「キリストを見て学び、そしてキリストに倣え」

「キリストを見て学び、そしてキリストに倣え」

聖書 ミカ書 3:5-12、マタイによる福音書 23:1-12

2018年 10月 7日 礼拝、小岩教会

 

イエスさまは、ご自分の弟子たちや群衆の前で、

律法学者やファリサイ派の人々について、

とても批判的なことを語りました。

その批判の内容は、大まかに分けて4つありました。

第一に、律法学者やファリサイ派の人々は、

自分たちが人々に教えていることを実行しませんでした。

つまり、彼らは権威をもって人々を教えるけれども、

その教えに基づいて生きているわけではないと、

イエスさまは指摘されたのです。

もちろん、この問題は、

律法学者やファリサイ派の人々のように、

人にものを教える立場の人だけの問題ではないでしょう。

きっと誰もが抱える課題だと思います。

誰もが理想を抱え、

この口で語るように生きたいと願うけれども、

残念ながら、その理想を完全に実現することは出来ません。

私たちは、そんな自らの弱さを身にしみて感じながら、

語る言葉とその行いが一致するように生きようと奮闘するものです。

その意味で、イエスさまが語る批判は、

すべての人に向けられる内容でもあると思います。

しかし、律法学者やファリサイ派の人々を

イエスさまが批判する理由は、それだけではありませんでした。

 

彼らが語る教えは、時に、

背負いきれない重荷を人々の肩に背負わせるものであったようです。

たとえば、「安息日を守りなさい」という規定について、

何が安息日を守らない行いになってしまうのかを彼らは考え、

聖書の言葉を解釈し、日常生活の細部に至るまで規定しました。

しかし、どうやら律法学者やファリサイ派の人々が教える律法の解釈は、

時として行き過ぎたものになってしまったようです。

律法の解釈は、人々に神の思いを伝え、

人々に神の恵みを実感させ、

その人生を豊かにすることが目的です。

しかし、律法学者やファリサイ派の人々の行き過ぎた律法の解釈は、

神の名の下で人々に重荷を与えるものになっていました。

神の言葉である律法を人々の重荷とすることは、

決して神が願ったことではありません。

というのも、イエスさまを通して、

神は「疲れた者、重荷を負う者は、

だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう」と私たちに伝えておられるのですから。

そのため、人々から安らぎを奪い、

過度な重荷を負わせる律法の解釈をイエスさまは批判されたのです。

また、彼らは、神に栄光を帰するよりも、

自分が敬虔な人間であることを

他の人に見せびらかすことにばかり心を注いでいました。

そのため、イエスさまは彼らのその姿勢をも批判されました。

そして、イエスさまが彼らを批判した4つめの点は、

上座に座ったり、先生と呼ばれることを好んだりと、

他の人々に尊敬を求める姿勢でした。

律法学者やファリサイ派の人々は、

律法を解釈し、人々に教えるという職務を

神から委ねられているのであって、

神の前に立つときは、他の人々と同じ神に養われる羊です。

ですから、教えるという職務を与えられてはいるけれども、

律法学者もファリサイ派の人々も、

その場にいた群衆やイエスさまの弟子たちと何も変わらず、

神の前においては、対等な存在なのです。

彼らは、お互いに愛をもって尊敬し合うことによって、

結び合わされるようにと神から招かれているのです。

このように、律法学者やファリサイ派の人々についての4つの批判を

イエスさまは群衆や弟子たちの前で語りました。

しかし、イエスさまは律法学者やファリサイ派の人々を攻撃するために、

これらのことを語ったわけではありません。

あくまでも、群衆やご自分の弟子たちが

一人の信仰者として、どのように歩むべきかを示すために、

律法学者やファリサイ派の人々について触れたのです。

そのため、イエスさまは彼らを批判しつつも、このように語っています。

 

律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。

だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。

(マタイ23:2-3)

 

律法学者やファリサイ派の人々は、

イエスさまから批判されているように、

自分たちが語る教えの通りに生きることは出来ませんでした。

でも、イエスさまは彼らの教えを否定してはいません。

むしろ、彼らの教えを真剣に受け止め、評価し、

彼らが語ることをすべて行い、また守るようにと命じています。

もちろん、それは、彼らの行き過ぎた教えは含みません。

律法学者やファリサイ派の人々の語る教えは、

時には行き過ぎたところもありましたが、基本的には、

律法を神から与えられたモーセの座に着いている者に相応しく、

聖書に基づいた教えでした。

ですから、そのような彼らの教えに耳を傾け、

その教えをすべて行い、守りなさいと、

イエスさまは招かれたのです。

律法学者やファリサイ派の語ることとは、何よりも、

聖書を通して神が私たちに語りかけていることの解き明かしです。

そして、今のこの時代に、信仰者として如何に生きるのかを

彼らは人々に語り続けました。

ですから、イエスさまは群衆と弟子たちにこのように語りかけたのです。

 

