「神の物語を生きる」

「神の物語を生きる」

聖書 サムエル記 下 7:8-17、マタイによる福音書 22:41-46

2018年 9月 30日 礼拝、小岩教会

 

先日、娘と一緒に、娘の好きなアニメを観ていたとき、

登場人物のある一言がとても印象に残りました。

「あなたがたが望むストーリーをボクは生きられない」。

周囲の人々が自分に対して望み、自分自身に押し付けてくる姿は、

本来の自分とは違う。

誰かの理想を押し付けられ、

自分が自分であることを否定されるストーリーなど生きられない。

「あなたがたが望むストーリーをボクは生きられない」。

子ども向けのアニメでしたが、とても考えさせられる一言でした。

それと同時に、きょうの福音書の物語において、

ファリサイ派の人々を前にしたこの時のイエスさまも

似たようなことを感じていたと思うのです。

「あなた方が望むストーリーを私は生きられない」と。

ファリサイ派の人々をはじめ、ユダヤの人々が

救い主メシアに対して抱いていたストーリーとは、

どのようなものだったでしょうか?

 

それは、「ダビデの子」であるということでした。

かつて預言者ナタンを通して、ダビデ王に語られた言葉を

ユダヤの人々は救い主メシアの預言として受け取っていました。

そのため、彼らはメシアを「ダビデの子」と呼び、

何百年もの間、待ち望み続けていました。

 

あなたの家、あなたの王国は、

あなたの行く手にとこしえに続き、

あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。(サム下 7:16)

 

イスラエルやユダヤと呼ばれた国が永遠に続く。

その国を治める王たちの支配が永遠に続く。

このような約束の言葉を、かつて神はダビデに語りました。

神が語られたこの言葉がダビデの子孫を通して実現する日を

ユダヤの人々は待ち望んでいました。

もちろんイエスさまは、

ユダヤの人々が待ち望んでいるメシアが

「ダビデの子」と呼ばれることを否定はしませんでした。

しかし、彼らが考える「ダビデの子」という姿には、

どうやら偏りがあったようです。

彼らが待ち望んでいた救い主とは、

ローマ帝国をはじめ、異教の国々の支配から

ユダヤの国を解放し、人々を導く、

軍事的、政治的な指導者としてのメシアでした。

神の助けによって自分たちの敵を滅ぼす、

あのダビデ王のような勝利をもたらす英雄が、

彼らの抱いたメシアの理想的な姿でした。

しかし、それは、あまりにも狭い「ダビデの子」の理解でした。

彼らの理解していた「ダビデの子」の姿は、

預言者ナタンを通して神が示したことの一部に過ぎませんでした。

神は「あなたがどこに行こうとも、

わたしは共にいる」(サム下7:9)と語り、

救い主を通して、神が共にいることを約束されました。

また、「不正を行う者に圧迫されることはない」(サム下7:10)と語り、

メシアを通して、この地に神の正義と憐れみが訪れると宣言します。

そして、ダビデの子は平和の王であり、平安を与える方であるため、

「あなたに安らぎを与える」(サム下7:11)と神は約束されました。

それにも関わらず、ユダヤの人々は、

「ダビデの子」をあまりにも偏って、

自分たちに都合の良いように理解していたのです。

しかし、「ダビデの子」と噂され、

エルサレムへとやって来たイエスさま自身は、

救い主メシアをそのようには理解していませんでした。

まさに「あなた方が望むダビデの子のストーリーを

私に押し付けないでほしい。

私はあなた方が望むそのストーリーを生きられない」と、

イエスさまは考えていたことでしょう。

それはもちろん、イエスさまが「自分らしく生きたい」

という願いをもっていたからではありません。

人々が押し付けてくる「ダビデの子」という名の物語よりも、

もっと壮大な物語を生きたいと、イエスさまは願っていたからです。

そう、神が計画し、神が大きな目的をもって導いておられる、

神の物語を生きようと、イエスさまは願っていました。

ですから、「ダビデの子」という称号がもつ限界について、

イエスさまはファリサイ派の人々に伝えました。

 

どうしてダビデは、霊を受けて、

メシアを主と呼んでいるのだろうか。

……ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、

どうしてメシアがダビデの子なのか。(マタイ22:43, 45)

 

イエスさまの指摘はもっともです。

メシアは「ダビデの子」であるにもかかわらず、

イエスさまが引用した詩編110篇において、

ダビデから「わたしの主」と呼ばれているのです。

それならば、一体、メシアとは誰の子なのでしょうか?

