彼らはイエスさまに質問します。

 

皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、

適っていないでしょうか。(マタイ22:17)

 

とてもいじわるな質問だと思います。

ファリサイ派の人々にとってこの質問に対する好ましい答えは、

ローマに税金を納めることを反対することです。

また、ヘロデ派の人々にとっては、

ローマへの納税を肯定することの方が好ましいでしょう。

ローマへ税を納めることについて、

どのように答えても、一方を敵に回すことになってしまいます。

ファリサイ派とヘロデ派は真逆の考え方をしていたからです。

ただ、「あなたはどちらの側につくのですかか?」

ということを聞くために、

彼らはイエスさまに質問したわけではありませんでした。

彼らの狙いは、イエスさまをどちらかの味方につけるのかではなく、

イエスさまを罠にかけ、貶めることです。

もしもローマへの納税に反対するならば、

彼らは、イエスさまを訴えることができたでしょう。

また、もしもローマに税を払うことに賛成するならば、

ユダヤの人々の大半は、

ローマに納税することを快く思っていなかったため、

イエスさまは多くの人々からの反感を買うことになります。

というのも、ユダヤの人々にとってローマへの納税は、

自分たちが異教徒の支配下にあることを

嫌でも思い知らされることだったからです。

そのようなことを想定しながら、悪意をもって、

ファリサイ派の人々の弟子たちと、

ヘロデ派の人々はイエスさまに問いかけているのです。

「イエスさま、あなたはどのように考えますか?」と。

さて、この難しい質問に、イエスさまは何と答えたでしょうか?

イエスさまは、人々がローマに税を納める時に使う、

デナリオン銀貨に人々の注目を集めました。

デナリオン銀貨を指差して、

ファリサイ派やヘロデ派の人たちに尋ねます。

 

これは、だれの肖像と銘か。(マタイ22:20)

 

ローマの貨幣である、デナリオン銀貨には、

当時のローマ皇帝である、ティベリウスの肖像が刻まれていました。

そのため、ユダヤの人々がこの銀貨を使用するたびに、

彼らはローマ皇帝の支配下にあることを思い知らされました。

しかし、イエスさまはこの時、

皇帝の肖像や銘が刻まれた銀貨を用いる

人々の葛藤や憤りには注目をしません。

イエスさまが皇帝の肖像と銘が記されていることに注目するのは、

その銀貨の正当な所有権に人々の目を注ぐためでした。

銀貨に皇帝の肖像と銘が記されているため、

ローマに税金を納めるために用いる銀貨は、

皇帝のものであるとイエスさまは語っているのです。

そのため、イエスさまは人々に命じます。

「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と。

もちろん、イエスさまはこのように語ることによって、

ローマへ支払う税金を完全に肯定したわけではありません。

イエスさまが何よりも語りたいことは、その後に語った言葉です。

「神のものは神に返しなさい」。

ローマ皇帝の肖像や銘が刻まれているものは、

ローマ皇帝に所有権があるのだから、皇帝に返すのが筋だ。

同じように、神の肖像が刻まれ、

神がご自分のものと宣言されるものはすべて、

神に返すべきだというのが、イエスさまの主張です。

この言葉は、その場にいる人々にとって、

とても説得力のある言葉だったと思います。

というのも、ユダヤの人々にとって、

神の肖像が刻み込まれているものは、

神の言葉である聖書によって、

高らかに宣言されていたからです。

一体、何に神の肖像が刻み込まれ、

一体何が神のものなのでしょうか?