律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。

だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。

(マタイ23:2-3)

 

でも、イエスさまの語ったこの言葉を

真剣に受け止めようとすればするほど、私たちは困難を覚えます。

そんなこと誰も出来ないことに気づかされるのです。

語っている本人たちだって無理なのですから。

そうです、神が私たちに語りかける言葉を

すべて行い、守ることが出来ないのは、

何も律法学者やファリサイ派の人々だけの問題ではありません。

私たち自身の抱えている問題でもあります。

そのため、イエスさまが語ることは真実です。

イエスさまはこう言われました。

 

あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。

あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。

また、地上の者を『父』と呼んではならない。

あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。

『教師』と呼ばれてもいけない。

あなたがたの教師はキリスト一人だけである。

(マタイ23:8-10)

 

この言葉を真剣に受け止めるならば、

私たち一人ひとりが、

イエスさまの前で何者であるのかに気づくことでしょう。

イエスさまご自身が語っておられるように、

私たちの教師はイエス・キリストのみです。

つまり、そうであるならば、私たちは、

イエスさまの弟子として生きるように招かれているのです。

弟子という存在は、助言を求める人たちがいるならば、

彼らを励ますために語ることが出来ます。

でも、神が望む生き方を学ぶために、

弟子である私たちは、毎日のように、

師であるイエスさまの教えを聞くことこそが大切です。

知識としてたくわえるのではなく、

私たちの心に、日々の歩みに、生き方に、

私たちの生涯のすべてに、イエスさまの教えを刻み込むのです。

でも、どう頑張っても、どれほど努力しても、

口で語ったように生きることは、私たちには出来ません。

言葉と行いが完全に一致することが出来ません。

でも、そのような私たちの弱さを知っているから、

イエスさまはこう言われたのです。

「あなたがたの教師はキリスト一人だけである」(マタイ23:10)。

つまり、「私を見つめなさい」と。

イエスさまは、いやイエスさまこそ、

生涯を神と共に歩み、神に信頼し続けたお方です。

イエスさまこそ、ご自分の語った教えを、

「神を愛し、隣人を愛しなさい」という教えを

行いをもって全うされたお方です。

神の思いを受け止め、すべての人の罪を赦すため、

十字架にかかり、犠牲となり、

すべての人を愛し抜かれたお方です。

ですから、イエスさまの弟子である私たちは、

私たちの師であるイエスさまを見つめるように招かれています。

イエスさまは今日も、私たちを招いておられます。

「この私を見つめて、私に学びなさい」と。

そして、私たちはイエスさまを見つめ、イエスさまから学ぶだけでなく、

イエスさまに倣って生きるようにと招かれているのです。

それは、イエスさまと全く同じような歩みをしなさい

という意味ではありません。

イエス・キリストに倣う。

イエスさまに従い、イエスさまのように生きる。

そのことについて、使徒パウロは、

フィリピの教会の人々にこのように語りました。

 

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、

へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、

めいめい自分のことだけでなく、

他人のことにも注意を払いなさい。

互いにこのことを心がけなさい。

それはキリスト・イエスにもみられるものです。

(フィリピ2:3-5)

 

神と人の前にへりくだった態度。

パウロによれば、それこそが、信仰者の一つの姿勢なのです。

へりくだって生きることは、

何よりも、イエスさまが選んだ歩みでした。

イエスさまは、神の子であるにも関わらず、

自分のもつ特権のひとつひとつを脱ぎ捨て、

神と人を愛する道を選び続けました。

そのようなイエスさまの姿勢こそ、

私たちが見つめ、学び、そして倣うべきことなのです。

でも、こう反論したくなるでしょう。

「そんなこと、私たちに出来るのでしょうか?」と。

自信のある人など一人もいないでしょう。

でも、イエスさまは、聖霊を通して私たちを日々新たに造り変える

神のみ業に信頼し、私たちに期待して、こう言われました。

「あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と。

私たちは、師であるイエスさまに従う弟子です。

イエスさまが私たちの師であり続けてくださるから、

私たちはイエスさまに信頼して、

イエスさまを見つめ、学び続けることができます。

イエスさまに倣う歩みを続けることができます。

「あなたがたの教師はキリスト一人だけである」。

そう語られたイエスさまは、

「あなたには出来る」と宣言してくださっているのです。

どうか、あなた方に日々働きかけてくださる、

主イエスの恵みに期待し続けることが出来ますように。