預言者ナタンを通して、神がダビデに語った約束は

このようなものでした。

 

わたしは彼の父となり、

彼はわたしの子となる。(サム下 7:14)

 

ダビデの子と呼ばれることになる、

救い主メシアについての約束が語られているこの箇所において、

神は明確に、救い主はご自分の子であると伝えています。

「救い主メシアとは、神と特別な関係を結んでいる神の子である」と。

つまり、神と特別な関係を結んでいる者が、

神の計画を果たすために来るということを

神は約束されているのです。

それでは、神の計画とはどのようなものなのでしょうか?

それは、異教徒や他の国々からの支配から

イスラエルの民を解放するといった、

ひとつの民族のためのみの計画ではありません。

神の計画の対象に、ユダヤ人や異邦人といった区別はありません。

すべての人が、神の計画の中に加えられています。

神の計画とは、罪や悪といった、

私たち人間を苦しめる様々なものの支配下から私たちを解放し、

この地に、私たちのもとに天の国をもたらすことです。

神はその計画を実現するために、

私たちに罪の赦しを与え、復活の命と神の国の希望を与えるために、

救い主メシアを送ると約束をされたのです。

イエスさまこそが、神がこの計画の実現のために

私たちのもとに送ってくださった救い主でした。

ですから、イエスさまはユダヤの人々が望んでいたストーリーを

自分のストーリーとして受け入れて、生きることを望みませんでした。

神に遣わされた神の子、メシアとして、

イエスさまは、神が望んでおられるストーリーを歩まれたのです。

私たち人間の、いや、あなたの罪や過ち、汚れや悪に立ち向かい、

苦しみ、もがきながら、十字架の上で息を引き取るという道を

イエスさまは歩みました。

神への深い信頼を抱いて、

イエスさまはこのストーリーを歩んで行ったのです。

イエスさまが神に信頼し切って歩んでくださったから、

私たちには罪の赦しが与えられています。

そして、死者の中から復活されたイエスさまを通して、

復活の生命と天の国における永遠の生命の希望を

私たちは今、喜びをもって受け取ることが出来るのです。

これこそ、イエスさまがユダヤの人々の望んだ物語ではなく、

神の願う物語を歩んだことによって、私たちにもたらされた、

神の恵みに溢れた救いの御業です。

ところで、私たちの周囲は、様々な物語で溢れています。

一人ひとりの人生という名の物語。

時代の価値観が映し出される、成功した人たちの物語。

挫折を経験した人々や苦難の中にある人々の物語。

国家や社会が求める人物を紹介する物語。

自分や友人、両親や教師たちが抱く理想の物語。

そういった様々な物語を見聞きし、

時にはこの物語の中を生きなさいと教え込まれる中で、

私たちは悩みを抱えます。

「一体、何が正しい生き方なのか。

何が最善の道なのか」と。

私たちの人生は、ひとつの物語を歩んでいるようでいて、

実は、自分でもよくわからないことばかりの、

いわば、継ぎ接ぎだらけの毎日です。

だからこそ、私たち一人ひとりの物語を包み込む、

大きな物語こそが、私たちには必要なのではないでしょうか。

それは、「神の計画」と呼ばれる、ひとつの大きなストーリーです。

この神の計画について、使徒パウロはこのように語っています。

 

神を愛する者たち、

つまり、御計画に従って召された者たちには、

万事が益となるように共に働くということを、

わたしたちは知っています。(ローマ 8:28)

 

私たちの人生は、継ぎ接ぎだらけで、

いつもわからないことばかりです。

今、現在の歩みが正しいのか、間違えているのかもわかりません。

でも、そのような私たちを励ますように、

パウロを通して、神はこのように語りかけておられるのです。

「あなたは神に愛されている。

神の計画の中で生かされている。

だから、神の計画の中で、私たちの日々の歩みは豊かな意味をもち、

私たちが継ぎ接ぎと感じるものさえも、

わけも分からず思い悩む出来事さえも、神の目には美しく見えるのだ。

神は、すべてを益としてくださる方なのだから」と。

私たちは、神の物語の中で生きるようにと招かれています。

そして、私たちを神の物語へと招くだけでなく、

神は、その物語の中での歩み方を、

イエスさまを通して私たちに示してくださいました。

どのような時も、神に信頼して歩むこと。

その姿をイエスさまがご自分の生命をかけて、

私たちに示してくださったのです。

「すべてのことを働かせて益としてくださる神が私たちと共にいる。

だから、私たちは神に信頼して神の物語を歩んで行くことが出来る」と。

神の物語を生きる。

それは、誰かの理想を押し付けられ、

自分が自分であることを否定される物語とは違います。

神の物語を生きることこそ、私たちにとって最も善い道なのです。

ですから、私たちはこのように祈りながら、

神に信頼して歩んで行きましょう。

 

「主よ、あなたが私に望むストーリーを歩ませてください」と。