「天の国を生きる」

「天の国を生きる」

聖書 アモス書 5:18-24、マタイによる福音書 25:1-13

2018年 11月 18日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣

 

イエスさまは、「天の国は近づいた」と語ることから、

宣教の働きを始めました。

そして、人々の病を癒し、悪霊を追い払い、

様々な奇跡を行うことによってイエスさまは、

神が救いの手を伸ばし、天の国が近づいているということを

多くの人々の前で明らかにされました。

ところで、イエスさまが伝えた「天の国」とは、

一体どのようなものなのでしょうか?

きっと、多くの人は、ぼんやりとしたイメージを抱いて、

「天の国とは、死んだ後に行く世界のことだ」と考えているでしょう。

でも、そのようなイメージが先行してしまうとき、

聖書が語る「天の国」を誤って理解してしまう危険があります。

イエスさまは、天の国について語るとき、

たとえを用いて語ることを好みました。

ただ、たとえ話というものは決して、

天の国について、人々にわかりやすく語るために

イエスさまが選んだ方法ではありません。

天の国は、神が私たちに恵みとして与えるものであって、

本来、私たちの現実にはないものです。

ですから、天の国は、たとえによってでしか、

表現できなかったのかもしれません。

それでは、イエスさまは、たとえによって、

天の国をどのように表現されたのでしょうか?