創世記は、次のように宣言します。

 

神は御自分にかたどって人を創造された。(創世記1:27)

 

神の肖像が刻み込まれているものとは、

聖書によれば、私たち人間のことです。

私たち人間は、神によって、神に似せて造られ、

神の肖像を刻み込まれ、神のものとされています。

同時に、神がこの世界のすべてを造られたことを思い起こすならば、

この世界のあらゆるものは、

神の手の業によるものだと気づくでしょう。

目には見えないけれども、神によって造られた証しが、

神の銘がすべての被造物に刻み込まれているのです。

その意味で、神の支配の下にないものなど何一つありません。

つまり、皇帝の肖像が刻み込まれ、

皇帝に返すことが要求されている銀貨でさえ、

皇帝のものでありながら、

実のところ、最終的には神のものだといえるでしょう。

銀貨は、人の手によって作られていますが、

銀貨を作るために必要な素材は、神によって造られたものです。

皇帝の肖像が刻み込まれるよりも、はるか昔に、

神がその手の業によって、この世界のあらゆるものを、

素材のひとつひとつ、原子のひとつひとつを造られたのです。

ですから、神の支配の下にないものなど何一つないのです。

このように、イエスさまは、

「皇帝のものは皇帝に返しなさい。

神のものは神に返しなさい」と語ることによって、

私たちが置かれている現実が、

どのようなものであるかを教えられました。

ユダヤの人々は、二重の支配の中で生きていました。

ひとつは、納税を納める対象である、ローマ帝国の支配。

そしてもうひとつは、

この世界のすべてのものを造られた、神の支配です。

このような、二重の支配の中で生きているユダヤの人々に、

イエスさまは問いかけているのです。

「あなた方は、究極的には、

誰の支配の下で生きているのか?」と。

もしも、あなたがローマ皇帝の支配の下で生きているというならば、

皇帝のものは、皇帝に返しなさい。

しかし、もしもあなたが究極的には、

神の支配の下で生きているというのならば、

神のものは、神に返しなさい。

イエスさまは、そのように語りかけているのです。

でも、多くの場合、私たちはいつも

神が支配されている現実を忘れてしまいます。

自分が誰のものであるのかを忘れ、

心の王座に自分自身が座り続けます。

また、私たち自身が持っているものは、

最終的に誰のものであるのかを忘れ、

神の所有に、自分の所有を上書きして、

自分の権利を主張し続けるのです。

目の前にいる人を自分好みの形に変えようと、

傷つけ、支配しようとしてしまうのです。

争い合い、お互いの神のかたちを傷つけてしまっているのです。

憎しみの形、妬みの形が浮かび上がってくるのです。

そのようにして、私たち自身が、

自分や共に生きる人々に刻まれている、

神のかたちを傷つけてしまっているのです。

残念ながら、私たちに刻まれている神のかたちは、

神が刻み込み、神がデザインされたものですから、

私たち自身の力で元に戻すことなど出来ません。

しかし、傷つき、損なっている、

私たちの神のかたちを癒し、本来あるべき姿に回復させるために、

神は私たちに聖なる霊を与えてくださいました。

そのような、神の愛に溢れる行動について、

使徒パウロはコリントの教会にこのように伝えました。

 

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、

鏡のように主の栄光を映し出しながら、

栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。

これは主の霊の働きによることです。(Ⅱコリ3:18)

 

パウロがここで語る「主」とは、

イエス・キリストのことです。

神の子であるイエスさまこそ、

傷つき、損なわれることなく、

完全なかたちで、神のかたちを持っている方です。

傷ついている私たちの神のかたちが、

神の霊の働きによって、イエスさまと同じ姿へと造り変えられ、

回復されるという約束を私たちは与えられているのです。

どうかいつもあなたを造り変える、神の注がれる愛のわざに、

期待し、希望を持ち続けることが出来ますように。

私たちには出来ませんが、神には出来るのです。

そして、イエスさまは私たち一人ひとりに、語りかけておられます。

「神のものは、神に返しなさい」と。

これは、神のものとされているあなた自身を、

神の計画のために用いて頂きなさいというメッセージです。

神は、実に様々な方法を用いて、私たちを用いることが出来るお方です。

私たち自身の日々の行いを通して、

私たちの持つ能力や知識、立たされている立場や出会う人々を通して、

何よりも、あなた自身の存在を通して、

神は私たちをそのご計画のために用いてくださるのです。

さぁ、「神のものは、神に返しなさい」。