さきほど読んでいただいたイエスさまのたとえ話は、

「ひとりの花婿が来るのを待つ、

10人の女性たちのたとえ」でした。

このたとえに登場する10人の女性たちは、

暗闇の中で灯火を持って、花婿が来るのを待っていました。

しかし、花婿の到着は遅れてしまったため、

いつまで待っても彼は自分たちのもとに来ない。

待っている時間が長く、夜になってしまったため、

花婿を待つ女性たちは皆、眠り込んでしまいました。

真夜中になり、花婿が女性たちがいる場所のすぐ近くにやって来たとき、

彼女たちは「花婿だ。迎えに出なさい」という声に起こされました。

すぐさま花婿を迎えに行く準備を整えて、

彼女たちは外に出て行こうとしました。

この時、この10人の女性たちは、

灯火を整えるための油を持っているか、持っていないかによって、

ふたつのグループに分けられてしまいました。

ランプの火を絶やさないために、

壺に油を入れて手元に持っていた女性たちは、予定通り、

花婿と一緒に婚宴が開かれる場所へと行くことができました。

しかし、油を用意していなかった女性たちには、

悲しい結果が待ち受けていました。

この女性たちは、油を用意していたなかったため、

町へ油を買いに行き、灯火を整えました。

しかし、油を買いに行っているその間に、

花婿は用意の出来ていた女性たちと一緒に

婚宴が開かれる会場へ入って行きました。

後から遅れて婚宴の会場へ入ろうとしても、

会場の入り口の扉は固く閉められ、

「開けてください」といくらお願いしても、

「わたしはお前たちを知らない」と、追い返されてしまう。

このような結末によって、物語が結ばれるため、

天の国について思い描きながらこのたとえを聞く時、

私たちは心に不安や恐怖を覚えます。

そして、終わらない自問自答が始まるのです。

「灯火を絶やさずに花婿を待ち続けた賢い女性たちのように、

私はいつも必要な備えをしながら、

私たちのもとに再び来ると約束されたイエスさまのことを

待つことが果たして出来ているのだろうか?」

そして、「たとえに登場する賢い女性たちが、

婚宴の会場に入れたように、

私は、天の国に入ることが出来るのだろうか?」と。

でも、「天の国において、

自分には居場所があるのだろうか」というような、

不安を私たちに与え、私たちを悩ませるために、

イエスさまはこのようなたとえを語られたわけではありません。

イエスさまは、このたとえを通して、

天の国に入るための方法を紹介したのではなく、

天の国がどのようなものであるかについて、

私たちに教えてくださっているのです。

新約聖書が書かれたもともとの言語で、このたとえ話を読んでみると、

「天の国は、灯火をもって花婿を迎えに出て行く

10人の女性たちにたとえられる」という導入によって、

たとえが始まっていることがわかります。

そう、「この物語全体が語ることが天の国だ」というのが、

イエスさまがたとえを通して主張していることなのです。

つまり、このたとえ全体が天の国を示しているというのならば、

婚宴の会場だけが、天の国なのではありません。

10人の女性たちが暗闇の中で、

いつ来るかわからない花婿を不安を抱えながら待っている時もまた、

イエスさまによれば、天の国なのです。

このように、このたとえにおいて、天の国は、

花婿と一緒に入る婚宴の会場だけに限定されていません。

そのため、このたとえは、

婚宴の会場に入れるかどうかが重要だから、

「しっかりと目を覚ましていなさい」

と伝えるために語られた物語ではないのです。

イエスさまはこのたとえを通して、

天の国はふたつの側面があると伝えているのだと思います。

それは、花婿がやって来て、婚宴の席に女性たちが招かれたように、

「天の国が将来私たちのもとに来る」という側面。

そして、暗闇の中で火を灯しながら

花婿の到着を待っているのが天の国だと言われているように、

「天の国はすでに私たちのもとに来ている」という側面です。

これらの側面、両方とも天の国なのだと、

イエスさまはこのたとえを通して示しておられるのです。

もちろん、イエスさまは、

この地上が天の国そのものだと言っているのではありません。

私たち人間の努力で、この地上の現実を改善して、

頭を悩ませる問題を解決し、

天の国へと発展させていこうという意味でもありません。

天の国は、イエスさまを通して、

神の恵みによって、この世界に訪れ、

私たちの間に実現しているものです。

ですから、天の国とは、このたとえにおいて、

暗闇に覆われている中で、女性たちがその火を絶やさないようにと、

懸命に守り続けていた、あの灯火に似ているのかもしれません。

暴力や差別、貧困や不正義といった、暗闇に覆われている世界の中で、

私たちは神が与えてくださった希望を灯火として手に持ち、

この光を頼りに歩み続けています。

自らの罪や人の悪に落胆し、失望し、

この世界に暗闇が広がっているように思えてしまうけれども、

それでも神は私たちを決して見捨てずに、

「愛する子よ、それでもあなたを赦そう」と宣言してくださいます。

このような慰めに満ちた神の愛は、私たちの人生を照らす光です。

また、心をすり減らすことの多い日常の中で、

ふとした時に気づく神の憐れみは、私たちを照らす希望の光といえます。

このように、神から与えられている恵みを灯火として持っているから、

天の国が私たちのもとに訪れると、

私たちは確信をもって待ち望むことが出来ます。

今は暗闇で覆われているかもしれないけれど、

イエスさまが来て、天の国が完全な形で訪れる時が来るのです。

その時、天の国が訪れる時、

預言者アモスが語ったように(アモス5:24)、

正義が洪水のように尽きることなく流れて来るに違いありません。

神の恵みの業が大河のように、

尽きることなくこの世界に流れて来るに違いありません。

そのような希望を闇の中に輝く光として抱きながら、

私たちは日常の中で、今この時、その一瞬一瞬において、

天の国を生きることが出来るのです。

でも、感謝すべきことに、

闇の中で光を灯して生きる日々だけが、天の国ではありません。

暗闇に覆われている中で灯火を持って歩むことが

私たちに与えられている天の国のすべてではありません。

暗闇に覆われる日々はやがて終わりを告げ、

義の太陽が昇り、この世界を照らす日が必ず訪れます。

神が正義をもってこの地を治め、

平和をもたらしてくださる日が訪れます。

罪も、悪も、そして死さえも、

神が滅ぼしてくださる日が訪れます。

まさに、天の国は将来、喜びの時として訪れるのです。

私たちはこのような将来の希望を

今与えられている天の国を通して知ることが出来るのです。

このように、神が私たちに与えてくださる天の国は、

ふたつの側面を持っています。

天の国は既に私たちのもとに来ています。

それと同時に、将来、私たちのもとに完全な形で訪れます。

ですから、私たちは、今現在の天の国の現実を喜びつつ、

将来の天の国に希望を置いて歩んで行きましょう。

それが天の国を生きるということなのですから。